金のひかりと獅子の王 1


 


 ウォリア、と呼ばれる緑におおわれた山脈が、『黄金の国』レファレンディアと『中央の大国』ランドーラの国境だった。
 一見するとなだらかな稜線を持つ山脈だが、いたるところに切り立った崖が存在し、山越えに挑む人間たちを脅かしていた。山を歩き慣れた地元の民でさえ、ウォリアを越える時はしっかりと天気を読み、少しでも危ないと思ったらためらいなく出発を見合わせるという。山の最奥には高位の竜が住みつき、生息範囲を荒らす人間を食い殺しているという噂まで定着していた。
 そんな場所に好んで大軍を送り込む馬鹿はいない。少数の不法入国者を取り締まれば事足りるだろう、という現実的な思考のもと、両国はウォリアの両端に防衛用の砦を作り、必要最低限の兵士を置いて国境の守りとしていた。レファレンディア側の砦がイグリス、ランドーラ側のそれがヴァークレーである。
 そのイグリスがランドーラ軍に包囲され、レファレンディアの常駐部隊が砦の中に閉じ込められたのは、クレスがアーシェと出会う二日前の夜のことだった。
「……獣人(じゅうじん)か。魔獣の中では低位とはいえ、あれだけの数がいると少し面倒だな」
「ま、面倒の一言で片づく数じゃねえ気もするけどな」
 険しい岩山の上に馬を止め、クレスとアーシェはランドーラの野営地に鋭い視線を向けた。すでにあたりは暗くなり始めていたが、眼下に灯された松明が眩しいほどに輝き、ランドーラ軍の全容を宵闇の中に浮かび上がらせている。二人の目にはそれだけで十分だった。
 ふいに涼しさを増した風が吹き抜け、炙られた肉や火にかけられたスープの匂いを運んできた。ランドーラの兵士たちがやや早めの夕食を取っているのだろう。すでに酒が入っているのか、焚き火に当たりながら調子の外れた笑い声を上げ、同僚の肩を愉快そうに叩いている兵士の姿もあった。戦場とは思えないのどかすぎる光景だ。
 その一角に視線を転じ、影絵のように揺れている『それ』の数を確かめると、レファレンディアの獅子王はひどく気軽な仕草で肩をすくめた。
 それは獣と人間を足して二で割ったような、何とも表現しがたい姿を持つ異形の生き物だった。全身を覆う鎧のような剛毛も、人間の倍近くはある体長も、裂けた口から覗く尖った牙も、見る者に嫌悪感を与えずにはいられない醜悪さに満ちている。それが二十体近くで焚き火を囲み、涎の滴る口で肉に齧りついている様は、岩山の上にひそんだレファレンディア兵の眉を否応なくひそめさせた。よりによって魔獣などに、という憎々しげな呟きが夜気を揺らしていく。
 途中でレファレンディアの兵百騎が合流し、クレスに従う者の数は数倍に跳ね上がったが、状況は決して楽観視できるものではなかった。最下級に位置する魔獣とはいえ、獣人は人間が五人束になっても敵わないほどの力を持ち、五指のそろった手で驚くほど器用に武具を操ってみせる。その知能は赤子程度とも幼児並みとも言われているが、クレスとアーシェの見る限り、焚き火を囲む獣人たちの動きは非常に統率が取れていた。
 風になびいた純金の髪をかき上げ、アーシェは長い睫毛にけむる双眸を小さくすがめた。
「恐らく『使役系』魔術師の術だろうな。精神構造が極端に複雑な人間ならともかく、単純な獣人なら一度に操れる数も増える。あそこにいる獣人はすべて操られてると見て間違いないだろう」
「そういうもんなのか? つーか操るってどうするんだ? 戦いのたびに『攻撃を右に避けろ』だの『目の前の相手をぶった切れ』だの『横からきた攻撃を跳ね返せ』だのって命令すんのか?」
「そんな面倒くさいことをしてて戦いになるか」
 馬の鼻面を押さえ、獣人に視線を向けながら首をひねるクレスに、アーシェは手近な岩に指先を滑らせて溜息を吐いた。
「そんなことをしなくても、ランドーラの人間を襲わないこと、レファレンディアの人間を見たら襲いかかること、特定の人間の指示に従うこと……あとは突撃と撤退の合図を守らせること。これだけ遵守させれば十分だ。あとは勝手に暴れさせておくだけで簡単に砦が落ちる」
「なるほど。ウォリアの山道もあいつらに切り開かせたのか。片手で木とかへし折れそうだもんな」
「へし折れそう、じゃなくて普通にへし折るぞ? 両手を使えば樹齢数百年の木だって真っ二つにするからな、獣人は」
「うっげ、普通に殴り合いはしたくねえ奴らだな、おい」
「……あの、クレスレイドさま。アーシェ、殿」
 レファレンディアの兵たちは唖然としてこのやり取りを聞いていたが、クレスの護衛官であるファレオがいち早く我に返り、うろたえたように視線をさまよわせながら二人の会話に口をはさんだ。琥珀色の瞳が困惑気味に瞬く。
「……獣人の力がいくら強いと言っても、まさかこのままここにいるわけには行きませんよね? 数騎でもいいですからイグリスの砦に入って士気を鼓舞できれば、こちらの兵と合わせて挟み撃ちにすることも可能だと思うんですが……」
「ああ、夜が明けてからじゃ遅いからな。向こうがこっちに気づかないうちに奇襲をかけるしかないだろ」
「それはわかっています。その、もちろんわかってはいるんですが……」
 歯切れの悪い口調でもごもごと呟き、ファレオは主君の横に立っているアーシェへ視線をやった。
 乗馬には慣れていないと言っていたが、ファレオの目から見ても、国一番の騎手であるクレスの目から見ても、アーシェの馬術はほとんど非の打ちどころがないものだった。最初こそ馬を慣らすために早足程度で走っていたが、感覚をつかむなりグンと速度を上げ、あっという間に先頭を走るクレスに追いついてしまったのだ。ファレオたちが驚いたのは言うまでもない。儚いほど華奢な腕で手綱を取り、透きとおるような金髪を揺らして馬を操っていた佳人が、涼しげな表情を保ちながら自分たちの横を駆け抜けて行ったのだから。
 物言いたげな腹心の部下の視線に、クレスは唇の端を持ち上げることで心配無用、と答えてみせた。そのまま隣にたたずんでいるアーシェを見やり、悪戯を共有する子供のような顔で目を細める。
「おまえはどう思う、アーシェ?」
「気づかれずに砦へ入るのは無理だな。突破口を開いて突入した方が早い」
「それってかなり難しいんじゃねえか?」
「そうでもないさ。突破口は私が作る、おまえたちはそのまま馬で駆け下りて来い」
 事もなげな口調でさらりと言い切り、灰色がかった岩から白い指を離すと、アーシェは馬の手綱を引いて背後にある細い木に足を向けた。手綱の一部を最も太い幹にくくりつけ、少しだけ待ってろ、と穏やかに言い聞かせてから踵を返す。クレスはほんのわずかに紅の瞳を見張った。
「おまえ、まさか徒歩で突撃かますつもりか?」
「ああ。私は馬での戦闘に慣れてないんだ。……だが、おまえたちは馬に乗ったままの方が戦いやすいだろう? 幸い、ここの岩は崩れやすい種類のものじゃない。騎乗したままで駆け下りていけるはずだ」
「な……っ」
 目を剥いたのは周囲にいた兵士たちだった。ようやくアーシェの言葉が飲み込めたのか、全員がそろって驚愕の表情を作り、のんきに首をかしげている主君と美貌の青年を交互に見やる。この抱きしめただけで折れてしまいそうな青年が、たったひとりで獣人をふくむ敵軍に突っ込み、クレスたちが砦に突入するための突破口を作るというのだ。驚くなという方が無理だろう。
「……それは、普通に考えて不可能なことです」
 気を取り直すように唾を飲み込み、兵の中でも年配の男が小さく首を振った。その横でファレオが勢いよく頷く。
「そうです。クレスレイドさまがアーシェ殿を信用なさるというなら、我々は何も言わずにそれに従います。ですがその、アーシェ殿のようなうつ……戦いに向いているようには見えない方が、ひとりでランドーラの軍に奇襲をかけるというのは無謀すぎます。ただでさえ人数ではこちらが劣っているというのに……」
 明らかに美しい方、と言いかけたファレオを見上げ、アーシェはごくわずかに青の瞳を見開いた。
 大言壮語も大概にしろと怒り出したり、できるはずないだろうと嘲笑を浮かべたり、馬鹿なことを言うなと嘆息したりする者になら何度も会ったが、彼らのように真剣な表情でアーシェを案じる人間に出会ったのは初めてだった。不安そうな目でじっと見つめられ、アーシェはどこか子供っぽい仕草で瞳を瞬かせる。どうしよう、というように。
 反応に困ってクレスを見やると、紅の目をした青年王は器用に片眉を持ち上げ、楽しそうな表情で軽い微笑を浮かべてみせた。この王にしてこの部下あり、ということだろう。すべてを諦めた風情で嘆息し、アーシェは兵たちを押しのけるようにして一歩足を踏み出した。
「心配しなくても、獣人二十体と兵士五百人程度ならひとりでも何とかなる。殲滅は無理としてもな。あの獣人たちは私が引き受けるから、おまえたちはまっすぐに砦を目指すか、兵士たちが体勢を立て直す前に突き崩せ」
「そんなっ……」
「多分それが一番確実な方法だ。それでいいか、クレス?」
「ああ」
 口元に不敵な笑みを閃かせ、クレスは青の双眸をまっすぐに見下ろした。
「頼んだぜ、アーシェ」
 信頼と期待の滲む明るい声に、アーシェの稀有な美貌が小さな笑みにほころんだ。途端に吹き抜けていく風が勢いをゆるめ、夜空に瞬く星がさんざめき、アーシェを中心に世界が音のない歌を奏で上げていく。
「わかった」
 簡潔な口調で返事を返し、アーシェはまとっていた旅装のマントをその場に落とした。岩山の上からランドーラの軍に視線を投げ、すらりとしたブーツで切り立った斜面を滑り降りていく。決してゆるやかとは言えない角度だったが、アーシェの動きは背に翼が生えているようになめらかで、優雅な舞踏を思わせるほどに流麗だった。
 とん、という軽い音を立てて地面に降り立ち、アーシェは銀の鞘から美しい細工の施された細剣を抜き放った。青い瞳がやんわりと細められる。
「……ずいぶんと面倒なことになったな、いつの間にか」
 やわらかな声音で苦笑混じりに呟き、アーシェは手にした細剣の柄を握りなおした。
「まあ、それも悪くはないが」
 ここまで普通に接してきた人間は初めてだったから、まっすぐに向けられた眼差しが驚くほど心地よかったから、アーシェは出会って間もない青年に力を貸すことを決意したのだ。あの獅子王のために剣を取り、彼の治める国のために力を振るい、結果として大国ランドーラと事を構えることになるならそれでもいい。そうやって誰かのために戦い、この人間離れした『力』を役立てるのも悪くない。そんな自分自身の思考に小さく笑い、一度だけ深く深呼吸すると、アーシェは松明の燃えるランドーラの野営地に向かって地面を蹴った。
 燃え盛る明かりに金の髪と銀の刃が映え、見張りをしていたランドーラの兵がぎょっとしたように目を見開く。声を上げて味方に知らせようとしたが、それより早く白銀の閃光が宙を走り、のけぞった兵士の喉を深々と切り裂いた。
「……悪いな、手加減している暇はないんだ」
 淡々とした呟きがこぼされた瞬間、近くにいたランドーラ兵が異常に気づき、大声で何事かを叫びながら武器を抜いた。ざわめきが波紋となって野営地に広がり、やがて地を揺るがすようなすさまじい怒号となる。
 片手に繊細なこしらえの剣を下げ、後頭部で結った髪を風に流しながら、アーシェは狼狽に支配された野営地へと走りこんでいった。強く明るい獅子の王と、彼の治める『黄金の国』レファレンディアのために。






    


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