お互いに名は名乗らなかった。
 名乗りそびれたというより、相手の名前を聞きたいと思う精神的余裕も、あらためて互いに自己紹介する暇も一切なかったのだ。シオンが相手について知りえたのは、この美貌の持ち主がれっきとした『少年』であるということと、年齢が十四歳であるということと、騎士団第二位階の騎士であるということだけだった。
 シオンの手を引いたまま、少年は迷いのない足取りで蔓薔薇の生垣を抜け、『正苑』を取り囲む城壁の一部へと足を向けた。例に漏れず、この城壁も透きとおるような白さをいっぱいに湛えて煌いている。美貌の少年はそこを目指して歩いているようだった。
「……ひょっとして、あの城壁を越えるの?」
「はい」
 恐る恐るといった風情で問いかけたシオンに、少年は振り返ることなくきっぱりと言い切ってみせた。思わずその場に倒れこみそうになり、シオンは持てる力のすべてを持って懸命に踏みとどまる。
「えぇと……ね。何ていうか、僕の腕力じゃあれをよじ登るのは不可能な気がするんだけど……」
「ああ、それは大丈夫ですよ。僕の腕力でもあれを越えるのは無理ですから」
 そこで銀青の瞳がちらりと振り返り、シオンを見やっていたずらっぽく輝いた。
「そうじゃなくて、抜け道を使うんです」
「抜け道?」
「はい。僕たちがよく脱走に使う抜け道があるんです。まあ、秘密の道なんですけどね」
 先ほども耳にした言葉だが、なぜか脱走という言い回しを聞き流すことができず、シオンは薄茶色の髪を揺らして首を傾げた。
「……脱走?」
「そう、脱走。……僕たちはまだ、この皇宮から出ることができない身なんです。だからここで待っていなければならないんですけど、やっぱり外に出たくなる時もあるので。そういう時に使う秘密の抜け道があるんです」
「…………」
 言われた内容の半分も理解できなかったが、シオンは胸の奥が小さく痛んだのを感じ、改めて前を歩く華奢な後姿を見直した。星を散りばめたような黒髪が揺れ、青いマントの上に夜空色の流れを作っている。それはひどく見覚えのある光景だった。髪の長さと、まとっているマントの色と、目線の高さだけを変えてしまえば、シオンが毎日のように目にしている姿と寸分の狂いなく重なるだろう。血のつながった実の兄弟だ、と言われても即座に納得してしまうに違いない。
 本当に兄弟だったらどうしよう、と思いつつ、シオンは涼しげな様子で揺れる漆黒の髪を見つめた。その真摯な眼差しに気づいたのか、少年は歩きながらくるりと背後を振り返る。
「どうしました?」
 そう言って目元をなごませる表情も、わずかに細められた銀青の瞳も、シオンがよく知る人のそれとほとんど変わらないものだった。だけど、とシオンは胸中に呟きを漏らす。ただ瞳に宿る光の強さだけは、シオンの知っている美貌の魔術師と決定的に違っていた。
 セスティアルの瞳はいつも強い光を宿していた。柔らかく笑っている時だろうと、カイゼルの補佐として仕事に従事している時だろうと、廊下ですれ違ったシオンに手を振ってくれる時だろうと、青みがかった銀の双眸は深く揺るぎない光を湛えて前を見ていた。その強さだけが眼前と少年と明らかに違っている。その差異が不思議なほど悲しかったのだが、面と向かって本人に告げるわけにはいかず、シオンはいやえっと、という狼狽した声を漏らしながら視線を泳がせた。
 意図しない言葉が無意識のうちに滑り出てくる。
「その、待ってなきゃいけない、って言ってたけど。君は、ここで……」
「はい?」
「何を……誰を、待ってるの?」
 声に出して問いかけてしまってから、自分は何を唐突に、という自己嫌悪の念にかられ、シオンは少年に手を引かれたまま情けない表情を作った。それを見やって少年が瞳を見開く。意外なことを聞かれた、というように。
「……そう、ですね」
 月を思わせる瞳が淡く微笑した。
「僕は、我が君を待ってるんです」
「…………え?」
「この名と、命と、魂を捧げて仕えるに足る人を。ここで、ずっと待ってるんです」
「…………」
 それは皇帝陛下じゃありませんでしたから、という実に際どい呟きを零して、少年はほんのわずかに悲しそうな表情を閃かせた。
「変かもしれませんが、どこかにいらっしゃることはわかるのに、それが誰だかはわからないんです。だから、時が満ちて、その方にお会いできるのをここで待ってます。……それが、僕たちに許された『権利』であり『義務』だから」
 その言葉を聞いた瞬間だった。シオンの中で何かが噛み合い、おぼろげだった思いが確信に変わったのは。何の論理的根拠も証拠もないまま、悲しげに微笑している少年の正体に思い至ったのは。
 無言で目を見張るシオンに笑いかけ、少年は銀青の双眸を前方に戻した。いつのまにか休みなく動かしていた足が止まっている。少年がじっと見つめているのは、城壁の近くにひっそりと佇む、片手に剣を構えた勇ましい武将の像だった。
「これは……?」
 シオンの呟きには答えず、少年は優しい仕草で握っていた手を解き、像の真下に屈みこんで石の一部を押した。ガコン、という音を立てて石造りの像が1リート(1センチ)ほど浮き上がる。少年が軽く端の部分を押すと、武将の像は台座ごとぐるりと回転し、その下に隠されていた真四角の穴をさらけ出した。
「ここは皇宮ですから、ちょっと探せばいたるところに隠し通路があるんですよ。これは地下の用水路につながっています。下に下りていって、突き当たるまでずっとまっすぐに進めば、人通りの少ない皇宮の裏手に出られますよ」
 細い指で薄暗い穴を指し示し、少年はシオンを見上げてにっこりと笑った。シオンもつられたように笑みを浮かべる。
「ありがとう。……でも、よかったの?」
「はい?」
「秘密の通路なのに、僕なんかに教えちゃって。いや、もちろん、助けてくれたのはすごく嬉しいし、感謝してるんだけど……」
 自分が信用に値しない人物だったらどうするのか、という思いを込めて見つめるシオンに、少年は冗談めかした表情で目を見張ってみせた。
「あなたはひょっとして極悪人だったりするんですか?」
「えっ!?」
「違うでしょう? 勘、というわけじゃありませんが、あなたは悪い人じゃないっていうことくらいわかります。この世界に満ちる魔力の流れが、突然この中庭に現れたあなたのことを拒んでませんでしたから。……それどころか歓迎してるように感じるんです。あなたからはほとんど―――まったくと言っていいほど魔力を感じないのに」
「…………」
「それに、本当に悪い人は『僕なんかに教えていいのか』なんて聞かないものなんですよ」
 ね、と呟いて首を傾げると、少年は優しい動作でシオンの背を押しやった。
「それより、早くここから逃げて下さい。この皇宮には数多くの魔術師がいます。空間を越えて誰かが侵入してきたことに気づかないはずがありませんから」
「……そう、だね。うん」
 四角い穴の傍へ歩み寄り、シオンは縁に手をかけて身を乗り出した。穴の側面に金属製のはしごが取りつけられ、底の見えない薄暗がりの中へと続いている。ほんのわずかにかび臭い匂いが漂ってきたが、シオンが想像したような悪臭も、じっとりと湿った空気も、絡みついてくるような深い闇も存在していない。これなら一人でも迷わずに進んでいけるだろう。
 ほっと安堵の息を吐き、慎重な動きではしごに足をかけると、シオンは自分を助けてくれた美貌を少年に笑みを向けた。
「本当にありがとう。すごく助かったよ」
「いいえ。僕の方こそあなたに会えて嬉しかった。魔力の片鱗すらまとわず、それでも確かにこの世界に歓迎された方」
 奇跡のような美貌を微笑に溶かし、少年は胸の前に腕を掲げて一礼した。シオンはふっと碧の瞳を見張る。舞うように腕を掲げ、黒髪を揺らしながら腰を折り、何よりの忠誠と喜びを込めて主君に礼を施す青年が、目の前に佇む少年にぴたりと重なって見えたからだ。
「あ……っ」
「え?」
「あ、いや……その」
 はしごに両足を下ろし、上半身だけを地上に出しているという微妙な体勢のまま、シオンは何かに急かされるようにして言葉を続けた。自分自身に言い聞かせるように。
「その、ね」
「はい?」
「その、きっと……きっと、必ず会えるから」
「は?」
「きっと、君が……あなたが、命と魂をかけて仕えるに足るような、すばらしい方に出会えるから」
「…………」
「その方のもとで、また」
 僕とあなたは会えますから、というシオンの言葉に、少年は虚をつかれたような表情で瞳を瞬かせた。言葉の意味がとっさに理解できなかったのかもしれない。
 だが、すぐに青みがかった銀の瞳をふわりと細め、シオンが見慣れた優しい笑みを作ってみせた。
「はい」
 少年の髪を撫でるように風が吹く。その風が思ったより強かったせいか、次の少年の言葉はひどく曖昧で、水の膜を通したように遠くにしか響かなかった。
「はい。また……」
 それでも、シオンの耳には確かに、またあなたに会えるのを楽しみにしています、という穏やかな声が聞こえた。




「……で、お前はここで何をやってるんだ?」
 通りの良い美声がすぐ近くで聞こえ、シオンは文字通り弾かれたように飛び起きた。とたんに布団代わりにしていたマントがずり落ち、丈の短い草の上に音もなく広がる。ばたばたと忙しなく首をめぐらせ、寝起きの頭で何とか状況を把握すると、シオンは目の前に立っている青年を見上げて大きく目を見開いた。
「かっ……」
「あ?」
「カイゼル様……!?」
「何だ」
 心から呆れたように片眉を吊り上げ、カイゼル・ジェスティ・ライザードは胸の前で両腕を組み合わせた。榛色の髪が陽に煌き、まるで燃え盛る炎のように青年の姿を縁取っている。
 シオンは感動の表情で主君を見上げたが、すぐに自分がどんな体勢でいるかに思い至り、すすすすみませんっ、という騒がしい声を上げながら立ち上がった。その様子に軽く目を細め、カイゼルは木陰でうたた寝をしていた侍従に笑みをふくんだ視線を向ける。ずいぶんと度胸がついてきたじゃないか、というように。
「中々戻ってこないと思ったらこんなところで午睡か。いい身分だな、シオン?」
「す、すみませ……」
「それとも何だ? 仕事に慣れてきたせいでたるんできたか?」
「…………うっ」
「だったらもう少し難しい仕事を任せた方がいいな。ちょうど帝都の外れまで使いを出す用事があるんだが、何ならお前に馬で行ってもらうか。……何だ、どうしたシオン? 光栄すぎて声も出ないか?」
「うぅぅっ」
 叱られた犬でもここまで縮こまるまい、というほど小さくなる侍従の少年に、カイゼルは無言で楽しげな笑みを閃かせた。この場に美貌の魔術師がいれば上手くとりなしてくれただろうが、ほどよい微風の吹きぬける木陰にはカイゼルとシオンの二人だけしかいない。シオンは自力で主君の『侍従いじめ』を切り抜けなければならなかった。
 もっとも、カイゼルがシオンをいじめるのは一種の捻じ曲がった愛情表現だ。小動物の前からわざと餌を遠ざけ、それを取ろうと必死になっている様子を見て楽しむ飼い主、という表現が一番近いかもしれない。シオンはそれを自覚していたが、だからと言って主君にいじめ倒されて嬉しいはずもなく、しょんぼりとうなだれながら懸命になって頭を下げた。
「……本当に申し訳ありませんでした。あの、寝るつもりはなかったんですけど、気がついたら寝てたというか、夢を見てたというか……」
 そこでふいに言葉を切り、シオンはあれ、と呟いて小さく首を傾げた。確かに夢を見ていたはずなのだが、その内容がひどくおぼろげにしか思い出せない。ただ悲しく、楽しく、寂しく、喜ばしい夢だったという、どう考えても矛盾する印象が胸の中に残っているだけだ。ますます訝しげな表情で首をひねるシオンに、カイゼルは組んでいた腕を解いて手を伸ばした。
 そのまま何の前触れもなく額を弾かれ、シオンは勢いあまって思いきり背後へのけぞった。
「痛っ……って、えっ……!?」
「謝っていたと思ったら今度は百面相か? 忙しいやつだな、お前は」
 眉間に皺を寄せながら視線を流し、カイゼルは唇の端を吊り上げて微笑を作った。
「セスが呼びに来たな」
「……え」
「お前がいつもの時間通りに戻ってこないからだ。このままじゃ仕事に支障が出ると思って呼びに来たんだろう。――――何してる? 行くぞ、シオン」
「えっ、あ」
 はいっ、という元気の良い声を上げ、シオンは屋敷に向かって歩き出した主君に従った。その頭上で鳥の羽音が響き、一羽の鷹がシオンの後を追うようにして滑空してくる。
 ふいにやわらかく緩んだ風が吹き、木立の向こうに立っている人の黒髪をなびかせた。歩み寄ってくるカイゼルとシオンに気づいたのか、黒髪の魔術師は遠目でもわかるほど穏やかに微笑し、軽く腰を折って優雅な礼を施す。ひどく満ち足りた表情を浮かべながら。
 その光景に泣きたくなるほどの喜びを覚え、シオンはふわりと、惜しみなく降り注ぐ木漏れ日のように笑った。






  


inserted by FC2 system