忘れえぬ約束を、忘れられた時の向こうに





「……あ、れ?」
 碧の瞳を何度も瞬かせ、シオンは急激に変化した光景を慌しく見回した。
 花の匂いをふくんだ風が吹き、白のマントと薄茶の髪をなびかせていく。心が洗われるような甘い香りは、綺麗に刈り込まれた棚に巻きつく蔓薔薇(つるばら)のそれだ。いたるところに石造りのベンチが並び、緑の天蓋が木漏れ日を降らせ、広々とした庭園を計算されつくした美しさで彩っていた。
 見覚えのある豪奢な風景に、突如として『出現した』少年は愕然として目を見開いた。
「スティルヴィーアの、中庭?」
 呆然とした呟きを漏らし、シオンは右手を伸ばして自分の頬をつねってみた。
「………痛い」
 痛みを感じるということは夢ではない。だが、あらゆる事態に耐性がついてきたシオンとて、いきなり変化した風景には愕然とせずにはいられなかった。
「えぇと、あれ? なんでここに……っていうか、確かついさっきまでカイゼル様のお屋敷の庭でアポロに餌を……あれ? えぇっ?」
 狼狽するシオンをからかうようにして、柔らかな風が整えられた中庭を吹き抜けていった。髪を乱された拍子に我に返り、シオンは光の降りしきる庭園をきょろきょろと見渡す。不夜城スティルヴィーアは神聖なる皇帝の居住だ。その中庭に許可もなく侵入した挙句、間抜け面をさらして突っ立っているなど、自ら望んで死刑執行書にサインするようなものである。気づいたらここにいたんです、などという言い訳が通用するはずもない。
 誰かに見咎められる前に屋敷へ帰らなければ、という焦りが胸中にせり上がってくるが、皇宮から退去する場合、『正苑』と『外苑』の衛士に名を告げて門を開けてもらう必要があった。それはスティヴィーアに足を踏み入れる時も同様で、不審人物の侵入をふせぐだけでなく、皇宮内にいるはずのない人物を決して外に逃がさないようになっている。その皇宮を二重の壁が囲み、魔術師達による結界が張られ、美しい皇帝の居住を難攻不落の城砦と言わしめるに至っていた。
 シオンは途方にくれた表情で頭を抱えた。いつものようにカティの手ほどきを受けた後、友達である若い鷹に干し肉をやっていただけなのに、気がつけば約3フィーリア(6キロ)も離れた皇宮の中庭に立っていたのだ。入ってきた方法がわからない以上、同じ方法で出て行くのはどう考えても不可能である。帝国最高位の魔術師『レイター』でもない限り。
「ど、どうしよう……」
 シオンの頭にあったのは、不法侵入罪で捕まるかもしれないという不安でも、空間を飛び越えてしまったことによる恐怖でもなく、このままではカイゼルに迷惑をかけてしまうという思いだけだった。ある意味では侍従の鑑と言えるだろう。自分自身の安全を考えるより先に、呼吸をするような自然さで主君に迷惑をかけない方法を探しているのだから。
「……とりあえず、誰か探さなきゃ」
 意を決したように一つ頷き、シオンは吹きさらしになっている回廊に向かって足を踏み出した。誰かに見つかって「御用だ」となるのを待つより、自分から事情を説明しに行った方が賢明だと判断したからだ。知り合いの第一位階の騎士様に会えないかな、という儚い望みを抱きつつ、シオンは足音を忍ばせて建物へ近づいていった。
 スティヴィーアの建物はどこでもそうだが、驚くほどの透明感を持った白い石で作られ、光や風が表面を撫でるたびに星のような煌きを散らしていた。それは吹きさらしになった回廊も例外ではない。丸い列柱も、それに支えられた天井も、回廊と庭をつないでいる階段も、水の揺らめきを思わせる光を抱いて輝いていた。
 その眩しさに目を細めたところで、シオンは何かに気づいたように瞳をしばたたかせた。石段を上ろうとしていた足が宙で止まる。
「あれ……?」
 具体的に説明することはできないが、数ヶ月前に見た皇宮と比べ、景色の中にひそむ『何か』がほんのわずかに違っていた。塗り方だけを変えて仕上げた同じ絵のように。十年ぶりに訪れた同じ場所のように。
「……気のせい、かな?」
 無視するには大きすぎる『違和感』だったが、まさかここで立ち往生するわけにはいかず、シオンが意を決して石段の上に爪先を乗せた瞬間だった。
「そっちに行くと危ないですよ?」
 風に溶けてしまいそうな声が鼓膜を打ち、シオンは弾かれたように背後を振り返った。その両目が大きく見開かれる。驚愕に満ちた視線を受け止め、どこかとらえどころのない微笑を浮かべているのは、長い髪を風に流した美しい少女だった。
 年の頃は十四、五歳といったところだろう。白を基調とした長衣をまとい、その上に艶やかな漆黒の髪をなびかせ、睫毛に縁取られた目を伏せるようにして淡く笑っている。折れてしまいそうに華奢な体躯だったが、信じがたいことに、白の衣装の上に第二位階の騎士の証である群青色のマントを羽織っていた。よく見れば腰にも細身の剣が下げられ、儚げな容貌を凛と引き締めるのに一役買っている。
 だが、シオンの驚愕はマントの色に向けられたものではなかった。
「セッ………」
「え?」
 シオンの様子を不思議に思ったのか、少女が伏せていた睫毛を持ち上げて目を瞬かせた。
 睫毛の下からあわられた色彩は、息を呑むほど神秘的に輝く青みがかった銀だった。色素の薄い青でも、光の加減で銀のように見える灰色でもない。真昼の日差しの下で見つめようと、夜の月明かりの中で覗き込もうと、薄く青を溶かし込んだ銀色にしか見えない色彩。稀有と言ってさしつかえない色合いだったが、シオンはこれとまったく同じ色をした瞳を知っていた。見慣れていた、と言いかえてもいい。
 セスティアル様っ、と反射的に叫びかけ、シオンはすんでのところで声を飲み込んだ。いくら何でもありえないことだったからだ。女性と見紛う美貌の持つ主とはいえ、セスティアルは今年で二十五になる青年であり、十四、五歳にしか見えない少女と間違われるような年齢ではないのだから。
 目を白黒させているシオンを見やり、どこまでも優雅な仕草で首を傾げると、少女は自分を背後を指差しながら口を開いた。
「逃げるならそっちじゃない方がいいと思いますよ? 空間が歪んだのはきっと他の人間にも伝わったでしょうし、いつまでもここにいたらつかまってしまいますから。……ああ、あなたは不法侵入者、ですよね?」
「あ……えっと」
「あれ? 違いますか?」
「いや、その……」
 滑稽なほどしどろもどろになりつつ、シオンは頬を赤らめてひとつ頷いた。
「……多分、不法侵入だと、思います」
 多分不法侵入、という言い回しがおかしかったのか、少女は鈴が鳴るような声でくすくすと笑い、シオンに向かって白くほっそりとした手を差し出した。そのまま半身を翻して足を踏み出す。
「じゃあこっちに。逃げるなら手伝ってあげます」
「え?」
「あなたの周りに吹いてる風が、あなたのことを『悪い人じゃない』って言ってるんです。それどころか逃がしてやれと。―――あなたがここに迷い込んだのは『事故』みたいですからね」
「…………」
 困惑したように立ち尽くすシオンに、少女は歩き出しかけた体勢のままにっこりと笑った。
「大丈夫。衛兵に突き出したりはしませんよ。信用して下さい」
「……え」
「大丈夫ですから」
 稀有な銀青の双眸が柔らかく笑う。
「僕たちの使う脱走用の抜け道を使えば、多分衛兵に見咎められることなく外に出られますよ。転移で送ってあげられれば早いんですけど、さすがにここで魔術を使ったらバレてしまいますからね」
 とりあえず外に出ましょうか、という声を受け、シオンは慌しく歩き始めた少女に従った。差し出された手をためらいがちに握りつつ、今聞いた言葉が信じられない、というように碧の瞳を見開く。
「…………『僕』?」
 呆然としたシオンの呟きに答えたのは、首だけで振り返った『少女』の輝くような笑顔だった。






  


inserted by FC2 system