物語の始まり 3


 


「――――クレスレイドさまっ!!」
「おっ、きたか」
 クレスの言葉はあくまで軽いものだったが、その場に響いた叫びは悲痛と言っても差し支えのないものだった。振り返ったアーシェの視線の先で、見事に引き締まった筋肉の軍馬が数騎、土埃を巻き上げながら細い小道を疾駆してくる。あっという間に彼らの前まで到達し、手綱を引き絞って馬を止めると、先頭を駆けていた騎手が転がるようにして鞍から飛び降りてきた。
「クレスレイドさま、ご無事で……!」
「ああ、大丈夫だ。おまえは遅かったな、ファレオ」
「遅かったな、じゃありません!! あっ、あなたという人は……っ」
 すさまじい形相で眉間に皺を寄せ、肩につかみかからんばかりの勢いでクレスに迫ったのは、茶色の髪に琥珀色の目を持つ年若い青年だった。年の頃は二十代後半といったところだろう。甘く優しげな容貌の持ち主だが、今は眉間に険しい皺が寄せられ、その表情を鬼神もかくやというものに変えていた。
「……いいですか、クレスレイドさま! いつもいつも、いつも申し上げておりますが!! ああいう場合、ご自分を囮にして敵を引きつけるような真似をするのはおやめ下さいっ!! 貴方は仮にも国王陛下なのですよっ!? 今回はこうして無事に合流できたからよかったようなものの……!!」
「あーわかった、わかったって! とりあえず落ち着け、どうどう!」
「どうどうじゃありませんっ! だいたいなんですかここに転がってる死体たちは! 十人もいるじゃないですか、一人で大人数を相手にするなんて無謀はおやめ下さいとあれほど私が……っ!!」
「いや死んでねえって、こいつらはまだ生きてる。わかったからまず落ち着け」
 ファレオ、と呼ばれた青年に押されてのけぞりつつ、クレスは足を伸ばして呻いている男のひとりを軽く蹴った。男はうずくまったまま唸り声を発したが、ファレオにとっては襲撃者の存在など路傍の石に等しいらしい。ちらりと一瞥しただけで視線を外し、反省の色が見られない主君に両方の眉をつりあげた。
 じゃれあいに等しい主従のやり取りを見やり、アーシェはつい見ず知らずの青年に同情を覚えた。自分を囮にして敵を引きつけ、率いていた部隊を先に行かせようとする主君など、近くに仕える臣下にとっては頭痛の種以外の何ものでもないだろう。他の騎手たちはいたって大人しかったが、主に詰め寄るファレオを止めようともせず、同感だと言わんばかりに何度も頷いている。それだけでレファレンディア王家の日常が知れるというものだった。
 アーシェの同情に気づいたわけではないだろうが、主君の肩に両手を食い込ませ、ひとしきりその浅慮を罵っていたファレオが動きを止めた。ようやくクレスの傍に立つアーシェに気づいたらしく、あ、という間の抜けた声を上げながら頬を染める。それもある意味快挙だと言えるだろう。透きとおるような光色の髪といい、魔術師の証である青い瞳といい、黙っていても人目を引かずにはいられない美貌といい、ここまで周囲から浮き上がって見える人物に今まで気づいていなかったのだから。
「……っ」
 琥珀の瞳がアーシェの姿を捉え、純粋な驚愕と感嘆に大きく見開かれた。他の男たちも目を丸くし、ぽかん、としか表現しようのない表情でアーシェを見つめている。その美貌に神がかったものさえ感じたのか、騎手たちのひとりがぎこちない動作で片手を上げ、胸の前で簡略化した祈りの印を結んだ。
 それを見やって楽しげに笑い、クレスは居心地悪そうにたたずんでいる美貌の主に視線を向けた。
「悪いな、アーシェ。こいつは取り乱すといつもこうなんだ、あんま気にしないでやってくれ」
「……というか、おまえが苦労をかけすぎてるんじゃないのか?」
「違ーよ、こいつらが異様に心配性なだけだって」
「そうか?」
「あ、ひでぇっ、そういう疑わしげな顔されると普通に傷つくぞコラ!!」
「嘘をつくな。これくらいで傷つく繊細な人間が初対面の魔術師を雇おうとするか」
 あまりにも軽く交わされる会話を受け、ファレオをはじめとする臣下たちはそろって目を白黒させた。王に対する無礼を諌めるべきか、それを許容している主君をたしなめるべきか迷ったのかもしれない。普通の臣下ならそこで激発するだろうが、ファレオは平然と笑っているクレスに視線をやり、問いかけるように首を傾けてみせた。この綺麗な方はどなたですか、と。
 臣下たちの物言いたげな視線に気づいたのか、クレスはなぜか嬉しそうな顔になり、隣に立っているアーシェの肩を前へ押しやった。
「ああ、こいつはアーシェだ。アーシェ・エリュス。俺の命の恩人だな。……アーシェ、こっちはファレオ。俺の筆頭護衛官で幼馴染だ」
「……はじめまして。お見苦しいところを見せてしまって申し訳ありません。ファレオと申します。フェルスター・ファレオ。レファレンディア・ウェル・クレスレイドさまの護衛官をつとめる者です」
 命の恩人、という言葉に目を見張りつつ、ファレオは育ちのよさをうかがわせる態度で頭を下げた。
 クレスもそうだが、レファレンディアは名前の前に姓がくるめずらしい国だ。どこかで東方の国レイゲツやカナン、あるいは群島諸国アヴァンの流れを汲んでいるのかもしれない。中央とは文化を異にする国々を思い浮かべ、稀有な美貌に納得の表情を乗せると、アーシェはやはり背の高いファレオを仰いで目をすがめた。
「アーシェ・エリュスだ。そのままアーシェでいい」
 楽曲の神ペルセフィアラを思わせる涼やかな声に、ファレオをふくむレファレンディアの臣下たちは感嘆の溜息を吐いた。アーシェはげんなりと視線をそらしたが、横でクレスがふくみ笑いを漏らしているのに気づき、完璧な形を誇る眉を小さく跳ね上げる。
「なにを笑ってるんだ、おまえは?」
「これが笑わずにいられるかよ。つーかあいさつだけで俺の臣下をたぶらかすなんてさすがだよな、アーシェ」
「……たぶらかしてない。そしてそんな褒め方をされても嬉しくない」
「贅沢言うなよ、絶世の美形の分際で」
「ぜっ……」
 思わず絶句するアーシェにかまわず、クレスは困惑気味にたたずんでいるファレオに向き直った。紅の瞳がわずかに真剣な色を帯び、小道に控えている臣下たちをぐるりと眺めやる。
「まあいい。とりあえず、ここでのんびりあいさつしてる場合じゃねえんだよな。ファレオ、おまえらの馬を二頭貸せ。イグリスの砦に向かう」
「はい、それはもちろんですが……二頭ですか?」
 背後の部下たちを振り返り、近くの騎手に手綱を引いてくるよう指示しながら、ファレオは訝しげな表情で主君とアーシェを見比べた。それを見やってクレスはあっさりと頷く。
「ああ。ちょうど今、こいつに告白して了解をもらったばかりだからな。イグリスの砦で一緒に一暴れしてもらう約束なんだ」
「こっ……!?」
「告白。俺のものになってくれるか、ってな」
「違うだろうが! 俺に力を貸す気はないか、だ! 自分で言っておいて勝手に脚色するな!」
「細かいところは気にするな、そんな違わねえだろ」
 気軽な動作で肩をすくめ、臣下の手から馬の手綱を受け取ると、クレスは眉を寄せているアーシェを指先で差し招いた。首の動きだけで背後の臣下を見返り、目が合った若い騎手に輝くような笑みを向ける。
「悪いな、おまえの馬をアーシェに貸してやってくれ。近くの番所まで歩けば数十分で着くはずだ」
「はっ……」
「代わりの馬を手に入れ次第追いかけて来い。砦で待ってるからな」
 受け取った手綱をアーシェの手に押しつけ、クレスはどこか申し訳なさそうな表情で微笑してみせた。騎手は感極まったように何度も頷き、長身の主君に向かって最高の敬意を表す礼を取る。アーシェは呆れたように青の瞳を瞬かせた。
「……たぶらかしてるのはおまえじゃないか」
「あ? なにか言ったか?」
「いや、天然なら別にいい」
「何だよ、変な奴だな。……ああ、そういやおまえ、馬には乗れるか?」
 クレスは慣れた動作で鞍に収まり、馬上から協力者になったばかりの青年を見下ろした。まず初めにそれを確かめるべきだろう、と呆れたように呟き、アーシェは立派な月毛の馬に細い手を伸ばす。首筋のあたりを優しく叩いてやると、馬は理知的な瞳を細めて気持ちよさそうにいなないた。
「あまり慣れてはいないが、乗れないわけじゃない」
「そうか。じゃあ無理はすんなよ? とりあえずついて来てくれればいいからな」
「……あの」
 そこでようやく我に返ったのか、今まで黙っていたファレオがためらいがちに口をはさんだ。
「クレスレイドさま? と、アーシェ殿? あの、それは、アーシェ殿がイグリスの砦での戦闘に同行するということですか?」
「ああ」
「ああ、ってそんな、クレスレイドさま……っ」
「心配すんなよ、ファレオ」
 ファレオの危惧は当然のものだったが、クレスは紅の瞳を不敵に煌かせ、臣下の狼狽を不要なものだと断じてみせた。
 その微笑は、どこか雨上がりに吹く風に似ていた。あらゆる不安を霧消させ、心に溜まった澱を浄化し、見る者に安堵と心地よさを感じさせる爽快な笑みだ。それを好ましく思っている自分自身に気づき、アーシェは困惑したように金の睫毛を瞬かせる。
 そんなアーシェにちらりと目を向け、クレスはひどく気軽な動作でたくましい肩をすくめた。
「アーシェは俺よりずっと強ぇし、一対多数の戦いにも慣れてるっぽいからな。アーシェがいれば絶対にイグリスの砦は落ちねえよ」
「クレスレイドさま……」
「だから心配するなって。アーシェは俺の性根の清らかさを嘉(よみ)して光臨してくれた神さまなんだぜ? な、アーシェ」
「いつからそういうことになったんだ、いつから」
 今日だけで何度目か知れない溜息を吐き、アーシェは馬上の人となったクレスを横目で睨みつけた。そのまま優雅な動作で鐙に足をかけ、ほとんど一息で華奢な体躯を鞍上に持ち上げる。純金の髪が何かの祝福のように宙を流れた。
 形のよい指先でそれをかき上げ、剣を思わせる青の瞳をすがめると、アーシェは端麗な造作に似つかわしい凛とした笑みを浮かべてみせた。
「だがまあ、約束は約束だ。私はおまえたちの軍を勝たせるために戦う。イグリスの砦ででも、その後の戦いでも」
「そうこなくっちゃな」
 唇の端を軽くつり上げ、クレスはアーシェに向かって片手を掲げてみせた。あまりにも子供っぽい仕草に苦笑しつつ、アーシェも仕方なくほっそりした白い手を伸ばしてやる。その手に音高くクレスのそれが打ち合わされた。
 それは幼い少年の行動と何ら変わらないものだったが、なぜか胸が痛むほど綺麗な光景としてファレオたちの脳裏に刻み込まれた。
「……で、おまえたちはいつまでそこに突っ立ってんだ? 置いて行っちまうぜ?」
「え、あ……」
 呆然とした表情で二人のやり取りを見つめていたファレオは、当の主君にからかいの混じり声をかけられ、ようやく状況と思い出したと言わんばかりに目をしばたたかせた。慌てたように鹿毛の馬に飛び乗り、見事な手綱さばきでクレスの傍に寄る。残りの騎手たちもそれにならった。
「お気をつけて、国王陛下。ファレオさま」
「我らもすぐに後を追いますゆえ」
「ああ」
 馬を貸してくれた臣下に笑みを向け、見事な白馬のたてがみを軽く撫でてやると、クレスは草原を向こうをまっすぐに見つめて馬腹を蹴った。一拍置いてアーシェもその後に続く。場違いなほど穏やかな風が吹きすぎ、馬蹄の音と馬のいななきを高らかに響かせていった。
 目の前で揺れる艶やかな黒髪と、風をはらんで大きく翻るマントを見つめ、アーシェは胸を満たす不可思議な感情に目を細めた。
 クレスは守ってやらなければ死んでしまう弱者ではない。神にすがることしかできない無辜の民でも、その日の暮らしを維持するためにぼろぼろになって働く市民でもない。それどころか強く、たくましく、人々を眩い光の中へと導いていける稀有な統治者だ。アーシェが身を削って守る必要などないほどに。
(……なのに、不思議だな)
 ほっそりとした手で手綱を握り、美貌の青年は青の瞳で抜けるような空を仰いだ。
(こいつのために戦うのも、多分悪くない)
 内心に聞く者のいない呟きを落とし、アーシェは完璧な造作を誇る唇に笑みを滲ませた。






    


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