雨が降り止み、雲が切れ 2





 頬にひんやりとした空気を感じ、ロカは『ティオラ』の天幕の中で目を覚ました。
 驚くほど深い闇の中、聞こえてくるのはいまだ止まない雨の音だけで、あたりは深夜という時間帯にふさわしい静寂に沈んでいる。物音を立てないように上半身を起こし、幼い表情でこみ上げてきたあくびを噛み殺すと、ロカはせまくも広くもない天幕に視線を走らせた。じっと目を凝らしてみれば、入り口に垂らされた布がかすかにめくれ、吹き込んでくる風にひらりひらりと揺れ動いている。
「……ああ」
 この風のせいで目が覚めたんだな、と納得したように呟き、ロカは慎重な動作で厚手の毛布から抜け出した。全員が毛布にくるまっているとはいえ、このままでは入り口付近の同僚が風邪を引きかねない。毛布の塊を踏まないように注意しつつ、暗い天幕の中を手探りで進み、ロカはめくれている布をどうにかしようと手を伸ばした。
 その時だった。
 垂らされた布を引き上げ、何気なく外を見やったロカの視界に、野営地を出て行こうとしている細い後ろ姿が映った。少しずつ激しさを増していく雨のせいで、外は思わず顔をしかめたくなるほど冷え込んでいたが、マントをはおった人物がその寒さを気にしている様子はない。『ティオラ』のそれより外側に張られた天幕をとおりすぎ、その人物はあっという間に夜の森の中へと消えていってしまった。
 それを追うように冷たい風が吹きぬけ、降り止む気配のない雨の紗幕(しゃまく)を揺らめかせる。
(昼間の……!)
 ロカは思わず天幕を飛び出した。とたんに水瓶をひっくり返したような雨に打たれ、砂色の髪と夜着代わりのシャツが肌に張りついたが、それにも構わずまろぶような足取りで野営地を走り出す。
 足元の泥が勢いよく跳ね上がり、ズボンの裾にいくつもの染みを作った。
(……どこに行くんだ? こんな時間に)
 冷静になって考えれば、適当な場所に用を足しに行っただけで、ロカが後を追う必要など皆無なのかもしれない。それでもなぜか、あの後ろ姿を黙って見送る気にはなれず、ロカはフードの人物を追って木々の合間に足を踏み入れた。不寝番の傭兵がぽかんとした表情を作り、慌てたような口調で何かを叫んだが、すぐに戻りますっ、と返しただけで足を速める。
「うわ……」
 鬱蒼と生い茂った葉のおかげで、全身を打つ雨はぐっと弱くなったが、代わりに野営地のそれとは比べ物にならない闇がのしかかってきた。ロナ・レスタの抱える大規模な森は、『黒き森』という禍々しい名前が示すように、普通のそれより色の濃い葉が幾重にも重なって頭上を覆っている。
 それに加え、地元の民にすら迷路と称される『黒き森』は、突然木々が途切れて深い崖や険しい岩肌が現れるなど、夜中の来訪者に対して優しいとは言いがたい作りになっていた。それなりに夜目が利く方とはいえ、ひとつ間違えれば足を踏み外し、そのまま崖下に転落することにもなりかねない。
 ぽたぽたと垂れてくる雫に目を細め、ロカはいぶかしむように暗がりの奥を透かし見た。方角は間違っていないはずだったが、どれほど周囲に気を配って木々の間を進んでも、行く手をふさいでいる小枝を折った様子や、地面に積もっている落ち葉の踏み荒らした形跡が見られないからだ。先に行ったはずの人物が一切の痕跡を残していないせいで、徐々に実体のない幽霊や幻を追いかけているような気分になってくる。
 得体の知れない不気味さを感じ、思わず右腕で自身の左腕を抱きしめたが、不思議と踵を返して野営地に戻ろうとは思わなかった。
(……追いかけないと)
 切れるほど強く唇を噛み締め、ロカは目の前にわだかまる闇を睨みつけた。
(追いかけないと、たぶん後で絶対に後悔する)
 それは、ロカ自身でさえ理由のわからない、胸の奥から湧き上がってくる焼けつくような衝動だった。
(きっと、あの時みたいに)
 背を向けなければよかった、目を離さなければよかったと、血が滲むまで左右の手のひらを握りしめた、今でも忘れられないあの日のように。
 あんな思いはもうたくさんだ、としぼり出すように吐き捨て、ロカは足元に積もっている落ち葉を靴底で蹴りつけた。
 その足がずるりとすべり、ロカの体が斜めに傾ぐ。
「うぇっ……!?」
 う、ともえ、ともつかない奇妙な声を上げ、ロカは右の肩から足元の地面に倒れこんだ。そこで止まらずに二転、三転し、木々の合間を縫うようにしてなだらかな斜面を転げ落ちる。頭を打たなかったのは幸運というべきだろう。
「……てぇ」
 地面に打ちつけた肩口をさすりつつ、ロカは慎重な動作で泥まみれの体を起こした。口に入ってしまった土を吐き出し、顔中に張りついた落ち葉をはらい落とす。
 そこでロカは目を丸くした。
 目の前に広がっていたのは、木々が途切れた場所に張り出している岩棚と、その下にぽっかりと口を開けている闇だった。ここからでは深さまでは判断できないが、どうやら岩棚の向こうが崖になっているようで、吹き上げてくる強風が雨の軌跡を斜めにねじ曲げている。その縁ぎりぎりのところに立ち、びしょ濡れのマントを風になびかせた姿で、フードの人物が目の前に広がる深い闇を見下ろしていた。
 こんなところで何をしてるんだ、という疑問と、とにかく見つかってよかった、という安堵を感じ、ロカは肺を空にする勢いで溜息を吐いた。とたんに今まで失念していた寒さがぶり返し、ぐっしょりと濡れたシャツの上から両腕をさする。
「……おい、あんた!」
 自分から進んで雨に打たれた挙句、仕事中に風邪でも引いたら洒落にならない。さっさとあの人物に声をかけ、正体のわからない感情を振りはらってしまおうと、ロカは崖の縁に向かって何気なく足を踏み出した。
 片手を口元に持っていき、雨音にさえぎられないよう声を張り上げる。
「なあ、こんなところで何し……」
「――――来るな! 戻れ!!」
 ロカの台詞を途中でさえぎり、激しい雨音にも負けず凛と響いたのは、背後を振り返った人物の鋭い叫びだった。へ、と間の抜けた声をもらし、ロカは中途半端な姿勢で足を止める。
 爆発が起こったのはその直後だった。
 ドガッ、という腹の底に響く音を立て、岩棚の一部がすさまじい勢いで弾け飛んだ。爆風と共に砕かれた岩が舞い、本物の雨に混じってあたり一面に降りそそぐ。とっさに両腕で顔をかばい、無意識のうちに姿勢を低くしながら、ロカは大きすぎる驚愕を込めて若草色の瞳を見開いた。
 光の差さない闇の底から現れ、その前肢で崖の一部を砕いてのけたのは、暗紅色の鱗と黄金色の双眸を持つ巨大な魔獣だった。
 時おり光のさざなみを立てる深い色の鱗に、頭部の後ろから伸びる湾曲した二本の角。障害物の存在を嫌ったためか、今はその背に折りたたまれている皮膜状の翼。ちらちらと揺れる炎をまとわせ、思わず目を奪われるほど煌びやかに、そして背筋が寒くなるほど恐ろしげに瞬くふたつの瞳。
 それは、討伐を依頼された下位の地竜(ちりゅう)ではなく、竜族の中でも上位に位置する焔竜(えんりゅう)だった。
「……な」
 呆然と目を見張るロカの眼前で、焔竜の前肢がいまだ崩されていない岩棚に食い込んだ。大きくえぐられた部分をさらに突き崩し、二階建ての家屋に匹敵する巨躯が岩棚の上に這い上がってくる。揺らめく双眸がゆったりと動き、立ちすくんでいるロカを捉えた瞬間、何の予備動作もなく焔竜の前肢が空気を切った。
「うわっ……」
 太く鋭い爪に薙ぎ倒される寸前、腰のあたりに予想していなかった衝撃が走り、ロカはぎょっとした表情で目を見張った。そのまますさまじい力で引っ張られ、地面を踏みしめていた足が宙に浮く。一瞬前までロカのいた位置を、振るわれた爪が横薙ぎにはらい、呼吸ができなくなるほどの突風を生み出していった。
「……え」
 ほんのわずかな自失の後、自分の置かれている奇妙な状況に気づき、ロカは酸欠の金魚を思わせる動作で口を開閉させた。
 あっという間に走り込んできたフードの人物が、疾走の勢いを保ったままロカの腰に腕を回し、自分の肩に担ぎ上げた状態で焔竜の攻撃をかわしたのだ。自分より小柄な人物の肩の上で、逃げ遅れた数本の髪が引きちぎられていくのを感じ、ロカは声を上げることさえ忘れて全身を硬くした。
 避けられたことに気づいたのか、焔竜が機敏な動作で巨体をひねり、自分の横をすり抜けていこうとする獲物に尾を振り上げた。避けられるはずのない速度の攻撃だったが、その人物は足を止めるそぶりさえ見せず、さらに踏み込んで横薙ぎに振るわれた尾の下をくぐり抜ける。
 ロカは声にならない声で絶叫した。何が起こっているのか確認しようにも、後ろを向いた体勢で抱え上げられているため、視界には飛ぶように流れていく周囲の景色しか映らない。
「――――体を縮めて、しっかりつかまってろ」
「は……」
 ロカの狼狽には一切かまわず、フードの人物は足元の地面を蹴り、何のためらいもない動作で崖の下へと身を躍らせた。ふわ、という何とも言いがたい浮遊感が全身を包み、次いで内臓を持ち上げられる独自の感覚が襲いかかってくる。
「……っ!」
 落下時間は五秒にも満たなかったが、他人の肩に担ぎ上げられ、体の自由を奪われているロカにとっては永遠にも等しかった。ほとんど反射的に目をつぶり、やがてやってくるはずの衝撃に備えて体を丸める。だが、ロカが感じたのは硬い岩の感触ではなく、全身にまとわりついてくる柔らかい風のそれだった。
 とん、という軽い音を立てて地面に着地し、フードの人物は担ぎ上げていたロカを足元に下ろした。上に広がっている広大な森とは違い、下はごつごつした岩場になっているようで、周囲には大小さまざまな岩石が無造作に転がっている。
 ロカはその場にへたり込んだ。焔竜が翼を使わず這い上がってきたことからもわかるように、崖そのものは二階建ての家屋程度の高さしかなかったが、自分より上背のある男を担いでそこから飛び降りるなど、とてもではないがまともな人間に可能な行動とは思えない。心臓の部分をきつく押さえ、ロカは平然と立っているフードの人物を振り仰いだ。
「……あんた」
 一体何なんだ、というロカの言葉が終わる前に、先ほどとは比較にならない突風が岩場を吹き抜けた。獲物を逃がすまいと思ったのか、焔竜がその背に翼を広げ、闇に塗り込められた崖の下へと降り立ったのだ。
 とっさに目をかばったロカの目の前で、フードの人物がちらりと背後を振り返った。
「おまえはどこかに隠れていろ」
「……え?」
「全部終わるまで絶対に出てくるな。焔竜は私がどうにかする」
「な……」
 ロカは若草色の瞳を丸くした。聞き間違いかとも思ったが、フードの人物はそれ以上口を開く素振りを見せず、マントに手をかけながらロカに背を向けている。
 かっと頬が熱くなるのを感じ、ロカは雨の雫を跳ね飛ばす勢いで立ち上がった。
「馬鹿なこと言うな、あれは焔竜だぞ!? それをひとりでどうにかできてたまるか! 逃げるならあんたも一緒に……っ」
 きつい口調でまくしたて、ほっそりした肩をつかんで押しとどめようとしたが、その人物がすっぽりと被っていたフードを下ろしたとたん、ロカは驚愕の面持ちで息を呑んだ。
 魂を殴られたような衝撃に、呼吸をすることすら忘れた。
「……っ」
 フードの中からこぼれ落ちたのは、ひどく眩い金色のひかりだった。
 ぐっしょりと濡れた髪が腰まで流れ、さながら金を溶かし込んだ滝のように、あるいは日差しを紡いで作った糸のように光を放っている。毛先から滴り落ちる雫が金色に染まらず、透明に澄んだままなのがいっそ不思議なほどだった。呆然と立ちすくむロカの眼前で、彼を取り巻く微弱な空気が音もなく霧散し、目が離せなくなるほど鮮やかなそれに変化した。抑えられていたものが解放された、と表現した方が正しいかもしれない。
 ロカはその空気を知っていた。
 華やかさと澄明さの同居する気配を、光そのもののように煌きわたる髪を、楽曲の神ペルセフィアラもかくやという声を、人間のものとは思えないほどの美貌を。
 自分以外の誰かをかばい、痛いほどまっすぐに前を見据え、それしか知らないように背筋を伸ばした後ろ姿を。
 誰よりもよく、知っていた。






    


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