裁定者 3


 


 王城前の広場に足を踏み入れた瞬間、ひどく透きとおった歌声が耳に届き、クレスは虚をつかれた表情で紅の瞳を瞬かせた。
 太陽はすでに一日の勤めを終え、赤い衣をまといながら西の寝台に沈み込もうとしている。落日の光が降りそそぐ中、耳に心地よい旋律が大気を揺らし、人気の少ない広場中をふわふわと優しく包み込んでいた。
「……ああ、あいつか」
 あたりにめぐらせた瞳が金の光を捉え、クレスは唇の端に何とも言えない笑みを滲ませた。
 アーシェは目立つことを極端に嫌うが、あの髪の色を何とかしない限り、彼の望みが叶う日は永遠に来ないと断言できる。アーシェが動くたびにさらさらと揺れ、純金そのものの輝きを放つ長い髪は、人体の一部というより金の光を紡いで作った絹糸のようだった。国王としてあらゆる種類の人間を目にしてきたが、ここまで美しいと感じる純金色に出会ったことは今までに一度もない。
 その髪を穏やかな風になびかせ、暮れていく空に眼差しを向けながら、アーシェは悲しげな音色に合わせてささやくように歌をうたっていた。どうしてそうなったのかはわからないが、アーシェの隣に黒髪の青年が腰かけ、抱えた竪琴の弦を慣れた手つきで爪弾いている。一幅の絵画のような光景を見やり、落ちかかってくる黒髪を無造作にかき上げると、クレスは何かを透かし見ようとするように切れ長の双眸をすがめた。
 目の前の情景はたとえようもなく美しかったが、同時に声を上げて泣きたくなるほど孤独だった。風に遊ぶ純金の髪と、わずかに仰のいた稀有な美貌と、空気を揺らす圧倒的な美声が、アーシェの華奢な輪郭を暮れていく世界から浮かび上がらせている。世界の愛を受ける美貌の持ち主だからこそ、その姿は周囲の光景から弾き出され、どこまでも異質な存在として他者の目に刻みつけられるのだろう。
「……だから、かもしれねえな」
 あいつがいつも寂しそうにしてんのは、と小さく呟き、クレスは切り散らされた黒髪を揺らして首を振った。
 歌声はいつまでも聞いていたいほどすばらしかったが、執務室を抜け出してアーシェを探しにきた以上、こうして何もせずに立ち尽くしているわけにはいかない。まずはアーシェに声をかけようと思い立ち、黒のブーツに包まれた足を踏み出したところで、クレスは何かに気づいたように軽く目を見張った。
(……何だ?)
 半端な体勢で足を止めたまま、ひどく不思議そうな表情で両目を瞬かせる。何とも言えない感覚が全身を駆け抜け、歩き出そうとしていたクレスの足を強制的にその場へ縫いとめた。
(白い……霧? ……いや、靄、か?)
 ふいに見たことのない風景が脳裏をよぎり、クレスは胸中に呟きをこぼしながら首を傾げた。




 真っ白な靄がたれこめる中、いたるところでギン、ギィン、という剣戟の音が響いていた。
 わずかな風が靄を揺らし、見事な具足(ぐそく)に身を包んだ騎兵と、それを迎え撃つ形で布陣する軍の姿があらわになる。騎兵たちの旗には飛翔する竜が、もう一方のそれには広げられた翼が描かれ、吹き抜けていく風と共にその存在を誇示していた。
 『翼』の軍は魔術師たちによって構成されているらしく、後方から響く呪文の詠唱を軍歌に、使役系魔術師たちの振るう力が靄を裂いて走り抜けていった。ある場所では大地がぽっかりと口を開け、ある場所では風の刃が暴れ回り、敵の騎兵を二度と這い上がれない死の淵に叩き落していく。抑えきれない悲鳴と鮮血が噴き上がり、あたりに満ちる靄を禍々しい赤に染め抜いた。




(……んだ、これ?)
 何とも言えない表情で首をひねり、クレスは片方の手のひらで瞼の上を覆った。目がおかしくなったのかと思ったのだが、手で視界をさえぎっても、きつく両目をつむっても、脳裏に展開していく不思議な光景は薄れることさえない。それどころかますます鮮明さを増し、確かな存在感を持って立ち尽くすクレスの意識を押し包んだ。
(どこかの……戦いか? 騎兵と、魔術師の……)

 


 魔術師たちの攻撃は圧倒的だったが、そのまま押し切ってしまうには兵力に差がありすぎた。自軍の魔術師に攻撃をふせがせ、倒れ伏した味方を追い越し、すさまじい数の騎兵たちが大地を揺るがせながら突進していく。『翼』の軍も懸命に馬を操り、突きかかってくる槍や剣を弾き返していたが、それでも『竜』の軍の勢いに飲み込まれてしまうのは時間の問題のように見えた。
 自分たちの優位を確信したのだろう、騎兵たちは馬蹄の轟きに勝るとも劣らない鬨の声を上げ、ここぞとばかりに敵軍の魔術師に襲いかかった。濁流のような攻撃を受け流すことができず、前線で戦う使役系魔術師たちがにわかに体勢を崩す。
 そのまま『竜』の軍の奔流に押され、『翼』の軍がなすすべもなく総崩れになりかけた時。
 一筋の光が宙を裂いて大地に振り下ろされた。




 奇妙なほど鮮明な映像に意識を傾けつつ、クレスは慎重な動作で瞼を覆っていた手のひらを外した。想像通りと言うべきか、脳裏に過ぎっていく戦場の風景はそのままに、数分前と何一つ変わらないアーシェの姿が視界に飛び込んでくる。瞳と意識が別々の景色を映しているという奇妙さに、クレスは首を傾げたまま紅の双眸を瞬かせた。
(おまえは……)
 吹き抜けていく風がアーシェの歌声を揺らし、立ったままのクレスに言いようのない悲しみを感じさせた。まるで幼い子どもの慟哭のように。ぬぐいきれない悲嘆の叫びのように。
(―――誰だ?)
 それは完全に無意識の思考だった。ひっそりと漏らされた内心の呟きに答え、鮮やかすぎる戦場の映像が急速に展開していく。
 



 清冽に透きとおる光をまとい、たったひとりで騎兵の前に進み出た人影があった。
 たちこめる靄のせいで姿形は判然としないが、その輪郭を色のない光が縁どり、すらりとした立ち姿を戦場の中に刻みつけている。騎兵の陣営に隠しきれない動揺が走ったが、すぐに相手がたったひとりの魔術師であることに気づき、怯えを振り払うような叫びを上げて馬腹を蹴った。いくつもの蹄が土煙を巻き上げ、周囲の靄と共に視界を白くけむらせる。
 その人物は完全に丸腰だった。そうであるにも関わらず、何の恐怖も感じられない動作で片手を差し述べ、喧騒にかき消されてしまうほどの音量で何事かを呟く。次の瞬間、なめらかな手のひらに無色の光が収束し、腕を振る動作に合わせてすさまじい威力の爆発を生み出した。
 それはあまりにも純粋で美しい、破壊のためだけに振るわれる神代の力だった。『竜』の軍はたった一撃で数百の兵を失い、完全に勢いをそがれた形で隊列を乱す。そこに白熱した輝きが打ち下ろされ、生き残った騎兵たちに逃れようのない死の口づけを与えた。
 数拍遅れてガッ、という腹に響く音が轟き、先ほどの光が雷であったことを兵たちに教えていった。




(……何だ?)
 クレスの思考が聞こえたわけではないだろうが、映像の中に一陣の風が吹き抜け、執拗にとどまっている白い靄を大きく揺らした。色のない無垢な光があらわになり、そこに立つ破壊者の姿を一瞬だけ衆目にさらす。
 垣間見えたのはひどく冷たい、きらびやかに透きとおる黄金の輝きだった。
(……おまえは、誰だ?)
 ぞっとするほどひややかにたたずみ、圧倒的な力をまとわせ、ただひとりで混乱する戦場を支配してのけたのは。
(一体誰の、記憶)
 そこでふいにアーシェの歌声が途切れ、竪琴の音色がごく控えめに最後の一音を奏でた。とたんに脳裏を占領していた光景が遠のき、始まった時同様あっけないほど簡単に消える。まるで最初から何も存在しなかったように。
「…………何だったんだ、今の?」
 髪をかきあげながらぼそりと呟いてみるが、吹きすぎていく風が梢を鳴らしただけで、クレスの問いに対する答えはどこからも返らなかった。
 ますます怪訝そうに顔をしかめたが、クレスは気を取りなおしたように息を吐き、ひどく気楽な口調でまあいいか、とささやいた。この大らかさがクレスのクレスたる所以だろう。突然目の前に映し出され、信じかたいほどの臨場感を持って意識をさらった光景を、「まあいいか」の一言で片づけてしまうのだから。
 風になぶられた髪をガシガシとかき回し、クレスは歌い終えた美貌の友人に視線を戻した。座っているアーシェのななめ上方、ゆるく湾曲した階段を上りきった位置にいるためか、これほど近くにいるクレスの気配に気づいている様子はない。めずらしいこともあるもんだな、と口の中でひとりごち、武人らしくひそやかな足取りで歩を進めると、クレスは立ち上がったアーシェのちょうど真後ろに回りこんだ。
「……アーシェ?」
 別に驚かそうと思ったわけではないのだが、ちょうど身を翻そうとしていたアーシェの足がぴたりと止まり、稀有な美貌が驚愕の表情を乗せて背後を見返った。純金の髪がさらりと流れ、青さを増した闇の中にまばゆい光を散らす。
 長い睫毛にけむる瞳がふっと見開かれた。
「……クレス?」
「よう」
「……よう、じゃないだろう。おまえは何をしてるんだ?」
 こんなところで、という呆れの混じった声に、クレスは紅の瞳を細めて明るく笑った。
「そりゃおまえ、仕事の合間にアーシェと一杯やろうか、と思って探し回ったのに、おまえが城内のどこにもいないからだろ」
「……それで城の外まで探しにきたのか?」
「ああ。アーシェこそ何やってたんだ? いなくなったと思ったらこんなところで」
「私はただの散歩だ」
 溜息混じりの返答を受け、ほんのわずかに片方の眉を持ち上げると、クレスは灯りのともり始めた広場に眼差しを流した。
「こんな時間にか? もうだいぶ暗くなってるぜ?」
「……城の中は慌ただしいだろう、色々と」
「あーなるほど」
 子どもっぽい仕草で手を打ち合わせ、クレスは撫然としているアーシェにからかうような目を向けた。何だ、と睨んでくる青い瞳を見返し、どこまでも楽しげに響く口調で言葉を続ける。
「そういや、今日も朝から兵たちに『稽古をつけて下さいアーシェ殿!』って熱烈に追いかけ回されてたもんな。さすがアーシェっつーか、戦神の御子っつーか、真性の誑しっつーか……」
「殴り殺していいか?」
「いいわけねえだろ! 殴る、までならぎりぎり許容できるとしても!」
「ふてぶてしく切り返すな、偉そうに胸を張るな。主要な部分は後半だろうが」
「いやおまえ、いくら何でもそんな理由で殺されたら俺がかわいそうだろ、普通に」
 不毛としか言いようのない会話をふいにさえぎったのは、真横から響いてきた耳に心地よい笑い声だった。
 ばつの悪そうな顔で振り返ったアーシェに、いつの間にか立ち上がっていた青年が柔らかい笑みを見せた。そのままクレスに視線を転じ、舞うように優雅な動作で腰を折ってみせる。艶のある黒髪が揺れる動きに合わせ、金色の飾りがシャランという涼しげな音を響かせていった。
「……申し訳ございません、ご無礼をいたしました。初めておめもじつかまつります、レファレンディア・ウェル・クレスレイド王陛下」
 礼儀にのっとった青年のあいさつに、クレスは彼らしく気さくな表情で片手を振ってみせた。
「いや、気にする必要はねえから楽にしてくれ。……さっきの演奏を聞かせてもらったが、いい腕だな」
「もったいないお言葉にございます。陛下のお客人とは知らず、そちらのお美しい方にも無礼をいたしました。お許しいただければ幸いに存じます」
「だから気にすんなって。確かにアーシェは俺の客……っつーか友達だけどな。こいつが自分の意志でここにいたなら、俺はそれに対して一切口出しするつもりはねえよ」
 あっさりと言い切ったクレスを見やり、ほんの一瞬だけ表情を和らげると、アーシェはわざとらしく眉をひそめて小柄な吟遊詩人に向きなおった。
「……というか、よくクレスが国王だってわかったな? ここまで王らしくない国王は他に類を見ないと思うが」
「いえ、決してそのようなことは。……以前にも何度かこの国を訪れたことがあるのですが、その時にお顔を拝見する機会に恵まれたものですから」
 またお会いできて光栄です、と敬意の滲んだ声で続け、青年はクレスとアーシェの双方に視線を投げた。髪と同じ黒の瞳がやんわりと細められる。
「お迎えもいらっしゃったようですし、私はこれで失礼いたします。……理の使徒殿。長々とお引止めしてしまい、申し訳ありませんでした。貴方と、噂に名高き獅子王にお会いできた僥倖に感謝いたします」
「……いや、こちらこそ、すばらしい演奏を聞かせてもらった。貴方に理の神アーカリアの加護があるように」
「幸甚至極(こうじんしごく)に存じます。ペルセフィアラの祝福がありますように」
 アーシェの言葉にひそむ真情に気づいたのだろう、黒髪の青年は心から嬉しそうに笑い、片手を胸の前に当ててもう一度礼をした。そのまま商売道具である竪琴を抱えなおし、ふたりの横をすり抜けて階段を下っていく。一定の速度で遠ざかる小柄な背を見つめ、何かに気づいたように瞳をくもらせると、クレスは隣に立っているアーシェに眼差しを向けた。
「なあ、アーシェ」
「……何だ?」
「さっきの歌、『裁定者』だろ? おまえ、裁定者については詳しいのか?」
 俺は一般的なことくらいしか知らねえんだけど、続けたクレスに、アーシェは言葉では表現できないほど複雑な笑みを浮かべてみせた。クレスは小さく瞳を見張り、次に言おうとしていた言葉を無意識のうちに飲み込む。先ほどの光景について話そうと思ったのだが、こうして寂しげな微笑を見せられてしまうと、そんな顔させてまで聞く必要はないか、という結論に至らざるを得なかった。クレスはアーシェの過去を詮索したいわけではないのだから。
 だが、クレスが何らかの言葉を重ねるより早く、アーシェは視線をそらしながらぽつりと呟きをこぼした。
「私も、詳しく知ってるわけじゃない」
「……」
「だが、裁定者は危険なものだ。存在するだけで争いを呼び寄せ、滅びを招く」
「……そうか」
 小さく首を傾げながらあいづちを打ち、クレスはアーシェの視線を追って夜空を振り仰いだ。気の早い星たちがちらほらと顔を覗かせ、青みがかった宵闇の空を控えめな光で彩り出している。やがて空を覆い尽くさんばかりの星が姿を現し、地上にともされた灯火たちとその明るさを競い始めるだろう。
 その光を秀麗な顔に受け、長い睫毛を静かに伏せながら、アーシェはひとり言めいた口調でひっそりと言葉を続けた。
「だから、裁定者は表舞台に姿を見せず、このまま歴史の裏に消えていくべきだと思う」
「……」
「たとえそれが、神々の御意に逆らうものであったとしても、な」




 あまりにもささやかなその願いが、思い出したくもない最悪の形で裏切られたのは。
 吟遊詩人と出会ってから約二ヵ月後の、よく晴れた冬の日のことだった。






    


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