裁定者 1





 空気を揺らしていた声がふつりと途切れ、豪奢を極める謁見の間に静寂をもたらした。
 等間隔に配された灯火がかすかに揺らめき、謁見の間で向かい合うふたつの影に淡い光を投げかける。針のように細い目をすがめ、肥満した指で玉座の肘かけを叩くと、玉座の主であるフォルストラ・ロウル・ランドーラは傲慢な仕草で鼻を鳴らした。
「……話はそれで仕舞いか」
「御意でございます、陛下」
「ふむ。……で、そちは余がその話を簡単に信じると思っておるのか? もしや余をたばかろうとしているのではあるまいな」
「まさか」
 フォルストラの言葉をさらりと否定し、玉座より一段低い位置に跪いた青年は小さく口元をほころばせた。
 たったそれだけで空気が華やかに色づき、壁際に詰めている衛兵たちは次々に感嘆の息を漏らした。フォルストラはますます不快そうに顔をゆがめたが、いかに暴君として国民に恐れられている王とはいえ、相手の顔が整いすぎているという理由で怒り出すほど愚かではない。ひとつ咳払いをして苛立ちを追いやり、フォルストラは目の前で微笑している美しい青年にひややかな眼差しを向けた。
「まさか、と申すか。ならば証拠を示せるのであろうな? 仮にも『中央の大国』ランドーラの王に取り引きを持ちかけようというのだ、それくらいの準備はできておろう」
「無論でございます。まず、御前で立ち上がるという無礼をお許しいただけるのならば、ですが」
「ふん」
 どこかふてぶてしく響く圧倒的な美声に、フォルストラは軽く手を振って好きにせい、と吐き捨てた。青年の態度は不快以外の何物でもなかったが、慣れない我慢をしてまでそれに目をつぶる気になるほど、この青年の持ちかけてきた『取り引き』の内容が魅力的だったためだ。
 フォルストラの許しを得たとたん、跪いていた青年はひどく身軽な動作で立ち上がり、胸の前に手を当てて芝居がかった礼をほどこした。布をふんだんに使った衣装がさらりと揺れ、その上を長くまっすぐな黄金の髪がこぼれ落ちていく。もしこの様子をレファレンディアの国王が目にしたなら、常と変わらない楽しげな口調で呟いてみせたに違いない。アーシェと張り合える顔の持ち主がこの世界にいたのか、と。
「寛大な御心に感謝いたします、フォルストラ王陛下。……それではご覧にいれますが、私が陛下に害意を持っているわけではないという由、あらかじめご了承いただければ幸いに存じます」
 鼻につくほど朗々と響いていく青年の言葉に、フォルストラは自分でも無意識のうちに期待と嘲りの入り混じった表情を滲ませた。
 フォルストラは『中央の大国』ランドーラの支配者であり、やがては大陸レーヴァテインをその手につかむ覇者であり、非情ではあっても愚鈍ではない優れた王者だった。そんなフォルストラにとって、突然現れて謁見を申し込んできた青年など、ふらりと軒先に現れて食料を乞う浮浪者に等しい。青年の持つ並外れた美貌と、どこか浮世離れした悠々たる態度と、何の気負いもなく口にしたひとつの『名』がなければ、こうして彼の話を聞くために時間を割く気にはならなかっただろう。
 だからこそ期待とも嘲りともつかない複雑な表情を浮かべたのだが、次の瞬間、フォルストラは重い瞼に隠された瞳を大きく見開くことになった。
「おぉ……っ」
 フォルストラの唇から漏れたささやきに、衛兵たちのこぼした驚愕と畏怖のざわめきがかぶさった。それも無理からぬことだと言えるだろう。ほんの一瞬で発生したまばゆい電光が、まるで瀟洒な装身具のように青年の体へまとわりつき、そのほっそりとした姿を謁見の間に浮かび上がらせたのだから。
 目を焼かんばかりの電光は、竜でさえ首を伸ばせる高さの天井に駆け上り、そこに描かれた絵画を焦がす寸前に四方へわかれ、謁見の間を白く染め上げてから音もなく弾けて消えた。衛兵の中には小さく悲鳴を上げた者もいたが、電光そのものは謁見の間の柱ひとつ傷つけていない。数秒前と同様、広大な室内は灯火の明かりに照らし出され、その威容を惜しみなく人間たちに見せつけていた。
 何とも表現しがたい沈黙が落ちる中、青年は腕を振って光の残滓を払い落とし、玉座で腰を浮かせているフォルストラに艶やかな微笑を向けた。
「いかかでございましょう、陛下」
「……」
「今はあの程度に抑えましたが、必要とあれば今以上の力を振るうことも、失礼ながらこの王城の天井そのものを吹き飛ばしてしまうことも可能です。……そう、いかなる『詠呪』もなしに」
 お望みならば実行いたしますが、という笑いをふくんだ青年に声に、フォルストラはその無礼さを咎めることも忘れて浮かせていた腰を落とした。背中を伝っていく冷たい汗と、胸の内から湧き上がってくる暗い喜びを自覚し、肉づきの薄い唇に意図せぬ微笑をのぼらせる。
 呪文を唱える『詠呪』によってあらゆるものを操る召喚系魔術師と、詠呪を必要としない代わりに知覚できる範囲のものしか操れない使役系魔術師。魔術を使う者は必ずこの二種類にわけられるはずだが、青年は詠呪を用いる素振りすら見せず、この場に存在しないはずの電光をあっさりと呼び招いてみせた。
 そんな真似が可能なのはこの世界にたったひとりしかいない。
「いや、これで十分だ。……ああ、十分な証だ」
 うわ言のように低く呟き、フォルストラは眼下にたたずんでいる青年の瞳をまっすぐに見つめた。
 召喚系魔術師の青い瞳でも、使役系魔術師の緑の瞳でもない、湖沼にも似た深い碧色がその眼差しを受け止める。ゆらゆらと揺れる灯火の光を受け、美しいはずの色がぞっとするほど禍々しく煌いた。
「そちがこのランドーラに現れたことこそ、天におわす十二神が余に覇者たれと言っている証明だ」
 引きつった笑い声が空気を揺らし、衛兵たちは本能的な恐怖を感じた様子で首をすくめた。それは得体の知れない青年と、狂気に取りつかれたように笑う主君に等しく向けられた恐怖だったが、フォルストラはそれに気づくことなく言葉を続ける。熱病患者にも似た狂おしい表情で。
「先ほどの無礼を詫びよう。歓迎するぞ、神の子とも称えられる魔術師の王。……裁定者(さいていしゃ)よ」




 そこに満ちているのは穢れのない白だった。
 天窓から淡い光が降りそそぎ、円を描くように作られた白い壁と、鏡のように磨き上げられた床と、ゆるやかに湾曲したアーチ型の天井を照らし出している。目に優しい白さが保たれているとはいえ、明るさに慣れていない人間や、色素の薄い瞳の持ち主には少々つらいものがあるだろう。そう思わせるだけの光の中、何もない床の上にぽつりとたたずみ、丸みを持つ天井を一心に仰いでいる人影があった。
「……そう。裁定者が、動き出したんだね」
 柔らかな呟きが大気を揺らし、その場を支配していた静寂を彼方へと追いやった。
 純白の衣がわずかに流れ、光沢のある表面に微細なさざなみを立てる。上等な布をたっぷりと使い、袖口と裾を優雅に広げ、そこに銀糸で刺繍をほどこした、美しいと表現する気にもなれない絢爛な衣装だった。刺繍そのものはごくひかえめだが、衣がひるがえるたびに銀糸が輝き、そこに縫い取られた文様を浮かび上がらせるようになっている。仕立て屋と針子が長い年月をついやして作り上げたのだろう、流れ落ちるような線の美しさからも、複雑にからみあう蔦模様の刺繍からも、襟元にあしらった銀細工の飾りからも、作り手の執念とさえ呼べるような気迫が感じられた。
 その衣装をするりと揺らし、白をまとう人物は仰のいたままゆっくりと瞳を閉ざした。華奢な肩から白金色の髪がすべり落ち、純白の衣装の上にさらさらと光を散らす。
「君は本当にばかだね。昔からそうだったけれど」
 そういうところは変わっていないんだね、という静かな言葉は、白だけが満ちる空間に吸い込まれてふわりと消えた。
「……法王(ほうおう)さま」
 ふいに真っ白な空間の一部が揺らぎ、布がほころぶように別の色彩が姿を現した。それは瞬く間に明確な輪郭を持ち、床にひざまずいた女性の姿を形作る。魔術によって空間を飛び越え、扉のない特別な『聖域』に入り込んだ女性は、どこまでも恭しい仕草で形のよい頭を垂れた。
「法王さま。お祈りの最中に失礼いたします」
「ああ。どうしたの?」
「はい。先ほど、『使い』の者がシェリス・フィリアに帰還いたしました。控えの部屋で待たせておりますゆえ、お祈りがおすみになりましたら下の間までおいで下さいますよう」
「そうか。……まあ、どうぜ聞くまでもないことだろうけどね。裁定者がレファレンディアとランドーラの戦に関わり始めたなんて。君だって今さらだと思うだろう?」
 どこかいたずらめいた主君の言葉に、女性は何と答えたらいいか迷う風情で瞳を瞬かせた。その拍子に伏せていた顔を上げてしまい、こちらを見つめている主君と眼差しが合う。とたんに女性のなめらかな頬に朱が差した。
「申し訳ございません、ご無礼を……!」
「いや」
 気にしなくていいよ、と言って笑う主君の面差しは、女性が思わず感嘆の息を吐くほど端麗に整ったものだった。
 肌はぞっとするほど色素の薄い白、腰まで伸ばされた髪は透きとおるような白金、瞳は光の加減によってゆらゆらと移ろう琥珀。細すぎるほど華奢な体躯と、全身に湛えた色素の薄さとがあいまって、見る者にすこやかさや伸びやかさといった健康的な印象は与えない。だが、その全体的な危うさが硝子細工にも似た美しさを作り出し、純白の王をどこか浮世離れした存在へと変えていた。
 年の頃はどう多く見積もっても十七、八といったところだろう。まだあどけなさを残した顔に笑みを乗せ、再び光に照らし出された天井へ視線を向けると、法王はそれにしても、と独り言のような呟きを漏らした。
「彼は本当にばかだと思わない? 裁定者と戦って、勝てるはずがないのに」
「は……」
「裁定者は神々の愛し子。世界の寵児。人の身にあって唯一、召喚系と使役系魔術の両方を使うことができる存在。どれだけ特異な力があろうと、人の身で裁定者と対峙して勝てるはずがないのに」
「……」
「本当にばかだよ、彼は」
 くすり、と喉の奥で笑い声を立て、純白の法王は琥珀の瞳を細めて柔らかく微笑した。消えてしまいそうなほど淡い色だというのに、室内に満ちている白さをまぶしく感じている様子はない。
「結末なんて知れているのに、それでも望みのために足掻こうとするなんて。なんて愚かで、滑稽で、ばかばかしい行動なんだろうね」
「法王陛下。……フォルセピアさま」
 光にさらされた白い横顔を見つめ、女性は何かに操られたように言葉を続けた。あなたさまはもしや、と。
「レファレンディアと、ランドーラの戦いに介入したいと。……再び裁定者と共に戦いたいと、そう考えていらっしゃるのですか?」
「僕がかい? それとも、この『国』がかい?」
「それは……っ」
 視線さえ向けずに返された声に、女性ははっとした表情で短く息を呑んだ。ひざまずいたまま深々と頭を下げ、体を縮めながら紅の引かれた唇を開く。
「……お許し下さい。出すぎたことを申しました」
「いいや。そう問いたくなる気持ちもわからないではないよ。……でも、そうだね。それを僕が答えるわけにはいかないな」
「はい」
「すべては理の神アーカリアの御意のままに。僕はアーカリアの忠実なる僕、忠実なる代弁者。あの方の望まぬことができるはずもないのだから」
「はい、フォルセピアさま。すべてはアーカリアと、理の代弁者であらせられるあなたさまの御心のままに」
 敬意をこめて呟いた女性を見下ろし、薄い金色に透ける双眸をすがめると、フォルセピア、と呼ばれた法王は引きずるほど長い純白の袖を一振りした。
「わかっているならそれでいい。……もう下がっていいよ、僕も祈りを終えたらすぐに行くから」
「御意」
 女性が素直に一礼したのと、その輪郭が明確な線を失ったのと、真っ白な空間に砂金を思わせる光が立ち上ったのは、わずかな差こそあれほとんど同時だった。
 誰もいなくなった空間を視線でなぞり、フォルセピアは細すぎるほど細い手を胸に押し当てた。薄い唇をかすかにゆがめ、聞く者のいない言葉を静寂の中に響かせる。
「……介入、か」
 淡い色の瞳がゆらりと揺らいだ。
「もしも叶うなら、裁定者にはこの『国』の人間でいてもらいたいけれど。僕は誰より、それが不可能だということを知っているからね」
 裁定者は世界の光。闇の中の希望。神々に与えられた最後の慈悲。それをつなぎとめ、国への忠誠でしばり、ただひとりのために戦うよう強制するなど、単なる一国家の王にすぎない身で許されるはずもない。
「だから君はばかだというんだよ。裁定者は死なない。負けない。何かに捕らわれることもない。裁定者自身がそれを望み、自らの意思でその力を振るわないかぎり」
 それをよく知っているからこそ、フォルセピアは痛みを感じさせる表情で淡く笑った。
「それに仇なすことは、この世界レーヴァテインに弓引くのと同じことだと。……君はわかっているのかい? ねぇ」
 その後に呟かれた誰かの名は、溜息とも自嘲ともつかない笑みにまぎれ、明確な音をなすことなく霧散して消えた。
 ふいに動くはずのない空気がざわめき、ゆるやかな風となってフォルセピアの長い髪を巻き上げていった。風は真っ白な聖域から解き放たれ、空に鎮座している厚い雲を吹きはらい、薄靄(うすもや)に閉ざされた国全体に柔らかな光を降りそそがせる。まるで神々からの祝福のように。
 その国の名は、デリスカリア。
 理の神アーカリアに愛された、魔術師たちの集う王国。






    


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