裁定者 2


 

 
 ふいに響いてきた柔らかい音色に、アーシェは閑散とした広場の中ほどで足を止めた。結っていない髪をさらさらと遊ばせ、音の出所を探すように首をめぐらせる。
 昼間は子どもたちの姿でにぎわう広場も、降りそそぐ赤い夕日に照らし出され、どこか寂しげな静寂の中に沈み込んでいた。そろそろ城門が閉められる時刻なのか、城を後にした人々が防寒用のマントをまとい、広場にたたずむアーシェの前を足早に通りすぎていく。まばらな足音が大気を震わせ、寂しい情景の中にえもいわれぬ彩りを添えた。
「……竪琴?」
 通行人の背から視線をそらし、アーシェは途切れがちにこぼれてくる音色へ意識を傾けた。流された瞳がそれの出所を捉え、ごくわずかな驚きに見開かれる。
 斜面を利用して作られた階段に腰かけ、膝の上に抱えた竪琴を爪弾いているのは、ゆったりした衣装に身を包んだ異国風の青年だった。夜闇のように艶やかな黒髪、アーシェとさして変わらない身長、レファレンディア人のそれより黄色がかった肌など、東方の島国レイゲツ人の特徴を完璧にそなえている。調律を兼ねて弦を弾いているだけなのか、アーシェの知らない曲を気ままに奏でているだけなのか、奇妙なほどに短い旋律を繰り返し繰り返し響かせていた。
「吟遊詩人か」
 ひとり言めいた口調で呟き、アーシェは長い睫毛に縁取られた瞳を和ませた。
 彼は並みの武人が束になっても適わない剣士だったが、同時に優れた技量を持つ旋律の奏で手でもあった。静かに流れてくる旋律を拾い、響きの見事さにふわりと口元をほころばせる。
 その瞬間のことだった。
「こんにちは」
 響いていた音色がぴたりと止まり、代わりに張りのある豊かな声が大気を震わせた。弦を爪弾いていた指を止め、小さな顔をまっすぐに持ち上げた青年が、階段の下に立っているアーシェに人のよさそうな笑みを向けている。その拍子に艶のある黒髪が揺れ、右の一房だけを束ねる金の飾りがシャラン、と音を立てた。
 困惑したように両目を瞬かせ、高い位置に座っている青年に視線を投げると、アーシェはそれさえも優雅な仕草で苦笑を滲ませた。
「……すまない。邪魔してしまったか?」
「いいえ、もうこの時間ではお客さまは望めませんから。そろそろ店じまいをして帰ろうかと思っていたところです」 
 お気にならさず、と柔らかな声で呟き、黒髪の青年はひどくまぶしそうな表情で瞳を細めた。
「……失礼ですが、貴方は理(ことわり)の使徒でいらっしゃいますか?」
「ああ、そうだ。……そういう貴方は旋律の愛し子か」
「はい」
 ためらうように続けられたアーシェの言葉に、青年は竪琴を抱えなおしながらにっこりと笑ってみせた。
 理の使徒は『理の神』に愛された魔術師を、旋律の愛し子は『楽曲の女神』に守られた吟遊詩人を指す呼称だった。古くから伝わる神話によれば、アーカリアとペルセフィアラは親しい友であり、手を取り合って人間を守護する無二の協力者であるとされている。呪文を唱えるアーカリアの声が美しいからとも、ペルセフィアラの歌が魔術のように世界へ働きかけるからとも、古の戦いでよく似た役割を果たしたからとも言われているが、本当のところはいまだに解明されていない。
 実際に二神が親しいという確証もなかったが、大切に伝えられてきた神話に従い、魔術師と吟遊詩人は互いに敬意をはらうよう定められていた。旅の途中で行きあった場合、どちらかが迷っていれば正しい道を教え、寝場所がなければ宿を提供し、その身に加護があるよう己の信じる神に祈る。そんな気安さも手伝ってか、青年は右手で自分の隣を指し示し、首を傾げているアーシェに穏やかな眼差しを向けた。
「よろしければこちらにいらっしゃいませんか? お好きな曲を弾かせていただきますよ」
「ああ……いや」
「どうぞ遠慮なさらず、お代はいただきません。……少しばかり話し相手になっていただきたいのですが、いけませんか?」
「……私が?」
「はい、ぜひ」
 青い瞳を丸くしたアーシェに、青年は優しく笑ったまま静かに頷いた。迷うように形のよい眉を寄せたが、なぜか頑として固辞する気にもなれず、アーシェはひとつ息を吐いてから浅い階段に足をかける。それを見やって嬉しそうに笑い、青年は抱えた竪琴を指先で爪弾いた。
 ポロンという心地よい音色がこぼれ、赤く染まった大気をやんわりと揺らす。
「ありがとうございます、美しい方。……やはり、見目よい方はその声もお綺麗ですね」
「……声?」
「ええ。吟遊詩人という職業柄、他人の声にはとても敏感なんですが、貴方のような美しい声の持ち主に会ったのは初めてです。きっとペルセフィアラの御声はこんな風に響くんでしょうね」
 うっとりした口調で呟きつつ、青年は抱えた竪琴の弦を何とはなしに弾いていく。甘い音色を生み出す指先を見やり、どこか困惑気味に瞳を瞬かせると、アーシェは少しばかり強引に話題を変えようと試みた。
「別にそうでもないと思うが。……それに、綺麗というならその竪琴の音の方が綺麗だろう。よく調律されてるし、もともとの作りも上等な物に見える」
「おや、おわかりになりますか?」
「ああ。素人と変わらない腕前だが、吟遊詩人の真似事をしていた時期もあったから」
 大陸中で小競り合いが繰り返されるこの時代、傭兵が仕事にあぶれることはめずらしかったが、不運が重なって契約主を見つけられない時も皆無ではなかった。そういう場合は意地を張らず、剣の代わりに楽器を手にし、騎馬の代わりに椅子に腰かけ、類稀な美声と器用な指先を使って生計を立てることにしている。ある小国の夜会に招かれたときなど、国王や重鎮たちに手放しで絶賛され、お抱えの楽士になってくれとすさまじい勢いで迫られたほどだ。
 だからこそ青年の手元を覗き込み、その腕前の確かさに感嘆したのだが、当の吟遊詩人は楽しげな表情になってアーシェに向きなおった。
「ということは、貴方も歌はお得意でいらっしゃる?」
「……得意、というほどでもないが。少なくとも本職の貴方に比べれば遊びのようなものだ」
「ですが、ただの素人というわけでもありませんでしょう?」
「……」
「よろしければ一曲いかがですか?」
 あまりにもさらりと告げられた言葉に、アーシェは虚をつかれた風情で青い瞳を瞬かせた。
「一曲?」
「はい。青い瞳を持つ理の使徒でありながら、わが神ペルセフィアラもかくやという美しい声を持つ方。暇つぶしと思って私の娯楽につきあって下さいませんか?」
「……」
「理の使徒、特に呪文の詠唱によって奇跡を起こす召喚系魔術師は、その声に宿る力ゆえにすばらしい歌声を奏でると聞きます。吟遊詩人の真似事をしていならなおのことでしょう。……たとえばこれです。知らないということはないと思うのですが、どうです?」
 たわむれに響いていた音色がぶつりと途切れ、代わりに明確な意思を持つ旋律が静寂を揺らし始めた。まるでざわざわと歌う梢のような、ゆるやかに流れていく水音のような、耳に心地よい余韻を残す音色が夕闇に響いていく。アーシェは小さく青の瞳を見張った。
「―――『裁定者』?」
「はい。今からちょうど二年前、この大陸をわがものにせんとする大国と、それに従う小国四つを滅ぼし、『魔術師の国』デリスカリア建国に尽力した伝説の魔術師。ある者には救世主と、ある者には滅びの使者と、ある者には神の落とし子と呼ばれ、今なお畏怖を持って語り継がれる流浪の王者」
 雨垂れのような音色が響く中、驚くほど深みのある声が歌うように言葉を続ける。
「姿を消した裁定者がどこにいるのか、今もまだ生きているのか、そもそも本当に実在したのか。私ごとき吟遊詩人には想像もつきませんし、真実を知っている者はこの大陸にも数えるほどしか存在しません。ですが人々は歌い、語り継ぎます。―――こんな言い方は不適当かもしれませんが、裁定者ほど魅力的な題材は滅多にありませんから」
「……魅力的、か」
「ええ。貴方も知っていらっしゃいますでしょう?」
「ああ」
「では、われらが神の絆にかけてお願いします。一曲歌ってみせて下さいませ」
 アーシェは何とも言いがたい顔で沈黙していたが、ややあって諦めたように息を吐き、ささやくような声でわかった、と呟いた。
「短い方でかまわないだろう?」
「はい。感謝いたします、アーカリアとペルセフィアラの加護を持つ方」
 うっとりと微笑した青年に視線を向け、何かを堪えるように青の瞳をすがめると、アーシェは少しずつかげっていく夕暮れの空を振り仰いだ。自然な仕草で息を吸い、竪琴に合わせて記憶にある歌詞をたどり始める。



 荒れし大地のただなかに
 剣をかかげる男あり
 白き靄を抱きしめて
 祈りを捧ぐ女あり

 響く戦の歌のなか
 たかき力を身に帯びて
 光の御子は降り立ちぬ
 終わりを告ぐるいかずちに
 血臭をはらうきよき風

 荒れし大地のただなかに
 ひれふし誓う男あり
 白き靄を抱きしめて
 光を仰ぐ女あり

 響く勝利の歌のなか
 あらゆる願いをふりはらい
 光の御子はかき失せぬ
 夜闇をはこぶ風の音に
 いずこにあるか金の御子



 ひそやかに響きわたったのは、どこか古めかしい言葉と、澄明に透きとおった美声と、物悲しい竪琴の旋律とが形作る、二年前のデリスカリア建国を称えた伝承歌だった。口ずさむ、という表現がしっくりくるほどささやかな声だったが、まるで風が霧散させてしまうのを惜しんだように、世界が両腕を広げて迎え入れたように、澄んだ歌声は人気のない広場のすみずみにまで運ばれていく。青い瞳がほんのわずかに細められ、落日の光の中に切ない色を刻みつけた。



 響く別れの歌のなか
 あらゆる祈りをふりはらい
 光の御子はかき失せぬ
 夜闇をはこぶ風の音に
 いずこにあるか金の御子
 別れを歌う落日に
 いずこにあるか金の御子

 いずこにあるか 金の御子
 


 竪琴の弦が最後の一音を奏で、長い余韻を残しながら吸い込まれるように消えていった。ゆったりした仕草で息を吐き、アーシェは隣に腰かけている青年に困惑の混じった瞳を向ける。
「……これでいいのか?」
「はい」
 返されたのはアーシェが驚くほど真摯な頷きだった。
「すばらしい歌声に感謝を捧げます、美しい方。……まさかこのような場で、わが神ペルセフィアラの化身ともいうべき方に会えるとは思いませんでした」
「……」
「わがままを聞いて下さって……歌を聞かせて下さって、ありがとうございます」
 どこまでも真剣に響く声を受け、アーシェは相手に悟られないようにそっと嘆息した。冷たさを増した風が吹きすぎ、純金色を湛える髪に柔らかく口づけていく。
「……別に、改まって礼を言う必要はない。そちらこそすばらしい演奏だった」
「光栄です、美しい方」
「……それから。その美しい方っていうのはやめてくれ」
 男に向ける呼称じゃないだろう、と苦笑交じりに呟き、アーシェは座っていた石の階段から腰を上げた。視線の動きでそれを追い、青年は短い黒髪を揺らして首を傾げる。
「お帰りですか?」
「ああ。……黙って散歩に出てきたからな。そろそろ帰らないとうるさい奴がいるんだ」
 アーシェ自身は気づいていなかったが、帰るという単語に口の端に乗せた瞬間、その稀有な美貌がひどく優しげな微笑にほころんだ。宝物を抱きしめる少年のように。幸せを享受する子どものように。
 それをひどく敬虔な表情で見上げ、黒髪の青年は口元に小さな微笑を滲ませた。
「そうですか。名残惜しいような気もしますが、それでは仕方ありませんね。……またいつか、どこかでお会いできますか?」
「そうだな。機会があったら、またいつかどこかで」
 青い瞳を穏やかに細め、それじゃあ、と告げながらアーシェが身を翻そうとした瞬間。
「……アーシェ?」
 耳に馴染んだ声が大気を震わせ、アーシェは中途半端に伸ばした足をぴたりと止めた。






    


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