物語の始まり 2


 


 青い瞳をわずかに細め、アーシェは青年の言葉を検分するように首をかしげた。
「……それは、私の戦闘能力を買いたいということか?」
「端的に言うとそうなるな。ちょっと今立て込んでて、長々と説明してる暇はないんだけどよ」
 青年の眼差しがすっと外され、風にざわめき続ける草原の奥を見やった。このあたりではめずらしい黒髪が風になびき、精悍に整った面差しをさらりと撫でる。
「これから離れたところでもう一暴れする予定なんだ。いきなりで悪ぃけど、このまま俺につき合わねえか? 報酬は望みのまま、人助けにもなるいい仕事だぜ」
「……その『一暴れ』のために私を雇いたいのか? 初対面の人間を?」
 アーシェは呆れたように眉を寄せたが、当の青年は平然とした態度で首肯し、視線を草原から青い瞳に戻した。
 いくつもの国が乱立して小競り合いを繰り返すこの時代、国を渡り歩いて腕を売る傭兵は貴重だったが、その契約は間違っても素性の知れない相手と交わすものではなかった。前金だけ受け取ってろくに仕事を果たさない輩や、自分を傭兵と偽る盗賊まがいの人間を雇ってしまった場合、金銭どころか命を失う事態にもなりかねないからだ。その危険をふせぐため、契約はギルドや仲介人を通して行い、お互いに納得したところで雇用関係が成立することになっていた。
 青年の言葉はそれを頭から無視するものだったが、アーシェは不審より問いかけのこもった視線で相手を見つめた。
 紅の瞳は痛いほどまっすぐだった。単なる世間知らずとも、救いようのない楽天家とも、人を疑うことを知らないお人好しとも違う、ひたすら強靭で深みのある心地よい眼差し。それを透明感のある青の瞳で見上げ、相手の真意を探るように視線を鋭くすると、アーシェは静かな動作で細い腕を組み合わせた。
「……さっきも言ったとおり、私は確かに傭兵の真似事をして金を稼いでる。だから話も聞かずに断る気はないが」
 そこで一度口を閉ざし、アーシェは世間話をするような口調で言葉を続けてみせた。
「その前に、説明してもらおうか」
「説明?」
「ああ。どうしておまえがこんな場所であの男たちに襲われていたのか、それをちゃんと説明してもらわないと困るな。レファレンディアの獅子……いや」
 ごまかしを赦さない瞳が輝きを増し、首をひねっている青年を強く見据えた。
「レファレンディア王国国王、レファレンディア・ウェル・クレスレイド陛下?」
 ざぁっと音を立てて風が吹きすぎ、純金と漆黒の髪を巻き上げていった。
 それにも紛れずに響いた声を受け、青年は何とも表現しがたい微妙な顔を作った。それは考えもしなかった言葉を告げられ、あまりのことに愕然とする表情ではない。相手の真意がつかめずに困惑する表情でもない。悪戯を見つかった子供のような、無駄と知りつつ言い逃れをするか迷っているような、納得と逡巡の入り混じった複雑極まる表情だった。
 だが結局、青年は言い逃れの代わりに小さな苦笑を浮かべた。
「やっぱりばれたか」
「私をなめるなよ? レファレンディアの獅子と呼ばれる男が他にいるはずがあるか。それに、この男たちはランドーラの者だろう」
 あっさりした表情でそう言い捨て、アーシェはうずくまっている男たちの方を爪先でつついた。とたんにくぐもった呻き声が上がり、つつかれた男が草の上で小さく身じろぐ。全員が息も絶え絶えな様子であえいでいるが、どうやら死の門をくぐってしまった者は一人もいないらしい。
 ほんのわずかに眉を上げてみせ、青年は落ちかかってくる黒髪を片手でかき回した。
「よくそいつらがランドーラの人間だってわかったな? 甲冑に紋章が入ってるわけでもないし、身分を明かすようなことはひとつも言ってなかったのによ」
「おまえの正体に気づいてしまえば後は簡単だ。今レファレンディアと交戦中なのはランドーラだけだし、少し前に国境沿いの砦にランドーラ側が攻撃をかけたと聞いたしな。……国境の砦を落とされたらレファレンディアは終わりだ。大方、機動力に優れた騎兵だけを率いて砦に向かう途中だったんだろう? その途中でこの男たちに奇襲をかけられ、国王であるおまえだけがはぐれてしまった、というところか」
 青年は今度こそ驚愕の表情を浮かべた。アーシェの言ったことはすべて事実だったが、老獪な将軍や外交官ならともかく、どう見ても二十歳前後の青年が口にするのにふさわしい言葉ではなかったからだ。
「すげぇな」
「なにが?」
 心からの賛辞が込められて響いた声に、アーシェは純金色の髪をさらりと揺らして問い返した。それは嫌味でも謙遜でもなく、ただ純粋に何かすごいのか、と聞き返してくる不思議そうな声音だった。稀有な美貌に浮かぶ年相応の表情に気づき、青年はどこか楽しそうな様子でアーシェに向き直る。
 アーシェに正体を見破られても口調を改めなかったのは、このぶっきらぼうな言葉使いと態度こそが青年の『地』だからだ。だが、それでも均整の取れた体躯をまっすぐに伸ばし、精悍に整った顔に落ち着いた表情を浮かべると、単なる市井の青年とは一線を画した風格のようなものが垣間見える。
「その実力ももちろんだが、頭の方も一級だって言ったんだよ。その実力と頭脳に敬意を評し、最初に名乗らなかった非礼を詫びよう。確かに俺はクレスレイドだ。レファレンディア・ウェル・クレスレイド。一応ここの国の国王で、おまえが言ったとおり国境に作られたイグリスの砦に向かってる」
 アーシェは淡々とした表情で頷いてみせた。襲撃者が「レファレンディアの獅子」と呼んだ時点で彼の正体に思い至ったが、アーシェも目の前の青年同様、対等な話し方と態度を改めようとはしない。誰に対しても膝を折らず、媚びず、へりくだらず、ただ価値のある魂に心を注ぐ存在であれ。それがアーシェをアーシェたらしめている唯一にして絶対の信念だからだ。
「それで、私にそのイグリスの砦まで同行しろと?」
「ああ。臣下たちとははぐれちまったし、あいつらに襲われた時に馬も失っちまったが、たぶんじきに誰かが追いついてくるはずだからな。俺はレファレンディア王国の国王として、軍の総大将として、国境を侵そうとするランドーラの軍を退ける義務がある。……が、正直今の状況はあんまり楽観視できるもんじゃない」
「だろうな。あくまで噂だが、ランドーラは魔術師をあつめて魔獣たちを使役することに成功したと聞く。どれだけの兵力で向かうつもりかは知らないが、わずかな騎兵だけで太刀打ちできる相手とは思えないぞ?」
「ああ、だからおまえに頼みたいんだ」
 何一つ変わらない態度が心地よいとばかりに、大国の王は鮮やかな紅玉を思わせる瞳を細めて笑った。
「レファレンディア王国の王、レファレンディア・ウェル・クレスレイドとしておまえに頼む」
「……」
「俺に力を貸す気はないか?」
 風がゆるやかな弧を描いて舞い上がり、アーシェの純金色の髪を恭しく散らしていった。まるで機嫌をうかがうようなそれに苦笑し、細く白い指で乱れた髪をかき上げると、アーシェは不敵な表情で笑っている青年王に視線を向ける。
 この青年はありとあらゆる意味で『王』らしくなかった。アーシェの聞いた話によると、レファレンディアの王は類稀なる政治的手腕を有し、軍事面では魔獣との戦いに先陣を切ったこともある武人だというが、眼前の青年は世間一般で言う『国王像』とは大きくかけ離れていた。真逆と言っても過言ではないほどだ。
 どれほど賢君と賞賛される王であれ、アーシェは王族自体にあまり好感を持っていなかった。たゆまぬ努力によって何かを手にした者へは賛辞を送るが、特権の上にあぐらをかいて支配者面をしている者には軽蔑の念を禁じえない。そんな王を数多く見てきた分、アーシェが王族を見る視線はうがったものにならざるを得なかった。
 だからこそ、青年の王族らしからぬ態度はアーシェにとって心地よかった。
「力を貸してくれではなく、貸す気はないか、か。変な王さまだな、おまえは」
「あー、よく言われるな、それ。主に側近とか護衛とかに」
「自覚があるならどうにかしたらどうだ? それじゃあ他国の王になめられるだろう」
「そんなことねえよ。公式の場じゃばっちり真面目な顔してるしな。……って、俺のことはどうでもいいだろ。それよりさっさと返事をくれよ。心臓がさっきからバクバクいってるだろうが」
 あくまでも飄々とした青年の言葉に、アーシェは笑みをおさめて真面目な表情を作った。青い瞳が剣の切っ先にも似た光を湛え、青年の紅の双眸をしっかりと映しこむ。
「その前に、ひとつ確認しておきたい」
「なんだ?」
「力を借りたいというのは、イグリス砦での戦闘限定でか? それとも、ランドーラとの戦いでレファレンディアの麾下に降れということか?」
 それは、常人ならすくみ上がるような鋭さを持つ視線だったが、青年は真面目な表情で首を振ってみせただけだった。
「少し違うな。さっきのすさまじい戦闘能力を考えると、砦での戦闘後もぜひ力を貸して欲しいけどよ。魔術師を従わせられるのは理(ことわり)の神アーカリアだけなんだろ?」
「ああ」
「それなら、俺はおまえにレファレンディアに降れなんて言うつもりはねえよ。言っても無駄だろうしな。そうじゃなくて、俺個人に力を貸す気はないか?」
「……おまえ個人に?」
 描いたように形のよい眉をひそめつつ、アーシェはさりげない動作で細い足を背後に蹴り上げた。にわかに正気づき、転がっている剣に手を伸ばした襲撃者のひとりが、背後を見もしないアーシェに顎を蹴り飛ばされて思い切りのけぞる。
 再び昏倒した男には一瞥もくれず、アーシェは続きを促すように背の高い青年を仰いだ。青年はかすかに目を見張ったが、すぐに喉の奥で愉快そうな笑い声を立てる。
「そうだ。俺に力を貸す気はないか、って聞いただろ? 正直言って、ここでおまえみたいなやつに会えたのは滅多にない幸運だったと思ってる。神さまが俺の心根の正しさに感心して降臨してくれたのか、って思ったくらいにな。だからその幸運をこれっきりにしたくないんだ。ついでに今の蹴りを見て惚れ直したぜ」
「……男に惚れられても嬉しくないな」
「そりゃそうだ」
 軽く笑って肩をすくめ、レファレンディアを統べる王はアーシェに片手を差し伸べた。
「それで、どうだ? レファレンディアの軍門に降るんじゃなく、おまえ個人の意思で俺に力を貸してくれないか? このゴタゴタの決着がつくまで、このレファレンディア・ウェル・クレスレイドに」
 差し出された手のひらを見つめ、アーシェは思案するように青の瞳をすがめた。
 魔術師は特定の国に臣属してはならないことになっている。二年前に建国された魔術師の国、『白き靄の公国』デリスカリアの法でもそう定められていた。恐らく、ランドーラが集めているのはギルドに属さないはぐれ者だろう。アーシェ自身も一般的にはそう呼ばれる身だったが。
 青年の手に視線を注いだまま、アーシェはためらうように唇を引き結んだ。アーシェはあまり目立ちたくないのだ。封じたものを眠らせておくために。この世にいらぬ混乱を持ち込まないために。
 だが、ためらいを感じたのはほんの一瞬だった。
「……そうだな。私も、おまえみたいな変な王は好きだ」
 ぽつりと零された呟きは、まるで世界が霧散させてしまうことを惜しんだように凛と響いた。
「私は誰にも忠誠を誓わない。どこの軍門にも降るつもりはない。だが、おまえ個人に力を貸せというなら、臣下としてでも雇われた者としてでもなく、私個人の意思でおまえの協力者になろう。意に染まぬことをさせられたり、忠誠を強要させられたりしたらすぐに離れる。その条件をおまえは飲めるか?」
「当然だ」
 大国を預かる王の答えは、まさに間髪いれず、という表現がふさわしいほど素早いものだった。
「俺の名と名誉と、この大陸レーヴァテインを支える礎の剣にかけて誓う。おまえの意思と自由はレファレンディアのすべての法に勝ると。俺に力を貸してくれるか?」
「いいだろう、レファレンディア・ウェル・クレスレイド。理の神アーカリアの名において、契約が果たされるまでおまえのために戦うことをここに誓おう。この約定にあまねく世界の加護があるように。これで私はおまえの協力者だ」
 アーシェがささやくような声で宣言した途端、吹き抜けていく風が勢いをゆるめ、降り注ぐ日差しが明るさを増し、まるで祝福するように二人の青年を包み込んだ。口元に柔らかな微笑を浮かべ、アーシェは差し出された青年の手に自分のそれを重ねる。伝わってきた体温はひどく快いものだった。
 紅の瞳を笑みの形に細め、青年は嬉しそうな表情でアーシェの手を握り返した。
「っしゃ、契約成立だな。じゃあおまえの名前を聞いてもいいか? いつまでもおまえ呼びじゃ微妙だしな」
「……ああ」
 一瞬だけためらうような間を挟んだが、アーシェは素直に頷いて自分の名を告げた。
「アーシェだ。アーシェ・エリュス」
「アーシェか。へぇ、顔に似合った綺麗な名前じゃねえか。俺のことはクレスって呼べよ、なあアーシェ」
「……本当に馴れ馴れしい奴だな、おまえは」
「そうか?」
 握っていたアーシェの手を離し、クレス、という愛称を名乗った青年は明るく笑った。その笑みを見やった瞬間、こいつは男に好かれるだろうな、という思考がアーシェの脳裏を掠める。態度は強引で子供っぽいが、男が命がけで従いたいと思う度量をそなえたいい男だ。だからこそ『レファレンディアの獅子王』と称えられ、他国の民や王にもその名を知られているのだろう。
「じゃあとりあえず、イグリスの砦でランドーラ軍を追っ払うのに協力してくれるか、アーシェ?」
「ああ。そういう約束だからな、クレス」
 花のような唇に微笑の気配を残したまま、アーシェは協力者となったクレスに青い瞳を向けた。クレスもそうこなくっちゃな、と呟いてアーシェの華奢な肩を勢いよく叩く。相変わらず馴れ馴れしい仕草に眉を寄せ、アーシェが何か言ってやろうと口を開きかけた時、静寂の戻ってきた草原に馬蹄の音が響きわたった。






    


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