誰がために剣を取る 2





 会議室からすべり出たとたん、冬の匂いを乗せた風がじゃれつくように吹きつけ、頭上で結われた金の髪を柔らかく乱した。落ちかかってきたそれを片手ではらい、アーシェは肺の空気を入れ替えるように深い呼吸を繰り返す。
 空気は身を切るほどに冷たかったが、それがむき出しになった頬をさいなみ、耐えがたい寒さを感じさせることはなかった。控えめに降りそそぐ日差しと、気まぐれに吹きすぎていく冬の風は、疑う余地がないほど純金の髪を持つ青年に優しい。礼の代わりに小さく笑い、アーシェは城の入り口に向かって吹きさらしになっている回廊を歩き始めた。
 いずれ信頼の置ける将が王都を出発し、進軍してくるランドーラを迎え撃つことになるだろうが、敵に強大な力を持った魔術師がついた以上、その侵攻を途中で食い止めることは不可能に近かった。どう足掻いても王城で戦うことになるなら、今のうちに堀や足場の様子を確認し、少しでも動きやすいように環境を整えておいた方がいい。当たり前といえば当たり前な思考のもと、すべるような足取りで回廊を進んでいたアーシェの耳に、扉の蝶番が軋むごく小さな音が忍び込んできた。
「……アーシェ殿!」
「ファレオ?」
 アーシェの聴覚が優れていることを示すように、背後から聞き覚えのある青年の声が響きわたった。
 中の人間に気をつかっているのか、慎重な手つきで出てきたばかりの扉を閉め、ファレオが立ち止まったアーシェのもとに走り寄ってきた。アーシェより頭半分ほど背の高いファレオが、小走りに、と表現しても差し支えのない様子で駆け寄ってくるのを見つめ、アーシェは形のよい唇に何とも言いがたい笑みを滲ませる。犬みたいだな、というごく小さな呟きは、幸いなことに吹き抜けた冬の風にさらわれて消えた。
「どうした? 会議はもういいのか」
 柔らかな調子で問いかけたアーシェに、ファレオは几帳面な態度で背筋を伸ばした。
「はい。私には他にもやることがありますし、もう大体のところは決定していますから。私が抜けても特に問題はありません」
「そうか」
「それで……あの。アーシェ殿が部屋を出て行くことに気づいたものですから」
 そこで一度口をつぐみ、ファレオはご気分でも悪くなりましたか、とためらうような口調で言葉を続けた。アーシェは虚をつかれた面持ちで瞳を瞬かせる。普段から苦労性の名をほしいままにしているファレオは、話し合いの最中に部屋を脱け出したアーシェに気づき、その体調が心配になって後を追ってきたらしい。
「何というか……すごい発想だな」
「は?」
「いや、何でもない」
 まとめそこねた髪を揺らして首を振り、アーシェは口元にかすかな苦笑をよぎらせた。
 たったひとりで獣人二十体を屠り、レフュロスの青年と共に敵国の刺客を退け、なお傷らしい傷も負わず平然としているアーシェに、体調不良という言葉ほどそぐわないものはない。ファレオの心配は的外れとしか言いようがなかったが、まるで真綿でくるまれたようなくすぐったさと暖かさを感じ、アーシェは長い睫毛に縁取られた瞳を和ませた。
「別に気分が悪くなったわけじゃない。もう私が出る幕じゃないと思ったからな。私は私で、戦いになった時に備えていようと思っただけだ」
「そうでしたか」
「ああ。……紛らわしいことをして、すまなかったな」
 迷うように間を空けた後、アーシェは視線を流すようにして謝罪の言葉を口にした。謝られるのは予想外だったのか、ファレオが慌てたように首を振り、こちらこそ余計なことを、と生真面目に頭を下げる。
「その、クレスレイドさまも気になさっていたようでしたから。すみません、アーシェ殿にはアーシェ殿のお考えがあるでしょうに」
「いや。そこで逆に謝られても反応に困るんだが」
「え? あ……えぇと」
「ああ、だから……」
 困惑したように首をかしげたファレオに、アーシェも取るべき態度を決めかねて口ごもった。もしここにクレスがいたなら、実はどっちも真面目すぎる口下手だよな、と楽しげな表情で笑ってみせたに違いない。想像の中のクレスに肘鉄を食らわせ、アーシェは微妙な沈黙を打破すべく言葉を続けた。
「……だから、とにかく、私のことは気にしなくていい。私も細かいことは気にしないから」
 何かが決定的に違うような気もしたが、ファレオが穏やかに笑いながらはい、と言って頷いたため、アーシェはそれ以上考えることを放棄して唇をほころばせた。そのまま優雅な仕草で首を傾げ、やや高い位置にある琥珀色の瞳を仰ぎ見る。
「用はそれだけか? 気にかけてくれたのはありがたいが、ファレオにもやることがあるんだろう?」
「あ……はい、もちろんです。すみません、お引止めしてしまって」
「いや、それは別に構わないが」
 さらりと首を振る美貌の青年に、ファレオは眩しい何かを直視したように瞳を細めた。
「……それで、あの。アーシェ殿はどちらに?」
「私は少し城周りを見てくる。いろいろと確認しておきたいこともあるしな」
 アーシェの言葉はひどく曖昧だったが、この状況で何を確認するのか察せられないほど、レファレンディア王の腹心の部下は実戦を知らないわけではなかった。万感の思いを込めて腰を折り、よろしくお願いします、と言いかけたところで、何かに気づいたように下げていた頭を持ち上げる。
 じっと注がれるファレオの視線に、アーシェは行き先へ向けていた青の瞳を引き戻した。
「……何だ?」
「あ、いえ……あの。アーシェ殿」
「だから、何だ?」
「あの……お聞きしても、よろしいですか?」
「何を?」
 ファレオは盛大にためらっているようだったが、アーシェが無言のうちに先を促すと、意を決したように青の瞳を見つめなおした。端正な顔立ちに何より真剣な表情が加わる。
「アーシェ殿は、どうしてこんなによくして下さるんですか?」
「……は?」
「アーシェ殿がクレスレイドさまに雇われた、ということは聞いております。ですが、アーシェ殿は普通の傭兵のような仕事をしたり、クレスレイドさまと金品のやりとりをなさったりはしませんよね。それどころか契約の内容も、期限も、はっきりとは決めておられないように見えます」
「……」
「それなのにどうして、こんな状況になっても変わらず、レファレンディアのために戦って下さるんですか? ランドーラにシェスの砦を落とされて、ヴァングレインさえも敵に回った状況で……勝ち目などないと、わかっているのに」
 ひどくまっすぐなファレオの眼差しに、アーシェはどこか無防備な表情で瞳を丸くした。思ってもみない言葉だったからだ。
 春にイグリスの砦へ向かうクレスと出会い、客将としてレファレンディアに迎え入れられてから、アーシェはまるでもとからそこにいたかのように王城に腰を落ち着けていた。そのことに疑問を感じたことはあっても、契約を解除して出て行こうと思ったことはない。必要最低限の生活費しか受け取らず、決めて当たり前である期限すらもうけず、ただひとところに留まって超人的な力を振るう存在など、入れ替わりの激しい戦乱の世にあっては異端でしかないだろう。
 もっともと言えばもっともなファレオの問いに、アーシェは回廊の両脇に広がる中庭へと視線を逃がした。考え込むように瞳を細め、無意識のうちにほっそりした指先を顎に当てる。
 そうだな、という小さな呟きが、静かすぎるほど静かな回廊にぽつんと落とされた。
「……気まぐれ」
「は」
「最初はたぶん、単なる気まぐれだったんだと思う」
 旅人として大陸中をめぐり、さまざまな場所でさまざまな人物と接してきたが、人外としか言いようのない力を持つアーシェに対し、あそこまであけっぴろげな反応を見せたのはクレスが初めてだった。そう考えると、最初にクレスから差し伸べられた手を取ったのは、やはりわずかな好奇心に裏打ちされた喜びの念だったのだろう。生まれた時から異端者だったアーシェにとって、自分の力を怖がらない存在がいるという、ただそれだけの事実が泣きたくなるほどの喜びだった。だから力を貸そうと思ったのだ。
「ただ純粋に、クレスに興味を引かれたんだろうな。まだ会ってから数分も経ってないのに、私みたいな得体の知れない人間を雇おうとする王さまなんて、今までついぞお目にかかったことがなかったから」
「……あの方は昔からそうでした」
「ああでも、それは力を貸すきっかけの理由だな。今、ここにこうしている理由にはなってないか」
 自嘲するような笑みをこぼし、アーシェは中庭に向けていた視線をファレオに戻した。
 左目の方がわずかに色調の濃い、晴れ渡った日の空を思わせる瞳が、まるで春の雪解けのように柔らかくゆるむ。
「理由はいろいろ思いつくが……たぶん、私が今ここにいるのは、あいつが私を、友達と言ったからだろうな」
「……ともだち、ですか」
「ああ。馬鹿みたいだろう? 三大国のひとつであるレファレンディアの国王が、会ったばかりの……ひとりで獣人と殴りあうような不審人物をつかまえて、よりにもよって友達、なんて」
 馬鹿みたいだ、と真情のこもった呟きを繰り返し、アーシェは子どものような表情でふわりと笑った。ファレオが驚いたように息を呑んだが、それにも構わず言葉を続ける。
「そんな風に言われたら、もうつきあうしかないだろう? 私にだって人並みの情はあるんだ、見捨てられなくなった」
「……」
「この理由じゃあ足りないか?」
 レファレンディアに留まっている理由など、ひねり出そうと思えばいくらでも考えつくが、アーシェをつなぎとめている最大の原因はひどく単純なものだった。自覚したのは最近になってからだが、アーシェは単に友達という言葉が嬉しかったのだ。
 アーシェの人間離れした力を目の当たりにし、恭しく膝をついてきた人間なら何人もいた。その実力と判断力に敬意を表し、国の要職に迎えようと申し出てきた人間なら数え切れないほどいた。だが、アーシェの異常さを知った上で、含みも打算も媚びもなく手を差し伸べてきたのはクレスだけだった。アーシェの方がたじろいでしまうほどの明るさで、俺たち親友だもんな、と言ってのけたのはあの獅子王だけだった。
 その言葉が嬉しくてたまらなかったから、手を離して背を向けることができなくなってしまったのだ。
 笑っているアーシェの表情に何を見たのか、ファレオはやがてゆるゆると息を吐き、整った面差しに淡い笑みをのぼらせた。首を振る動きに合わせて焦げ茶色の髪がさらりと揺れる。
「……いいえ」
 どこまでも真摯にアーシェを見下ろし、ファレオはきっぱりとした口調で言い切ってみせた。
「いいえ、アーシェ殿。十分です」
「十分、か」
「はい。ありがとうございます、アーシェ殿」
 そう言って笑ったファレオの表情は、アーシェが思わず気おされるほどまっすぐで、翳りのないものだった。
「やはり私は、アーシェ殿は戦神シエルの御子であられるのだと思います。クレスレイドさまと友達になって下さって、本当にありがとうございました」
「……いきなりだな」
「そんなことはありません! アーシェ殿の技量をイグリスの砦で見せていただいて以来、私を初めとしたレファレンディアの臣はみなアーシェ殿に感謝しております」
「……」
「本当にありがとうございます。アーシェ殿」
 武人らしくきびきびとした動作で頭を下げ、ファレオは今さらとも思える感謝の言葉をそう締めくくった。
 その瞬間、アーシェの唇が何かの言葉を作りかけたが、結局吐き出されたのは気づけないほどかすかな溜息だった。礼を言われるようなことじゃない、と抑えた声音で呟き、まとわりつく何かを振り払うように踵を返す。
 一瞬だけかすめた痛みの色は、まるで最初から存在しなかったようにぬぐい去られて消えた。
「……それじゃあ、私はもう行くが」
「あ、はい、そうですよね。申し訳ありません、さっきから長々と……」
「いや」
 気にするな、と頭を振ったアーシェに、ファレオはにこりと人好きのする笑みを浮かべてみせた。真面目さの伺える動作で深く一礼し、そのままアーシェの進行方向とは逆向きに足を踏み出す。まるでそれを見計らっていたように、今まで静かだった風がふたりの間を吹き抜けていった。
「それでは」
「ああ」
 背筋の伸びた後姿を一瞥し、楽しげにじゃれついてくる風に頬をゆるめると、アーシェは城の入り口に向けて止まっていた歩みを再開した。純金の髪がさらさらと流れ、見えない風の手によってひどく軽快な軌跡を描く。
 その歩みが当然のように止まったのは、ちょうど吹きさらしになっている回廊の中央に差しかかった時だった。
「……で?」
 体は行き先である前方を向いたまま、青の瞳だけを等間隔に並ぶ列柱のひとつに据え、アーシェは肺を空にする勢いで溜息を吐いた。
「おまえはそこで何をしてるんだ、クレス?」






    


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