雨が降り止み、雲が切れ 3




「あ……」
 自分でも無意識のうちに声を上げ、ロカは目の前の背中に向かって足を踏み出そうとした。
 だが、ロカが青年に言葉をかけるより早く、翼をたたんだ焔竜が夜空をあおぎ、空気が震えるほどのすさまじい咆哮を放った。うわっ、という間の抜けた声をもらし、片方の耳をおさえたロカの眼前で、青年がまとっていたマントを足元の地面に落とす。
 ロカの視界から青年の姿が消えたのは、そのマントが地面に到達する寸前だった。
 慌てて顔を上げたロカの目に、唸り声を上げながら前肢を振り下ろす焔竜と、岩を蹴ってその攻撃をかいくぐる青年の姿が映った。空中に飛び出した青年は、そのままの勢いで崖の斜面を蹴りつけ、二階建ての家屋に匹敵する焔竜の頭を飛び越える。体重を感じさせない動作で着地しつつ、最小限の身のこなしで横に飛びのき、叩きつけられた鋭い尾に空を切らせた。
 ロカは大きく目を見開いた。胸中にやっぱり、という呟きをこぼし、食い入るような目で純金色の軌跡を追いかける。
 それは、ロカの記憶にあるものと寸分違わない、金のひかりをまとう戦神の御子の姿だった。
 呆然と立ちつくすロカをよそに、焔竜の背後へと回りこんだ青年は、ごく自然な動作で腰に手を伸ばした。視界を確保することすら困難な闇の中、そこに下げられた長剣がわずかな光を反射し、うっとりするような黄金の輝きを浮かび上がらせる。
 青年が長剣を抜き放った瞬間、ふいにこみ上げてきた熱いものが、どうしようもなくロカの喉を詰まらせた。
 忘れるはずがない。忘れられるはずがない。ちらちらと粉雪が舞う夜、その手に黄金の長剣を握りしめ、血まみれになりながら戦ってくれた青年の姿を。たったひとりの王の隣で、いつもまっすぐに背筋を伸ばし、ロカたちを守り続けてくれた守り神の姿を。
 あの国の兵士として生き、最後の戦いを経験したロカが、忘れられるはずなどない。
「……焔竜よ」
 ややあってロカの耳に届いたのは、やはり胸が痛くなるほど綺麗で懐かしい、楽曲の神ペルセフィアラを思わせる澄んだ声だった。
 喉の奥でうなり声を上げ、焔竜は黄金色の双眸に警戒の色をよぎらせた。腰の長剣を抜き放ったまま、無防備にすら見える様子でたたずんでいる青年に、最高位の魔獣である竜族が気圧されている。それはひどく異様な光景だったが、ロカの胸中に驚愕が湧き上がることはなかった。
 ただ、変わらないと思った。
 どんな状況でも、常人なら逃げ出したくなるような場面でも、ひたすら前を見据えて揺るがない後ろ姿が、四年前のあの日と何ひとつ変わらないと思った。
 それが泣きたくなるほど嬉しいのに、同じくらい切なく感じられるのはなぜだろう。
「焔竜よ。魔獣の支配者につらなる者よ。なにを怒る」
 竜の双眸を振りあおぎ、青年は静かに口を開いた。
「私は戦いにきたわけじゃない。おまえの住処を荒らしにきたわけでもない。ただ、この地に住むおまえと話をしにきただけだ」
 いまだ降り止まない雨の中でも、青年の声は不思議なほどによく響いた。竜の両目がかすかに細まり、その場に満ちる空気が音もなく張りつめる。凝然と見つめるロカの背に、雨とは違う冷たいものが伝い落ちたが、青年は淡々とした口調を崩さずに言葉を続けた。
「それとも、神の御世より伝えられた貴い言葉を持ちながら、私の呼びかけにも応じず、小さな人間を襲い続けるのがおまえの流儀か」
 静かに響く言葉には、その凪いだ口調とは裏腹に、獰猛な竜をたじろがせるほどの強さがあった。
 ぐる、と小さく喉を鳴らし、焔竜はたわめていた長い首を伸ばした。かがり火のような両目を冷たく光らせ、離れた位置に立つ華奢な青年を見下ろす。
『……人の子よ』
 それは、深い地の底を這うような、大地そのものを振動させたような、なんともいいがたい響きを持つ声だった。
 ロカは思わず目を見張った。
 焔竜の喉が奏でてみせた声は、人間のそれとはまるで違う構造にも関わらず、違和感の欠片もないなめらかな響きを有していた。声帯を震わせているのはなく、魔力を音に変えて響かせているのだということを、普通の人間であるロカは知らない。だが、魔力を持たないロカが思わず震えるほど、その声には生物の本能に訴えかける強い力が宿っていた。
 恐らくはこれが、もっとも古い種族と呼ばれる竜たちの、神々から与えられた恩寵の証なのだろう。
『いや、おかしな力を持つ、ひかりの子よ。我と話をしにきた、といったか』
「ああ。ロナ・レスタの領主、ヴァレンディアの私兵を襲い、この森で殺したのはおまえだろう」
『そうだ』
 何の躊躇もなくそう答え、焔竜は黄金色の両目をすがめた。
『我は無礼な侵入者を殺した。これからも殺すだろう。……そなたはそれを止めにきたか、ひかりの子よ』
 かすかに漏れる息さえ殺し、両者の言葉に耳をかたむけていたロカは、その一部に引っかかりを覚えて眉を寄せた。
 青年は、焔竜に殺されたのはヴァレンディアの私兵だといった。焔竜は、自分が殺したのは無礼な侵入者だといった。その言葉は、『黒き森』に隣接する集落に現れ、人間を襲うようになった魔獣を倒してくれという、ヴァレンディアの依頼とは食い違っている。
 思案に沈むロカの眼前で、青年は一度だけ首を横に振った。
 濡れた髪が重たげに揺らぎ、闇の中に清冽な金の光をこぼす。
「止めにきたわけじゃない。話をしにきた、と言ったはずだ」
『……』
「おまえに非はない。少なくとも、己や同胞に牙を剥かない限り、己より弱いものと争わないという、高位竜の掟にもとるような行為はしてない。非はロナ・レスタの領主、ヴァレンディアにあるんだろう。……だが、ひとつだけ約束をしてほしい」
『……約束?』
「そうだ。人間たちには、これ以上おまえを攻撃させない。だからおまえも、これ以上人間を殺さないでくれ」
 ロカは小さく息を呑んだ。生き物の中でもっとも誇り高く、それゆえどこか排他的な面を持つ高位の竜に、人間が真正面から要求を突きつけるなど、次の瞬間に殺されても文句はいえない所業だったからだ。
 だが、焔竜は激昂することも口をはさむこともなく、ただ警戒の薄れない目で青年を見下ろした。その視線を当たり前のように受け止め、青年は変わらない口調で言葉を続ける。
「重ねて言うが、私はおまえと敵対しにきたわけじゃない。ただ、こうして話がしたかっただけだ」
『……』
「だが、今『黒き森』を進んでいる傭兵たちと、その後ろにいる駐屯軍を襲うというなら、私はおまえを許さない。その時は殺してでもおまえを止める」
 殺してでも、という言葉の重みを理解できたのは、恐らく対峙していた焔竜だけだろう。単なる脅しでも、大言壮語でもない、真実だけが持つ重みを突きつけられ、焔竜はよく見なければわからないほどかすかに身を引いた。
 目の前の青年には、間違いなくそれができるのだ。他の誰が知らなくても、ロカはその事実を知っていた。
「だから、頼む。約束をしてくれ。おまえに攻撃をしかけない限り、これ以上人を殺すことはしないと」
 青年が言葉を切った後、暗がりの中に落ちかかってきたのは、呼吸を奪うほど密度の濃い沈黙だった。
 細い後ろ姿を見つめながら、ロカはああ、と胸中にささやきを落とした。
 彼が雇われた傭兵の中にいたのは、この『黒き森』に住まうのが地竜ではなく、目の前にいる焔竜だと知っていたからなのだろう。邪魔な魔獣を排除し、森を切り拓こうとした人間の思惑と、無礼な侵入者を殺し、己の住処を守ろうとした竜の行動、そのふたつを理解していたからこそ、こうして焔竜と話をつけるために野営地を抜け出したのだろう。
 いつだって誰かを背にかばい、前を見据えて行動するその姿は、やはり四年前から何ひとつ変わっていなかった。
 どこまでも真摯で、どこまでも孤独な、たったひとりの守り神の姿だった。
『……そうか』
 ロカにとって、その沈黙は永遠に匹敵するほど長かったが、実際は一分にも満たない短い時間だった。ゆるゆると長い首を振り、どこか厳かな仕草で瞑目すると、焔竜は開いた瞳でほっそりした青年を見やる。
 そこにひんやりとした光が閃いた。
『竜である我に約定を求めるなど、ただの人間に可能なことではない。種族の断絶は深く、我らは決して対等ではない』
「ああ」
『だが、そなたは違う。ようやっと理解した。世界の恩寵あつきそなたを害することは、この世界に牙を剥くことに等しいのだと』
「……」
『ならば、我は世界に逆らうまい。約束しよう、ひかりの子』
 竜の言葉はそれだけだった。
 皮膜状の翼が広げられ、次の瞬間にはその巨体が浮かび上がった。竜たちの持つ翼は、羽ばたきによって空気を打つものではなく、魔力によって重力の枷を振りほどくものだった。だからだろう、翼を動かした様子は見られないのに、竜の体はあっさりと空へ解き放たれ、瞬く間に手の届かない高みへと運ばれていく。湿った風が渦を巻き、腰まで流れる金色の髪と、切り散らされた砂色の髪をかき乱した。
 青年がつい、と片手を持ち上げた。手のひらを胸の上に押し当て、一度だけ深く頭を下げる。
 ここからは後ろ姿しか見えないが、恐らくは青年が表情をなごませ、稀有な美貌に笑みを浮かべたのだろう。空気が柔らかくゆるんだのを感じとり、ロカはゆるゆると詰めていた息を吐き出した。
「感謝を」
 焔竜の返答はなかった。だが、最後に一度だけこちらを見やった竜が、その両目に柔らかな光を浮かべたように見え、ロカは空をあおいだまま立ち尽くすことしかできなかった。
 ふと気がつけば、叩きつけるように降っていた雨も、あたりにのしかかっていた闇も、いつの間にかその勢いを弱め始めていた。少しずつ明るさを増していく空の下で、たたずんでいた青年が背後を見返り、呆然としているロカに眼差しを据える。
「大丈夫だったか」
 その瞳は、目の覚めるような青と、なにより鮮やかな緑の、異なる色彩を湛えて輝いていた。
「聞いていたと思うが、私はこれからヴァレンディアと話をつけに行く。おまえも仲間と一緒に森を出た方がいい。これ以上進むのは危険だからな」
「……」
「他の傭兵たちにも教えてやれ。討伐の対象が地竜じゃなくて焔竜だとわかれば、いくら無謀な傭兵でも仕事を続けようとは思わないだろう」
 黙ったままのロカにかまわず、稀有な双眸を横に流し、青年は爪痕の刻まれた岩棚を見やった。そこかしこに焔竜の爪痕が刻まれているが、崩落につながりそうなほど破壊されているわけではない。整った面差しに安堵をよぎらせ、青年は静かにロカへと視線を戻した。
「道はわかるな? そこの岩棚も、多少崩れやすくなってるかもしれないが、別に上れない高さじゃないはずだ。そろそろ戻らないと仲間が心配するぞ」
 早く行った方がいい、という意味の言葉だったのだろうが、それに従うことはできなかった。本当は駆け寄りたいのに、声の限りに叫びたいのに、全身が歯がゆいほど思いどおりにならなかったからだ。
 そんなロカを不審に思ったのか、黄金の長剣を鞘におさめつつ、青年は髪を揺らして首をかしげた。だが、それを竜と対峙した衝撃のせいだと判断したようで、形のよい唇の端にほんのわずかな苦笑を滲ませる。
 そのままくるりと踵を返した。
「あ……っ」
 それを目にした瞬間、ロカの胸中に去来したのは、言葉では表現できないほど複雑な感情だった。
 恐怖とも、焦燥とも、切望とも違う。
 そのすべてを凌駕してあまりある、なにより純粋で鮮やかな思いだった。
「待って……っ」
 待って下さい、という言葉は途中で途切れ、相手に届く前に霧散して消えてしまった。どうしようもない焦燥感が湧き上がり、自分でもわけのわからないまま、ロカはまろぶように一歩足を踏み出す。
 ただ、ぐちゃぐちゃに乱れた胸の奥で、このままではいなくなってしまう、と思った。
 四年前のあの日のように、涙さえ出ないほど後悔したあの日のように、彼が目の前から消えてしまう、と思った。
「……待って下さい!!」
 必死にしぼり出した声を後押しするように、冷たい風がロカの背後から吹き抜けた。腰まで伸ばされた金の髪を巻き上げ、戯れるように揺らし、岩場の向こうへと通り過ぎていく。
 純金のひかりが描いた軌跡は、必死に目を凝らすロカの視界に、不思議とゆったりした動きで刻みつけられた。
 それは、かつて目のしたものと寸分違わず、痛みすら覚えるほどに綺麗だった。
「――――アーシェ殿っ!!」




    


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