序 傷と呼ぶには愛しすぎた


 


「――――今、この大陸レーヴァテインに名を馳せ、長い間覇権を争っている大国は全部で四つ。『硝子の王国』レフュロス、『翼の国』フェルトラード、『鉄鋼王国』ヴァングレイン、そして『魔術師の国』デリスカリア。……ですが、皆さんは知っておられるでしょうか。かつて、この四国と肩を並べる二つの王国が存在し、大陸の中央で栄華を誇っていたことを。そしてその二国が一夜にして滅んでしまったことを」
 ポロン、ポロロン、という竪琴の音に乗せ、ひどくゆったりとした言葉が酒場に響きわたる。
「ええ、もちろんご存知のことと思います。なぜならその二国が滅んだのはほんの四年前、あの眩くも美しい流星雨が降った日なのですから。ある人は子供の手を引き、ある人は母親に連れられ、またある人は寝台から天窓を見上げつつ、侵略者である『中央の大国』ランドーラを滅ぼした流星を見たことでしょう」
 それは、耳に心地よい低さを持つ男性の声だった。中には歌姫や踊り子はいないのか、と顔をしかめる者もいたが、大抵の客は硝子の杯を傾け、くつろいだ風情でそれに耳を傾けている。
 ゆったりとした衣装をまとい、短くそろえた黒髪に飾りをつけ、同じく黒い瞳を穏やかに伏せた青年は、膝の上に抱えた金の竪琴を細い指で爪弾いた。ポロン、という雨垂れのような音が明るい店内に零れ落ちる。
「『中央の大国』ランドーラ、そして『黄金の王国』レファレンディア。皆さんもご存知のとおり、積年の敵であったレファレンディアに戦をしかけ、ほぼ一晩のうちに壊滅せしめたのはランドーラの方です。なのになぜ、戦勝国であるはずのランドーラに流星が落ち、一夜にして再建不可能なまでに滅んでしまったのか。それを知っている方はいらっしゃるでしょうか」
 青年はそこで言葉を切り、酒場にたむろしている客たちに問いかけの視線を投げかけた。半ば以上演出とはいえ、問いかけられた客の方は思わず近くの仲間と目を見交わす。しばらく待っても答えが返らないのを確認し、軽く手を上げることで客のざわめきを抑えると、青年は人好きのする面差しをゆるめて微笑を作った。
「ご存知の方はいらっしゃらないようですね。……それでは僭越ながら、わたくしがその理由を語らせていただくことにいたしましょう。伝説になるには早すぎ、単なる事実として受け止めるには不思議すぎた出来事を。四年前に起こったあの戦を」
 竪琴の旋律が少しずつ早まり、音の連なりからしっかりとした音楽へ変わっていく。
「ああ、ですが初めにお断りしておかなければなりません。私はただの吟遊詩人、ただの語り部です。私がお伝えするのは厳然たる事実ではなく、人々が噂し、夢見るように語り合った美しい物語。歴史書が伝えるような史実、学者たちが求めるような歴史とは一線を画した英雄譚なのです」
 吟遊詩人は節をつけた歌によって、語り部は独特の口調で語る物語によって、人々におとぎ話や英雄譚を提供しながら諸国を渡り歩いていく。彼は一人でその二役をこなすのだろう、典雅な旋律と共に四年前の『物語』を語り始めた。
「まずどこからお話しましょうか。その名前ならば誰もが知る『黄金の王国』レファレンディア。その国が神に愛され、世界の寵愛を受ける聖なる場所だった、というところからお話するべきでしょうか。……ですが、くれぐれもお間違えなきよう。レファレンディアは確かに美しく、戦国の大陸にあって奇跡のように栄えた国でしたが、以前から他の国より神の寵を集めていたわけではありません。もしそうならなぜ戦火に巻き込まれ、なぜ多くの名高い騎士たちが戦死し、なぜ国そのものが一夜にして滅んでしまうことがありましょうか。――――さあ皆さん、ここから先は聞き漏らさぬようによくお聞きください。神と世界の愛を受け、その加護をレファレンディアにもたらしたのは、『獅子王』クレスレイドの傍らにあったただ一人の人物だったのです」
 青年の語り口は絶妙で、酔いつぶれてうとうとしていた者も、忙しく歩き回っていた給仕の娘も、男の話を聞いても面白くないとうそぶいていた男性も、つい引き込まれたと言わんばかりに若い語り部へ視線を向けた。それに比例して店内は徐々に静まり返っていく。
「――――『獅子王』、か」
 それをやや離れた位置から眺めやり、アーシェは何とも表現しがたい曖昧な笑みを浮かべた。その横で少女が不思議そうに首をかしげる。
「何だ?」
「いや」
 何でもない、と軽い口調で呟き、アーシェは長い髪を揺らして青年に視線を戻した。
 まるで金細工と銀細工を並べたような、こんな街外れの酒場には似つかわしくない二人連れだった。光のように透きとおった純金の髪、軽く伏せられた長い睫毛、男とは思えないほど華奢な体躯を持つアーシェに、渦を巻くようにして流れる純銀の髪、染みひとつない真っ白な肌、女らしく瑞々しい体つきをした細身の少女。薄暗い隅にいるため瞳の色は判然としないが、両方とも一目見たら忘れられない桁外れの美貌と、人間離れした何かを感じさせる清冽な雰囲気を持っていた。隠れるようにして座っているのがもったいないほどだ。
 アーシェにならって語り部の青年を見やりつつ、少女は空になった杯に強めの蒸留酒を満たした。それをひどく男らしい仕草で傾け、満足そうに嘆息しながら口元をぬぐう。
「何でもない割には熱心に聞いてるな。……確か『二大国一夜の滅亡』だっけ? レファレンディアとランドーラが一夜にして滅んだっていう」
「ああ。四年前の冬、ランドーラが魔術師を大量に集めて魔獣を使役することに成功して、積年の敵だったレファレンディアに攻め入って戦争が起こったんだ。レファレンディアはその時たった一夜にして滅んだが、その時同時にランドーラも滅亡した。どちらも大陸に名だたる大国であったにも関わらず。だからだろうな、今も吟遊詩人たちの格好の題材になってるのは」
「ふぅん、詳しいんだな」
「ああ、私もその時そこにいたから」
 少女は驚いたように瞳を見張り、隣で笑っている神がかった美貌の青年を見やった。小声で交わされていた会話が途切れ、それを埋めるように朗々とした声が響きわたっていく。どこか痛いほど真摯な響きで。
「……そう、それは伝説に。それはおとぎ話に。それは建国記に。今でも飽きることなく語られ、人々に畏怖と憧憬を、剣士に驚愕と奮起を、魔術師に思慕と敬愛を覚えさせてやまない存在。『裁定者』、と呼べばおわかりになるでしょう。かの魔術師は確かに存在したのです。『黄金の王国』レファレンディアに。誰もが愛した『獅子王』の隣に」
 その中からひとつの言葉を拾い上げ、少女が描いたように形の良い眉を小さく持ち上げた。
「おい?」
 相棒となってからすでに数年が経つためか、双方とも長く言葉を重ねるのを好まないためか、たったそれだけの言葉と仕草で意図が通じあってしまう。アーシェはわずかに両目を伏せてくすりと笑った。
「言っただろう? 私はそこに……レファレンディアに、いたって」
 それだけ言って口をつぐみ、アーシェはテーブル上に頬杖をついて瞳を閉ざしてしまった。少女は無言でその横顔を見やったが、詳しい事情を問い詰めようとはしない。自分にもかけがえのない記憶、もう戻らない過去があるように、相棒にも踏み入れられたくない精神の聖域があるのだろう。それは少女にとって当然の認識だからだ。
 それに胸の内で礼を言い、アーシェは目を閉ざしたまま語り部の青年に意識を向けた。何よりも懐かしい記憶が首をもたげ、強い思いと共に胸中へせり上がってくるのを感じながら。




『友よ』
 覚えているのは燃え盛る炎、轟く剣戟、頬を切り裂く冷たい風。
『おまえがそれを望むなら、私は持てる力のすべてを持ってそれを叶える』
 そして今にも沈んでいこうとする、禍々しいほど美しかった赤すぎる太陽。
 そう、あの時、意志さえ持って王城を舐める炎に囲まれていたというのに、ふと見上げた夕陽はそれと比べ物にならないほど赤かった。
『……約束だ、わが友。わが王』
 勢いよく燃え上がっていく炎と、まるで鮮血のような夕陽の中で。
 それでも確かに、向けられた笑顔と言葉だけは眩しかった。
『いつか、この命が尽きるまで』
 アーシェにとって彼こそが『ひかり』だったのだから。




 うっすらと瞼を持ち上げ、響いていく音に意識を傾けると、アーシェはどこか遠くを見つめるように笑みを零した。
「――――クレス」
 響いた名前は、ただの記憶と呼ぶにはあまりにも深く、傷と呼ぶにはあまりにも愛しすぎて。
 何かを押し込めるようにそっと笑い、アーシェはただ、波濤となって押し寄せてくる過去に意識をゆだねた。痛みと悲しみと喜びと愛しさと、今も褪せない約束の内容を思い出しながら。






  


inserted by FC2 system