雨が降り止み、雲が切れ 1





 今にも泣き出しそうな空を見やり、ロカは嫌そうな表情で溜息をついた。雨そのものは一向に降り出す気配を見せないが、じっとりとまとわりついてくる湿気のせいで、目の前に積み上げられた薪(たきぎ)がくすぶった煙を噴き上げている。このまま外でねばり続けるか、諦めて天幕の中に避難してしまうか、傭兵になって三年目のロカでも迷う天候だった。
「……だめだな、ちょっと湿気がひどすぎる」
 ふう、とばかりに重い溜息をつき、ロカは手にした枝を薪の中に放り込んだ。ひとり言めいた呟きが聞こえたのか、横を通りかかった同僚が小さく笑い、背後に張ってある天幕を無骨な親指でさし示す。
「天気ばっかりはしょうがねぇだろ。ま、あったかい食事は諦めて携帯食にするんだな。この分じゃ夜のうちに降ってくるぞ」
「……ですね」
 木々の開けた場所に慎ましく張ってある、粗末だが使い勝手のよさそうな天幕を振り返り、ロカは十歳ほど年の離れた同僚の男に苦笑を向けた。
 ロカが団員に名を連ねる少人数の傭兵団、『ティオラ』を始めとする多くの傭兵たちは、『硝子の王国』レフュロスの北方に位置する地方都市、ロナ・レスタの『黒き森』を行軍中だった。背後にはロナ・レスタの駐屯軍がひかえているが、何もこれからどこぞの国や街を攻めに行くわけではない。彼らの目的はただひとつ、『黒き森』に隣接する集落に現れ、人を襲うようになった魔獣を討伐してほしいという、ロナ・レスタの領主ヴァレンディアの依頼をこなすことにあった。
「……にしても、今回の仕事はちょっと怪しい感じですよね。魔獣は下位の地竜(ちりゅう)だって話ですけど、それならわざわざ駐屯軍まで出す必要はないでしょうし」
「確かにな。つーかあの領主、ロナ・レスタの平和のために魔獣を討伐してほしいなんて言いつつ、実際はこの『黒き森』をぶち抜いて隣街までの道を作りたいだけらしいぜ。それで森に住んでる魔獣が邪魔になったんだとか」
 馬鹿にしたような態度で小さく笑い、男は肩をすくめてまあ、と呟いた。
「そうは言っても、うちみたいな傭兵団には仕事を選んでる余裕なんかねぇんだけどな。その辺は持ちつ持たれつ、ってやつだ」
「ですよね」
 ばたばたと片手を振ってみせる男に笑いかけ、ロカは煙を噴き上げている薪の上に土をかぶせた。そのまま身軽な動作で立ち上がり、革の防具に包まれた腕をぐぐっと伸ばす。
 ロカは今年で十九になったばかりだが、厳しい鍛錬と民族的な特徴のおかげで、年上の同僚たちと比べても遜色ない強靭な体躯を誇っていた。短く切り散らした砂色の髪にも、淡い若草色を湛えた切れ長の目にも、ほどよく日焼けした小麦色の肌にも、少年らしい清涼感と武人らしいたくましさが同居している。以前は少年兵として正規軍に所属していたため、傭兵らしい立ち振る舞いの中にもきっちりした礼儀正しさが見え隠れしていた。
「……あれ?」
 さっさと歩き出した同僚にならい、『ティオラ』の天幕に向かおうと足を踏み出したところで、ロカは何かに気づいたように瞳を瞬かせた。
 ロカの注意を引きつけたのは、くたびれたフードをすっぽりとかぶり、離れた位置で木の幹にもたれかかっている、男とも女ともつかない細身の人物だった。じきに春の足音が聞こえている季節とはいえ、日によっては真冬並みに冷え込むことも少なくはないというのに、その人物は薄手のマントをまとっただけで平然とたたずんでいる。
 ロカは小さく首を傾げた。地竜の位階は確かに低いが、それは竜族の中だけの分類であって、全体的に見れば最高位の魔獣の一種に他ならない。そんな地竜の討伐に来た以上、かなりの腕の持ち主と考えて間違いないのだろうが、それにしてはその人物のまとっている空気はあまりに微弱すぎた。あたりに転がっている石ころのように、あるいは風に揺れている野の草のように、奇妙なほどひっそりした風情で周囲の景色に溶け込んでいるのだ。
 そんな相手に注意を引かれた理由がわからず、ロカは困惑したように形のよい眉をひそめた。
「……ロカ、どうした? 何かおもしろいもんでもあったか」
 立ち止まったままのロカに気づき、先を歩いていた男が怪訝そうな表情で振り返った。我に返ったように両目をしばたたかせ、ロカはいえ、と首を振りながら止まっていた歩みを再開させる。
「あの、リドさん」
「あん?」
「あそこにいる人、誰だか知ってますか? 顔は見えないんですけど、木のところにいる女の人みたいな……」
「ああ、あれか」
 ロカの視線を追って顔をめぐらせ、リド、と呼ばれた男は無精ひげの生えた顎を撫でた。
「何だ、おまえもまだまだだな、ロカ」
「は?」
「あれは女じゃなくて男だ。どんだけ細っこくてもそんくらい見分けられるようになれよ。そんなんじゃ男失格だぞ」
「……はぁ」
 すみません、と素直な態度で頭を下げるロカに、リドは顎に手を当てたままフードの人物を眺めやった。太い眉をわずかに持ち上げ、いかつい顔に呆れの表情をよぎらせる。
「つってもなぁ。いくら男だっていっても、あれだけ細っこいんじゃ体が資本の傭兵は務まんねぇだろ。一発殴られただけでポキッといっちまうんじゃねぇか?」
「……でも、世界には美の神シェランティールもかくや、っていう繊細な外見なのに、戦神シエルに匹敵するほど強い人だっていますよ」
 思わず、と言った風情で口をはさんだロカを見返り、リドは実に楽しそうな表情でにやりと笑った。
「またか。おまえさんも好きだよな、その『戦神の御子』とやらの話が」
「好きとかそういうんじゃありませんよ! ……っていうか、リドさんたちが話半分にしか聞いてくれないから悪いんじゃないですか」
「人聞きの悪いこと言うなって。男だけどシェランティール並みに綺麗で、細っこいけどシエル並みに強くて、人間だけどアーカリア並みの魔術師で、おまえの命を助けてくれた恩人なんだろ? ちゃんと聞いてるじゃねぇか」
「……何ていうか、すごく馬鹿にされてるような気がするんですけど」
 むっとしたようにリドを睨み、ロカは短い砂色の髪をがしがしと掻いた。
「全部本当のことなんですからね。おれが膝を折ってもいいと思えたのは、おれの仕えた国王陛下と、おれたちを助けてくれたあの方だけですから」
「――――っていう意思を貫いた挙句、せっかくの仕官の話を断って傭兵になっちまったんだよな。若いわりに頑固っていうか何ていうか」
 リドは心底呆れたように肩をすくめたが、その口調には少年の生き方に対する好意が強く滲んでいた。
 ロカとリドの所属している『ティオラ』は、団員が見習いを合わせても二十人にすら届かない、あらゆる意味で規模の小さな傭兵団だった。おかげで懐事情はいつも厳しかったが、団員同士が家族のようなつき合い方をしているため、いざという時の結束力は最強の傭兵団『グランディア』にさえ匹敵する。四年前の戦で守るべき祖国を失い、受け入れられた国での仕官を蹴ったロカが、一人前の傭兵として生計を立てていけるようになったのも、彼を受け入れてくれた『ティオラ』のおかげに他ならなかった。
 そんな確固たる絆があるからこそ、遠慮のない口調で受け答えをしてくるリドに、ロカは切れ長の瞳をゆるめてくすぐったそうな笑みを作った。
「別に頑固でいいんです。他の王になんて仕えるつもりはありませんでしたし。……っていうか、まだ最初の質問に答えてもらってなくないですか、おれ」
「そういや話がずれたな。あそこにいる細っこいやつの話だったか?」
 つられたようにへらっと笑いつつ、再びフードの人物へと視線をやったリドは、虚をつれた風情で細い目を見開いた。
「……何だ、いねぇじゃねぇか。話してるうちにどっか行っちまったか」
「あれ、本当ですね」
 いつの間に姿を消したのか、きょろきょろと周囲に視線を走らせても、そこにいた人物を見つけ出すことはできなかった。
 彼らが休憩を取っている野営地は、森の中とは思えないほど大きく開けた場所に、大小さまざまな天幕を張ることによって作られている。そこに腰を落ち着けている傭兵は百人近くにのぼるだろう。その中にまぎれてしまったのだとしたら、ただ姿を見かけただけのロカたちに、あの目立たない人物を見つけ出す術はなかった。
「ま、しょうがねぇな。結局顔は見られなかったが、知り合いじゃねぇことだけは確かだ。おおかた小金をかせぎにきた魔術師か何かだろ」
「……ですね」
 納得したように頷いてみせたが、あの人物を見失ってしまったことが不思議なほど残念に感じられ、ロカは自分でも無意識のうちに眉間へ皺を寄せた。
 その瞬間、ぎりぎりで堪えていた空がついに泣き出し、ロカの額に最初の雨粒を弾けさせた。ぽつり、ぽつり、と落ちてきた雫が勢いを増し、あっという間に乾いていた地面を色濃く塗りかえる。
「……あ」
「降ってきたな」
 やれやれ、と言わんばかりに空を仰ぎ、リドは『ティオラ』の天幕に向かって顎をしゃくった。
「とりあえず、天幕ん中に避難するぞ。食事はそこでもできるだろ」
「はい」
 リドの言葉に頷きを返し、その背に従って足を速めながら、ロカはもう一度だけ『彼』のいた位置を振り返った。
 どれだけ目を凝らしてみても、そこにあるのは太い幹を持った木々だけで、そこにひっそりとたたずんでいた人物の気配を見出すことはできない。その鮮やかすぎる消失の仕方が、すべてが幻だったように感じられる切なさが、四年前に目にした金色のひかりを思い出させるようで、ロカは感傷を振り切るように大きく頭(かぶり)を振った。






    


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