許されない願いでも 2





 クレスがアーシェを伴って向かったのは、城下のはずれにある古ぼけた酒場だった。
「……ジタニスの酒場?」
「おう。ここでちょっと人と会う約束をしててな」
「国王のおまえがか?」
「しーっ!」
 今の俺は一市民だ一市民、と茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせ、クレスは慣れた動作で木作りの扉を押し開けた。
 外観はお世辞にも綺麗とは言えないが、店内の雰囲気は決して悪いものではなかった。ゆとりを持って並べられたテーブルと、店主の性格をうかがわせる清潔な内装と、心地よいざわめきが支配する空気が、何とも親しみやすい和やかな空間を演出している。新しい客になど興味がないのか、ある者はクレスたちを一瞥しただけで視線を外し、ある者は顔さえ上げずにグラスを傾け、ある者は相席の人間と顔をつきあわせて笑い転げていた。気がねせずに雑談するにはもってこいの雰囲気だ。
 ごく自然な態度で店内を見回し、奥まった位置にあるテーブルに視線をとめると、クレスはほどよい喧騒に包まれた通路を縫うように歩き出した。周囲に溶け込んでいる国王を微妙な目で見やり、フードをかぶったままのアーシェもその後に続く。一日限りの即席とはいえ、護衛がクレスを放り出して帰るわけにはいかない。このあたりの律儀さがクレスに振り回される原因だった。
 庶民と何ら変わらないクレスの態度のためか、気配を感じさせずに歩くアーシェの身のこなしのためか、ふたりは特に注目を集めることもなく店の奥へと入り込んだ。ゆっくりと近づいてくるクレスたちに気づき、テーブルについていた人物が優雅な動作で立ち上がる。
「……お待ちしておりました、クレス殿」
「悪いな、抜け出してくるのにちょっと手間取っちまった」
「いいえ、どうぞお気になさらず。この会談が非常識なものだという自覚くらいはありますゆえ」
 そう言ってくすくすと笑い声を響かせたのは、淡い色の銀髪を無造作にたばねた美しい女性だった。
 今はぱっとしない平服に身を包んでいるが、立ち振る舞いの優雅さからも、なめらかな白磁の肌からも、紫の瞳に宿る明晰な光からも、彼女が人にかしずかれる立場の人間であるという事実がうかがえた。豪奢なドレスをまとい、長く伸ばされた銀髪を結い上げ、宝石や金細工の類で飾り立てれば、国王の夜会で主賓をつとめてもおかしくない貴婦人が出来上がるだろう。
 だが、その瞳に揺れているのは儚さではなく覇気、たおやかさではなく威厳、柔らかさではなく凛とした強さだった。
 貴婦人というよりは武人のようだな、と口の中だけで呟き、アーシェは女性の一歩後ろにひかえている人物へ視線を投げた。護衛の役目をになっているのか、腰の部分に目立たないこしらえの剣を下げ、何があってもすぐ対応できる位置にひっそりとたたずんでいる。短く刈り込まれた金髪、適度に日焼けした肌、鋭い輝きを放つ緑の瞳を持つ、一見しただけで手練れと知れる背の高い青年だった。
「……クレス殿。そちらの方は?」
 フードを下ろさないアーシェに紫の目を向け、女性は穏やかでありながらきびきびした動作で首を傾げた。彼女の言わんとしているところを悟り、クレスはああ、と呟きながらアーシェを振り返る。
「こいつはアーシェ・エリュス。俺の護衛だ」
「……はじめまして。アーシェ・エリュスだ」
 他の客が注目していないことを確かめ、相手に気づかれない程度の溜息を吐くと、アーシェは目元まですっぽりと覆っていたフードを背後においやった。とたんに女性が息を呑み、これはこれは、と感極まった様子で口元に手をやる。背後の青年も驚いたように緑の瞳を見張った。
「何といいますか……月並みな表現になってしまいますが、まるで美の神シェランティールの化身のような方ですね。こちらこそ、お初にお目にかかります。私はティアラザード・フォーラム。『硝子の王国』レフュロスの近衛師団一番隊隊長をつとめております。ここではティアラ、と。こちらは私の副官兼護衛で、ジェス・クラウドです」
「レフュロスの?」
 驚きの表情を作ったアーシェを見やり、クレスはどこか楽しげな表情でふたりに視線を戻した。
「だから言ったろ。人と会う約束をしてるってな」
「……なるほどな。ファレオが私に護衛を任せたがった理由が何となくわかった。ついでに執務中に脱走してきた理由も」
「だって仕方ねえだろ? 正面から堂々とレフュロスの使者と会談してみろよ、ランドーラがどんな難癖つけてくるかわかったもんじゃねえしな」
「そうだな。下手をしたらレフュロスに攻め込む口実を与えることになりかねない。……だから、脱走してこっそり会談か」
「おう」
 あまりにも主君と護衛らしくない会話に驚いたのか、ティアラはあっけに取られたように紫水晶の瞳を丸くした。そのままくるりと背後を見返り、悪戯めいた表情で金髪の護衛を覗き込む。
「……ジェス、聞いたか? ここにも上司と部下らしくない人たちがいたぞ。よかったな、おまえだけじゃなくて」
「ティアラザード、口調が素に戻ってる。というか俺に話しかけるな、今日の俺は単なる護衛だ」
「いいじゃないか、クレス殿……クレスレイド陛下が砕けたお人柄なのは最初からわかっていたことだし、こちらの護衛殿も堅苦しい考え方をお持ちではないようだしな」
 軽く眉を寄せたジェスに明るく笑いかけ、ティアラは女性らしくないさばけた態度でクレスに向き直った。
「失礼いたしました、クレス殿。とりあえず、座りませんか。いつまでも立ったままでは悪戯に注目を集めてしまいます。……それに、貴方の護衛殿はとても目立つ容姿をしていらっしゃいますから」
「そうだな」
 ティアラの態度は国の要人らしくないものだったが、偉そうに見えないという点ではクレスも負けていなかった。顔をしかめているアーシェを促し、ティアラたちが座っていた椅子の向かい側に腰を下ろす。何も知らない者の目には、しばらく会っていなかった旧友と再会し、ついつい座るのを忘れて話しこんでしまった普通の青年にしか見えないだろう。
 やれやれと言わんばかりに嘆息し、アーシェは通路に面したクレスの隣に腰かけた。クレスとティアラが、アーシェとジェスが向かい合う形で座り、注文を取りにきた女性に軽い酒とつまみを頼む。
 見目よい集団に頬を染め、弾むような足取りで離れていった女性を見送り、アーシェは長い睫毛に縁取られた青の瞳を瞬かせた。周囲の大気がほんのわずかにさんざめき、目には見えない消音の結界を作ったのに気づいたからだ。
「……このジェスは使役系の魔術師です。よっぽど大きな声で話さない限り、ここでの会話はよそには漏れません。まあ、こんな小細工をする必要はないのかもしれませんが、念には念をいうことで」
 テーブルの上でゆったりと手を組み、ティアラが形のよい唇をつりあげて小さく笑った。
「それに、残念ながらわが国も決して一枚岩というわけではありません。……レファレンディアとの同盟より、ランドーラとの関係を重視すべきだという声もそこかしこで聞かれます」
「だろうな。レフュロスは確かにレファレンディアの同盟国だが、ランドーラとの仲が険悪なわけじゃねえ。ここで関係を悪化させて戦火に巻き込まれるのはごめんだ、と考えるやつがいてもおかしくはねえな。むしろそっちの方が正常な反応だ」
「ええ。ですがお間違えなきよう。わがレフュロスの国王ウォルフレード・ラスティ陛下は、妃殿下の生まれ故郷であるレファレンディアとの友好関係を保ちたいとお考えです」
 淡々と紡がれたティアラの言葉に、黙って座っていたアーシェは小さく両目を見開いた。同時に胸中へ納得の声をこぼす。
 レフュロスの国王ウォルフレードの正妃、エリスティア・ベル・レフュロス。婚姻前はレファレンディア・ベル・エリスティアと名乗っていた女性は、レファレンディアの国王クレスレイドの実の姉だった。いかに特殊な環境で育ってきたアーシェとて、数年前に話題となったエリスティア王女の輿入れ程度なら覚えている。国王と正妃の関係が良好である以上、彼女の故郷であるレファレンディアと友好関係を保ちたいのは当然のことだろう。
「……よって、わが国としましてはクレス殿の要請にできる限り応えたいと思っております。全面的な戦になった際、援軍を出すことだけはままならぬかと思われますが」
 そこで一度言葉を切り、ティアラは何気ない風をよそおって眼前のクレスに微笑みかけた。給仕の女性がグラスと皿を抱え、満面の笑みを湛えてテーブルに近づいてきたからだ。
 女性の色目に如才なく答え、麦酒で満たされたグラスを手元に引き寄せると、クレスは紅の瞳を細めて鮮やかに笑ってみせた。
「いや、こちらの願いを聞き届けてくれればそれだけで十分だ。もとから援軍を出してもらおうとは思ってなかったし、レフュロス国内での姉を立場を苦しくするのは俺の本意じゃねえしな。―――レファレンディアの王として、ウォルフレード・ラスティ王のご英断に心から感謝する、と伝えてくれ」
「はい、必ずや」
 クレスに倣ってグラスを引き寄せ、ティアラは苦笑に限りなく近いあいまいな笑みを浮かべた。
「……これが非公式な会談であることと、貴方のお人柄に甘えて言わせていただけば」
「ん?」
「今の状況は歯がゆくて仕方がありませんよ。ランドーラのフォルストラ王とクレス殿、どちらに味方するかと問われれば誰も迷いはしないでしょうに、国が絡んだだけでこうまで問題がややこしくなる」
「それは仕方ねえことだな。俺だって個人の魅力であのフォルストラに負ける気はさらさらねえが、国同士の戦争は一対一の喧嘩みたいにはいかねえときてる。一騎打ちで終わるならどの国王にも負けねえ自信があるんだけどな」
「わかっています。今の発言は忘れて下さい。……もしくは近衛師団のフォーラム将軍のものではなく、ただのティアラザードの戯言として聞き流していただければ」
 噛み締めるような口調で低く呟き、ティアラはグラスの中で揺れている麦酒を一息に呷った。豪快な飲みっぷりに感嘆しつつ、あまり酒に強くないアーシェはゆっくりした速度でグラスを傾ける。
 ふいにティアラの視線が流れ、ななめ前に座っているアーシェの姿を捉えた。
「そちらの……エリュス殿、でしたか」
「そうだが、何か?」
「いえ、女の私が男の貴殿に言うのもなんですが、本当に美しい顔貌(かおかたち)をしていらっしゃいますね。……それに、感じられる気配がとても静かで深い。たったひとりでクレス殿の護衛を任されるのだから、並々ならぬ技量の持ち主であられるのでしょうね」
 暗くなってしまった気分を変えようとしたのか、ティアラはことさら明るい口調で言葉を続けた。一度手合わせ願いたいものです、と。
「……それならクレスに言ってくれ。私はクレスの護衛だ、勝手に私闘を受けるわけにはいかない」
「なるほど。――と仰られているのですが、いかがでしょう、クレス殿?」
「……おまえ、本っ当に律儀なヤツだよな」
 今ちょっと感動したぞ、とまじめくさって頷くクレスに、アーシェは胡散臭いものを見るような目を向けた。
「おまえが護衛になってくれ、って言ってきたんだろうが。引き受けたからにはまじめにやるのが当たり前だ」
「いや、そりゃそうだけどよ。おまえに改めて護衛だ、って言われるとこそばゆいっつーか、微妙な違和感を感じるつーかな」
「贅沢なやつだな。だいたいおまえは……」
 そこでふいに口をつぐみ、アーシェは鋭い仕草で青の双眸をすがめた。一拍置いてクレスとジェス、そしてティアラもゆるんでいた表情を引き締める。
 周囲の空気が音もなく張りつめたが、クレスはそれを霧散させるように笑い、どこまでもさりげない動作で椅子から立ち上がった。
「……んじゃ、そろそろ出るか。店ん中も混雑してきたしな」
「ああ」
「そうですね」
 クレスとアーシェに続いて一歩踏み出し、テーブルの間を静かな足取りで歩きながら、ティアラは背後に従うジェスに物言いたげな眼差しを向けた。
「――ジェス」
「わかってる」
「面倒くさいことになりそうな気がするんだが、それは私の取り越し苦労か?」
「だからわかってる、と言ってるだろうが。……仕方ない、陛下に命じられた時点でわかっていた苦労だ」
「確かに」
 何ともいえない表情で小さく苦笑し、ティアラは前を歩くふたりに紫の瞳を戻した。抑えられた呟きがぽつりとこぼされ、喧騒に満ちた酒場の空気を揺らしていく。
「……だが、少々申し訳ないことになりそうだな」






    


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