紅の覚悟 1





 呼気が白く立ちのぼるためか、冬の戦場は他の季節に比べて視界が悪い。
 今も数千人分の吐息が白くけむり、張り詰めた冬の大気を曖昧にぼかしていた。普段なら特に気にならないのだろうが、自分の口から漏れる息さえうとましく感じられ、ファレオは上擦ったものになりがちな呼吸を意志の力で抑えつける。
 ランドーラの足止めに向かった部隊が壊滅し、わずかな手勢のみが王都レスファニアに帰還した夜から、いまだ二日しか経過していない日の正午。空は嘘のように晴れわたり、冬特有の冷たい日差しをレファレンディアの王城に降らせていた。これから戦の中で命を落とす無数の兵士たちに、太陽神レヴァーシニティが最後の慈悲を垂れているのだろう。
 埒もない思考に沈み込みながら、ファレオは国王の筆頭護衛官として見事に務めを果たしていた。
 レファレンディアの軍構造は独特で、有事には国王その人が最高司令官に、護衛官がそのまま最高司令官の補佐にあたる。レファレンディア軍の若き副将として、幼い頃から仕えている主君の補佐として、ファレオは武器の確認や糧食の補充に余念がなかった。あるいは動いていなければ緊張に耐えられなかったのかもしれない。
「ファレオさま、第三大隊の配備及び展開、完了いたしました」
「司令官補佐! レスト街の避難民の収容を確認しました。残っている者はこれで全部です」
「城門の封鎖も確認済みです。魔術兵と弓兵も持ち場につきました」
「そのまま待機、指示があるまで陣形の保持に全力をそそげ」
「は!」
 次々ともたらされる報告に指示を出しつつ、ファレオは王城の下に広がる平野へと視線を投げた。
 ゆるやかな丘の裾野に広がる、普段は狩りや遠駆けに使われるなだらかな平野は、すでに布陣を終えたランドーラの兵士によって埋め尽くされていた。小部隊編成を主とするレファレンディアと違い、ランドーラは密集陣形を作り得るだけの歩兵と、甲冑に身を固めた重装騎兵から成り立ち、その圧倒的な兵力をいかした戦法を取ることで知られている。
 中でも特に目を引くのは、一部の歩兵が手にしている長い柄の槍だった。レファレンディアの騎兵が勇猛をもって知られるように、ランドーラの槍兵はその統率のとれた動きによって武名を轟かせている。その大半は王都の守りをになう近衛兵のはずだが、それがほぼ完璧にそろっているところをみると、ランドーラ王はこの一戦でレファレンディアとの膠着状態に終止符を打つつもりのようだった。
 レファレンディア軍の総数は約二十二万。対するランドーラは二十八万といったところだろう。こちらには要塞として使える城があるが、篭城戦が有効なのは援軍が望める状況のみである以上、レファレンディアの置かれた状況は決して楽観視できるものではなかった。
 まとわりついてくるような重い空気に、ファレオが堪えきれず溜息を吐いた時だった。
「辛気臭い面してんじゃねえぞ、おまえら!」
 低く通りのよい聞き慣れた声が、不安も絶望も吹き払うような音をもって響きわたったのは。
「たとえ状況は絶望的でも、こっちには戦神シエルの御子がついてるんだ。なにを恐れる必要がある?」
 一斉に集中した視線を受け、それでも揺るがずに泰然とたたずんでいるのは、ファレオが最後まで行動を共にしようと誓った獅子王だった。いつ矢が飛んできてもおかしくない状況だというのに、恐れた様子もなく自然に前を見据え、口元には不敵としか表現しようのない笑みを浮かべている。
「戦う前から絶望するな、顔を上げろ! これがレファレンディアの最後の祭りだ! ランドーラの横っ面を張り倒してやろうぜ!!」
 空気を裂いて響いた声には、瞬間的に兵士たちの士気を高め、立ち込めていた不安を吹き払ってのけるだけの、普段と何ひとつ変わらない強靭な明るさがあった。
 一拍置いてわぁっという歓声が上がり、ひとりひとりが決意を込めて弓を、槍を、剣を宙へと突き上げた。獅子王クレスレイドさま万歳、戦神の御子アーシェ殿万歳という声が、ランドーラの陣営をたじろがせるほどの大きさで王城全体にこだましていく。
 外堀の上部に作られた足場に立ち、何も言わずに兵士たちの熱狂を見守りながら、アーシェはクレスの後姿に視線をやって小さく笑った。希望を持ち続けることが困難な状況で、それでも絶望せずに笑っていられるクレスの強さを、他の何物にも代えがたいほど貴いものだと感じたからだ。
 そのまま視線を横に動かし、篭城にそなえて完全に封鎖された王城と、手にした武器を突き上げる兵たちと、平野に布陣するランドーラの軍を順に見やる。ひとつひとつを瞳の中に焼きつけながら、ふと時空の神クロスファディアが仕事を放棄し、流れていく時間が止まってしまえばいいと思った。
(……まるで子どもみたいだな)
 これじゃあ私もクレスのことを言えない、と胸中にひとちごち、アーシェは何かを振り切るように一瞬だけ瞑目した。自分を抱くように組んでいた腕をほどき、兵たちに指示を出すクレスのもとへと歩み寄る。最後の覚悟をきめるために。
「――――クレス」
 背後からかけられた静かな声に、クレスはひょいと体ごと振り返った。
「ん? どうかしたか?」
「最後にひとつだけ。私はおまえと少数の民、もしくは兵だけなら、ランドーラの囲みを突破して逃がすことができる」
「……アーシェ?」
「逃がして……生き延びさせることができる。それでもおまえはここで、最後まで戦うことを望むか?」
「……」
「勝ち目などないと、わかっているのに」
 アーシェの声はどこまでも淡々としていたが、彼の言わんとしていることはクレスにもわかった。
 アーシェはクレスを生かしたいのだ。そして同時に、クレスが兵たちを見捨てるはずがないということもわかっているのだ。それでも問いかけずにはいられなかったところに、アーシェの抱える人間らしい弱さと、十八という年齢にふさわしい幼さがあるのだろう。
 わずかに胸が痛んだが、クレスはその思いが嬉しかった。
「ああ。別に死にたいわけじゃねえし、討ち死に覚悟の決戦なんて趣味じゃねえけどよ。俺は王だ、俺を信じて戦ってくれるやつらを裏切れねえからな」
 場違いなほど朗らかな表情で笑い、クレスは傍らに立った華奢な青年を見下ろした。純金色の髪を後頭部で束ね、腰に瀟洒なこしらえの細剣を佩いたさまには、やはり戦神の御子に違いないと思わせるだけの荘厳な美しさがある。あるいはクレスにとって、戦神シエルも理の神アーカリアも関係なく、アーシェという存在こそが守り神に等しいのかもしれなかった。
「それに、レファレンディアにはアーシェがいるからな」
 そこまで悲観するような状況じゃねえよ、と言い切ってみせたクレスに、アーシェ青い瞳を細めて微笑を作った。
 慣れているはずのクレスが見惚れてしまうほど、それは現実離れして綺麗な微笑だった。
「そうか。なら私は最後までつきあおう。最後までおまえと、おまえの愛する国のために戦おう。――――わが友のために」
 ふいに横殴りの風が吹きぬけ、アーシェの金髪とクレスの黒髪を空へと巻き上げていった。乱暴でありながら優しさを感じさせるそれに、クレスも嬉しそうな表情でにっと笑う。
「頼りにしてるぜ。アーシェ」
「ああ」
 軽く拳を掲げてみせたクレスに頷き返し、アーシェは友と肩を並べてランドーラの軍を見下ろした。整然と布陣した兵士たちの中、仔象ほどもある投石器や破城槌(はじょうつい)が陽光を受け、その重々しい存在感をレファレンディアの兵に見せつけている。例の魔術師が見つからないかと目を凝らしてみたが、アーシェの超人的でさえある視力をもってしても、二十八万にも及ぶ大軍の中からたったひとりの姿を拾うことはできなかった。
 だが、むき出しの肌がぴりぴりと痛むような感覚に、すさまじい魔力をもった存在の片鱗だけは感じ取ることだけはできた。
「……クレスレイドさま」
「ファレオ、どうだ」
「はい。こちらの軍に不備はありません。避難民の収容も完璧のはずです。……いざという時は、奥の森から手はずどおり逃がす準備も」
 固い表情で近づいてきたファレオが、副将らしくきびきびした口調で準備が整ったことを告げた。焦げ茶色の瞳がクレスの横にたたずむアーシェを捉え、ほんのわずかな安堵に柔らかくゆるむ。アーシェも目元を和ませて淡い微笑を作ってみせた。
「……あれがランドーラの総大将か」
「はい。アーシェ殿がご存知かどうかはわかりませんが、ランドーラの国王であるフォルストラの甥で、門閥貴族ラジェンディア家の若君のナジェール将軍です。武人として優れているという評判は聞きませんが、家柄だけはランドーラでも五指に入るほどの名門だと言えます」
 生真面目に説明するファレオの視線の先で、一際立派な甲冑に身を包んだ男がさっと手を挙げた。武人として評価されている男ではないが、少なくとも臆病な男ではないようで、弓兵ら前線部隊と共に城門の前にある広間に布陣している。随所に金をあしらった甲冑が日差しを弾き、呼気にけむる大気の中にぎらぎらした輝きを刻みつけていた。
「来るな」
「ああ」
 短く交わされた会話が合図だったように、ナジェールが掲げていた手を勢いよく振り下ろした。
「撃て!!」
 次いで喇叭(らっぱ)の音がそこかしこで鳴り響き、弓兵たちが手にした矢弦を極限まで引き絞った。ビィン、という音と共に数千の矢が放たれ、黒い豪雨となってレファレンディアの王城に降りそそぐ。まっすぐではなく斜め上空へと射られた矢は、重力に従ってレファレンディアの兵士たちに襲いかかり、避け切れなかった何人かの体に深く突き刺さった。
「撃て!」
 一度目の攻撃をやり過ごした後、ファレオの号令に従ってレファレンディア軍も矢を放った。
 レファレンディアの王城は、城壁がない代わりに建物の外周が大きく張り出し、横に長い巨大な露台を思わせる作りになっている。そこに展開した兵士たちが、細長い穴の開いた壁に身を隠しつつ、城に向かって進んでくるランドーラ軍に矢の雨を降らせ始めた。高い位置から飛来する無数の矢に、今度はランドーラの兵たちがばたばたと倒れ、まっさらな大地を鮮やかな血の色に染めていく。
 弓兵の数はランドーラ軍の方が勝っていたが、レファレンディア軍には高さと風が味方した。高い位置から射かけられた矢は、追い風の助けを得て速度を増し、盾でふせごうとするランドーラ兵に雨霰(あめあられ)と降りかかる。
 それは数の不利を補ってあまりある利点だったが、敵軍にはその攻撃を恐れないだけの指揮系統と、味方の屍を踏み超えて進むだけの圧倒的な兵力があった。投石器を使って足場を破壊しようとするランドーラ軍に対し、レファレンディア軍も一抱えほどある石を飛ばして必死に応戦する。敵が丸太を組んだ筏(いかだ)を持ち出し、水の湛えられた堀に浮かべようとするのを、そうはさせじと弓兵の矢を集中させて何とか防いだ。
「負傷した者は城の中へ! 堀を渡らせるな、矢を集中しろ!!」
 戦場の怒号にまぎれないよう、ファレオは自身も弓を手にしながら声を張り上げた。
 敵が王城を囲む外堀を越え、門を破って内部に侵入してこない限り、剣や槍を使った兵同士の白兵戦になることはない。その時を少しでも先延ばしにするべく、レファレンディアの兵たちは弓や投石器にかじりつき、押し寄せてくる大軍相手に獅子奮迅の戦いを見せていた。弓の命中速度ならレファレンディア側が勝っているほどで、堀に足場を組もうとする敵兵には狙いすました矢を放ち、それ以上王城へと接近することを許さなかった。
「無駄には撃つな! 必ず合図があってから指示された場所に撃て!! 投石器では相手側の投石器と筏のみを狙う!!」
 喧騒の中でもよく通るクレスの声に、レファレンディアの兵たちからおぉっという鬨の声が上がった。圧倒的に不利な状況に立たされながら、その目には国王であるクレスへの信頼と、希望を信じる強い光だけが湛えられている。一度戦いが始まってしまえば、勇猛で知られるレファレンディアの精兵たちが勝利を諦め、絶望に膝を屈してしまうことなどありえないのだ。
 後に『レスファニアの決戦』と呼ばれることになる戦いは、こうして両者がほぼ互角のまま幕を開けた。






    


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