金のひかりと獅子の王 3


 


 わずかに透明さをとり戻した夜風が、戦場にわだまかる血の匂いを吹き散らしていく。さらりと揺れた焦茶の髪をはらい、腰に添えていた手でこめかみをおさえると、ファレオは目の前で腕を組んでいる主君に呆れのこもった目を向けた。
「……あのですね、クレスレイドさま」
「おう」
「おう、じゃありません! 貴方に緊張感がないのはいつものことですが! あまり危ないことをなさらないで下さい、と何回言えばわかって下さるんですかっ!!」
 とたんに声を荒立てた腹心の部下に、大国の王は一歩後退しながら軽く両手を上げた。興奮した馬をなだめるような体勢だが、浮かべた表情だけはかろうじてまじめさを保っている。
「いやまあ、とりあえず落ち着けって。つーかファレオ、戦場で危ないことしないってのはどう考えても無理だろ。剣振り回して戦ってんだから」
「そういう問題じゃありませんっ!!」
 まるで母親のような叱り方をするファレオを見やり、クレスはあー、という誠意のこもっていない声を上げて小さく笑った。
「まあいいじゃねえか、アーシェのおかげでこっちが勝ったんだし。砦そのものにもたいした被害は出てねえんだろ?」
「確かにそれはそうですが……っ」
 貴方が無茶をしていい理由にはなりません、と怒鳴りかけ、ファレオは何かに気づいたように言葉を飲み込んだ。琥珀色の瞳がアーシェを映し、土埃に汚れた頬にかすかな赤みが差す。
 アーシェは小さく眉を上げたが、ファレオはそれにも気づかない様子で居住まいを正し、軍人らしい動作できびきびと頭を下げてみせた。
「……申し訳ございません、アーシェ殿。きちんとしたお礼も申し上げずに、お見苦しいところをお見せしました」
「お礼?」
「はい。アーシェ殿の技量、このファレオ、心の底から感服いたしました。わが軍のために戦って下さったことに感謝いたします」
 実情のこもったファレオの言葉を受け、アーシェは唇の端でやんわりと苦笑した。
「別に、大したことじゃない」
「いえ、大したことですよ! 私だけでなく、みなアーシェ殿は戦神シエルの御子(みこ)に違いないと噂しています」
「戦神シエルの御子か、たしかに言えてるな、それ」
 クレスが楽しげな様子で口をはさみ、こちらをうかがっている臣下たちに紅の瞳を向けた。
 アーシェを見る目には隠しようのない畏怖があったが、そこにふくまれているのは恐れというより憧れ、嫌悪というより敬慕、忌避というより陶酔と呼べるような混じり気のない思いだった。中には手にした剣をかかげ、短く祈りの言葉を唱えている者もいる。遠巻きに展開している彼らの目には、純金の髪を流してたたずむアーシェの姿に、銀髪を揺らして剣を振るうシエルの雄姿が重なって見えているのだろう。
 どこか嬉しそうな表情で視線を戻し、クレスはことさら明るい口調で言葉を続けた。
「ホント、冗談抜きで戦神シエルも真っ青な戦いっぷりだったしな。おまえならひとりで鋼竜(こうりゅう)の群れに突っ込んでいっても全滅させられるんじゃねえか?」
「馬鹿なことを言うな」
 冗談めかして笑ったクレスに、アーシェはどこまでもまじめな表情を作って瞳を細めた。
「鋼竜の群れと戦って全滅させられるわけがないだろう、せいぜい一対一がやっとだ。それでも勝てるかどうかは五分だからな、あまり妙な期待はするなよ?」
「……へぇそう」
 何ともいえない口調でそう呟き、クレスはやや低い位置にある青の瞳を見つめ返した。
 鋼竜とは、竜族の中でも飛びぬけた頑丈さを誇り、晶竜(しょうりゅう)や熾竜(しりゅう)と共に最高位と目されている魔獣の一種だった。人前に姿を現すことは滅多にないが、怒りをあらわにすれば一夜で大国を滅ぼし、十日で大陸を焦土に変えるという恐ろしい存在である。それと人間が一対一で戦い、勝てる可能性が五分というのはどうなのか。大きさといい、体の強度といい、一匹の蚊が天空を舞う大鷲に勝負を挑むようなものではないのか。
 蚊というには美しすぎる青年をじろじろと眺め、クレスは呆れ返ったように落ちかかってくる前髪をかき上げた。非常に疑わしそうな声が唇から漏れる。
「……おまえって本当に人間か? つーかそれ以前に年はいくつだ?」
「失礼な、人間だ。年は十八……だったな、確か」
「やっぱまだ十代かよ。それが鋼竜と戦って勝算は五分ってどうよ」
「気にするな、大したことじゃない」
「いや、人間としての存在意義に関わる程度には大したことだろ。別にいいけどよ」
 あっさりした表情で言い切るアーシェもアーシェなら、別にいいの一言で流してしまうクレスもクレスだろう。自然に交わされる会話についていけなかったのか、ファレオは困惑した表情で首を傾げ、平然としている美貌の青年に眼差しを向けた。
「あの、アーシェ殿」
「なんだ?」
「竜とも戦えるということは、アーシェ殿はひょっとして、あの神域に住まうという神属(しんぞく)リシェランディア……ですか?」
「それは違うだろ。リシェランディアは優れた身体能力を持つ代わりに魔力を持たないはずだぜ?」
 アーシェが口を開くより早く、クレスがひょいとばかりに彼の青い瞳を指し示した。
「アーシェの目は召喚系魔術師の証だしな。なぁアーシェ」
「ああ。今はわけあって魔術を使えないがな。確かに私は神属リシェランディアじゃない」
 神属リシェランディア。それは神域リシェランダルの住人であり、礎の剣レーヴァテインの守護者であり、戦神シエルと美の神シェランティールの愛し子である種族の名だった。『神に属する者』という呼び名が示すとおり、その姿は名工の手になる細工物のように繊細で、その戦闘能力は偉大なる戦神シエルに準ずるほど強大だという。「神属リシェランディア、金と銀の光を髪に、冷たく透ける輝石を瞳に、踏み荒らされぬ雪原を肌に、神威の力を御魂に秘め」という歌が広く流布しているほどだ。
 アーシェは神属の特徴をすべて備えていたが、ただひとつ、召喚系魔術師の証である青の瞳だけがその種族と異なっていた。
「……そうですね、リシェランディアは決して魔術が使えないはず、なんですよね」
「別に何だろうとかまわねえけどな」
 しきりに首をひねっているファレオと比べ、クレスの態度はアーシェが拍子抜けするほどあっさりしたものだった。紅の瞳を細めて笑い、宝物を自慢するような口調できっぱりと断言する。
「綺麗なものは綺麗だし、強ぇものは強ぇ。神属だろうと神さまだろうと人間だろうとそれは変わらねえよ。な」
「……そこで私に同意を求めるな。どう答えても自意識過剰みたいじゃないか」
「そっか?」
 わかっているのかいないのか、クレスは土煙と血に汚れた顔をほころばせ、でもよ、と続けながら子どものように笑ってみせた。
「アーシェは人間なんだろ? で、神属並みに綺麗で神さま並みに強ぇ」
「……」
「それって普通にすごいことだぜ? ……やっぱあれだな、おまえを雇った俺の目は確かだったってことだよな」
「……結局そういう結論にいたるのか、おまえは」
 呆れたように溜息を吐きながら、アーシェは新鮮な思いで目の前に立っている青年王を振り仰いだ。
 クレスの笑みはどこか燦然と輝く太陽に似ていた。髪の色を指して光のよう、と讃えられることが多いアーシェだが、クレスのように笑いかけるだけで他者をはげまし、前向きな方向に引っ張っていく力はどうあっても持てそうにない。ごく自然に頬をゆるませ、胸を張っているクレスから視線をずらすと、アーシェは独り言を呟くように柔らかく口を開いた。
「……だから、かもしれないけどな」
「ん? 何か言ったか?」
「いや」
 純金の髪を揺らして首を振り、アーシェは揺れる松明の向こうへと視線を投げた。ふいに血臭の薄れた風が吹き抜け、いたるところに灯された火をちらちらと揺らしていく。その光景がひどく幻想的である分、地面に倒れふす獣人たちの屍がいやに生々しかった。
 ほんのわずかに口元を引き締め、なにかを堪えるように青の瞳を細めると、アーシェは不思議そうに首をひねっている主従に向き直った。
「……無駄話はもうこれくらいでいいだろう。そろそろ仕事に戻った方がいいんじゃないのか?」
「あっ……そうですよ、クレスレイドさま!! とりあえず、砦の責任者のところへ行きませんと……」
「あー、そうだな。後始末しねえとアレか」
 我に返ったように主君を振り返るファレオと、わずかに表情を改めて髪をかき上げるクレスとを見やり、アーシェは形のよい唇の端に微笑を滲ませた。そのまま優美な動作で踵を返し、いまだ戦の余熱がくすぶっている暗がりへと足を向ける。
「……アーシェ?」
「私の仕事はここまでだ。少しそのあたりを歩いてくる。まだ何かが残っているかもしれないしな」
「そりゃあ別にかまわねえけど、気をつけろよ? それから手、一応止血してからの方がよくねえか?」
「大丈夫だ、これくらいならすぐに治る」
「治るか? けっこうザックリ切れてたぜ?」
 やっぱ手当てしてけよ、と続けかけたクレスは、アーシェが何気ない動作で左手を掲げたのに気づき、軽く目を見張ってそれ以上の言葉を押しとどめた。
「ほら、大丈夫だろう?」
「……みたいだな」
 どんな止血をしたのか、じくじくと滲んでいたはずの血はすっかり止まり、夜目にも白い手のひらには新しい皮膚が盛り上がっていた。ただ刃がかすっただけの傷だ、と言われても疑うことなく信じてしまうに違いない。不思議そうな表情で瞳を瞬かせ、もうちょっと深くなかったっけか、と首を傾げるクレスに、顔だけで見返ったアーシェは左手を下ろして淡く笑った。
「だから言ったろ、これくらい大したことないって」
 あっさりとした口調で言い切り、これで話は終わりだとばかりに視線をそらすと、アーシェはイグリスの砦とは正反対の方向に足を向けた。兵士たちが慌てたように道を開け、熱のこもったささやきを交わしながら戦神シエルの御子を見送る。光の届かない方角へ向かったにも関わらず、華奢な後姿はまるで輝きを発しているかのように浮かび上がり、見つめていた者たちの視界に揺るぎなく刻みつけられた。
「……何というか、不思議な方ですね」
 琥珀色の瞳をまぶしげにすがめ、ファレオは傍らにたたずんでいる主君に問いかけるような眼差しを向けた。
「魔術師であるはずなのに魔術を使えず、その代わりに信じられないような剣技を見せる……やはり、私にはただの人間であるとは思えないのですが」
「そうか? さっきも言ったが、俺は別にアーシェが何だろうとかまわねえけどな。俺はあいつが気に入ってんだ、アーシェが神属だろうと神さまだろうと関係ねえ」
「貴方は……」
 それは一国の王としても、一軍の総大将としても問題がありすぎる言葉だったが、ファレオはそれ以上咎めることができずに小さく笑った。老獪で疑り深いクレスなど、ファレオやレファレンディアの民にとっては悪夢以外の何物でもない。彼らが愛しているのは明るく、子どもっぽく、開けっぴろげで優しいレファレンディアの獅子王なのだから。
「……でも確かに、悪い方ではありませんよね」
 アーシェが歩き去っていった方向を見やり、ファレオは琥珀色の瞳を穏やかに和ませた。すでにアーシェの姿は見えなくなっていたが、周囲に満ちている薄明かりがふんわりと漂い、彼が進んでいった方角を指し示している。それが自然なことであるかのように。
「もしかしたら本当に、あの方は戦神シエルが遣わして下さった御子なのかもしれません」
「ああ」
 そうだな、と呟いて笑うクレスの表情は、まるで自分自身が褒められたように明るく輝くものだった。






    


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