紅の覚悟 2





 最初の矢が射られてからしばらくの間、戦況はレファレンディア有利のまま進んでいるように見えた。
 飛ばされた巨石が足場の一角を崩したが、それでも完全に破壊してしまうまでにはいたらない。歩兵たちが盾を並べてふせいている間に、工兵たちが運んできた土嚢(どのう)を積み上げ、目を見張るほどの速度で崩された部分を補強していく。お返しとばかりにこちらの投石器がうなり、まさに石を飛ばそうとしていた敵の投石器ひとつを叩きつぶした。
 だが、それは次の瞬間に起こった。
「なっ……」
 もっとも早くそれに気づいたのは、崩された足場の補強をしていた工兵たちだった。硝子をこすり合わせたような音が響き、それと共に突風じみた風がレファレンディアの兵に襲いかかる。思わず両手で目をかばい、手を止めて空を仰いだ彼らの視界に、不吉という言葉をそのまま具現化したような光景が飛び込んできた。
 大きく広げられた皮膜状の翼に、爬虫類のそれを思わせる赤褐色の鱗。狙った獲物を引き裂くためか、必要以上に発達してみえる巨大な爪。長くしなやかに、何よりの凶暴さをこめて揺れる先細りの尾。
 獣人などとは比較にならない、最上級の魔獣の一種。
「――――飛竜(ひりゅう)っ!!」
 悲鳴に誓い近い叫びに答えるように、飛竜は音として聞き取ることのできない奇妙な叫びを上げた。そのまま翼をたたんで滑空の姿勢を取り、工兵たちのいる足場の一部に巨大な鉤爪を叩きつける。投石が当たってもわずかに崩れただけの壁が、まるで蝋細工のようにあっけなく砕け、数十人の工兵と歩兵がそれに巻き込まれて落下した。
「そんな……まさか竜族まで……!」
 右手に弓矢を握り締めたまま、ファレオが呆然とした表情で呟いた。
 獣人のようにはいかなかったのか、使役されているのは竜族最下位の飛竜のみで、数も最初に現れた四頭から増える気配はない。それでもレファレンディアにとっては災厄に他ならなかった。十数人が翼によって足場から叩き落され、鋭い鉤爪によって空中に放り出される。必死になって矢を射かけても、全身を覆う固い鱗に振るい落とされ、その奥にある飛竜の体を傷つけることはできなかった。
「……クレスレイドさまっ!!」
 自身も矢によって飛竜を狙いながら、ファレオは近くにいるはずの主君を振り返った。彼が無事かどうか確かめなければならなかったし、飛竜を相手にどう戦うか指示を仰ぐ必要もあったからだ。
 その瞬間、とんと軽い音を立てて誰かが足場を蹴った。
「……え」
 ファレオが真横を見返るより早く、その人物は石で組まれた壁を蹴りつけ、抜けるように晴れた空へと細い体を躍らせた。戦装束の裾が風をはらみ、まるで大きく広げられた翼のようにふわりと翻る。
 見開かれた瞳に映り込んだのは、太陽の光よりもなお眩しい純金色だった。
「――――アーシェ殿っ!!」
 間近で目撃したファレオのみならず、その場にいた全員から悲痛な絶叫がほとばしった。王城の巨大さからも知れるように、足場から地面までは人間十人を重ねたほどの高さがある。桁外れの身体能力を持つアーシェとはいえ、翼のない人間がそこから飛び出して無事にすむはずがなかった。
 身を隠すことも忘れて石壁に取りつき、ほとんど反射的にアーシェに向かって手を伸ばす者さえいたが、空に躍り出た青年は彼らの想像を遥かに超えるほど非常識だった。
 重力に捕らわれて落下することなく、それどころかあっさりと飛竜の顎を飛び越え、湾曲して伸びる角をつかんでその背に着地してみせたのだ。突然現れた異物の存在に気づき、狂ったように暴れる飛竜につかまったまま、まるで平地にいるような動きで腰の細剣を抜き放つ。そのまま流れるように逆手に持ち替え、銀に輝く切っ先を飛竜の頭部へと突き下ろした。
 ずぶりというくぐもった音を立て、細剣の刀身が半分以上鱗の隙間にもぐり込んだ。
 飛竜の体がびくんと痙攣し、次いで耳をつんざくような絶叫が空気をかきむしった。大きく開かれた口から泡を飛ばし、暴走と言っても過言ではない勢いで宙をのたうち回るが、アーシェが細剣を深く突き入れるにつれてその動きも小さくなっていく。
 やがてゆるやかに落下を始めた巨体を蹴り、突き立っていた細剣をいとも簡単にとり戻すと、アーシェは何事もなかったように足場の壁へと降り立ってのけた。
「借りるぞ」
「……え? あ……」
 そのまま呆然としている兵から槍を奪い、何気ない動作で甲冑に守られた肩を背後に追いやった。優しくさえ見える手つきだったが、長身の兵はその場でたたらを踏み、まるで突き飛ばされたようにアーシェの後ろへ下がる。
 そこに別の飛竜が襲いかかった。仲間を殺された復讐のつもりか、びっしりと並ぶ太い牙をむき出しにし、壁の上に立ったままのアーシェに向かって急降下をかけてくる。背後でレファレンディアの兵たちが悲鳴を上げたが、アーシェは壁から下りることも避ける素振りを見せることもなく、細い腕には不釣り合いな長槍を飛竜の口腔内へ突き出した。
 勝敗が決したのはその瞬間だった。飛竜がアーシェに激突したように見えたとたん、その首の後ろから槍の穂先が飛び出し、青い空に竜族特有の緑がかった血をまき散らしたのだ。
「――怯むな!」
 槍の柄を思いきり押しのけ、びくびくと震える飛竜の体ごと落下させながら、アーシェは足場の上に展開するレファレンディアの兵を振り返った。飛竜の血がいたるところに飛び散り、白皙の肌に不吉なまだら模様を描いていたが、その神がかってすらいる美貌はわずかにも損なわれていない。
「いいか、怯むな! 残りの飛竜は私が何とかする、おまえたちはランドーラの兵士にだけ注意していろ!!」
 それはどこまでも異質な戦神の姿だった。
「飛竜が現れたくらいで絶望するな、おまえたちの王と共に戦え! おまえたちが戦う限り、その背後は私が守ってやる!!」
 人間とは根本的に違う、圧倒的な力を振るうためだけに作られた、ひどく美しい偶像の姿だった。
「……戦神の御子」
 ぽつりとこぼされた呟きをきっかけに、兵士たちはその目に熱狂的な光を浮かべ、それぞれの武器を高々と宙に突き上げた。
「戦神シエルの御子っ!」
「われらが王の守り神!!」
「戦神アーシェ殿!!」
 いたるところで弾けた歓呼の声は、すぐに王城をゆるがすほどの大音声となり、戦の喧騒をものともせずに晴れた空へと響いていった。何度も繰り返される戦神の呼称に、アーシェは青の瞳を細めて淡く微笑する。
 兵士たちがより所を必要としているのなら、いくらでも戦神の御子を演じてやりたかった。彼らが希望を信じられるなら、たとえ嘘でも戦場を照らす光でありたかった。
 この異常な力はそのためにあるのだと、たとえお門違いの思い込みでも信じていたかった。
「……アーシェ!!」
 思考に沈みかけたアーシェの思考を、すぐ傍で響いたクレスの声が現実に引き戻した。
「やるじゃねえか、アーシェ!」
 的確な狙いで矢を放ち、堀を渡ろうとしていた敵兵を水に突き落としたクレスが、壁の上に立っているアーシェに明るい笑みを向けた。身軽な動作で足場の上に降り立ち、アーシェもクレスに劣らないほど鮮やかな笑顔を返す。
「このくらいは当たり前だ。飛竜程度なら私ひとりでどうにかできる」
「頼む。けど無理はすんなよ」
「ああ、おまえも」
 一瞬だけ視線を交わしあい、ふたりはそれぞれの役割を果たすために身を翻した。クレスが兵たちの指揮に戻ったのを確認し、アーシェは今だ残っている二頭の飛竜に視線を向ける。
 仲間が殺されたことで警戒心を煽られたのか、二頭とも王城の上空をゆるやかに旋回し、こちらに襲いかかってくる様子を見せていなかった。アーシェの持つ異常な力に気づいたらしく、時おり警鐘のような鳴き声を発し、虹彩と白目の区別がない双眸でアーシェを睨みすえてくる。そこに揺れているのはまぎれもない憎悪の光だった。
「……さすがは竜族だな。魔術によって操られていても、仲間の死にはそうして怒るのか」
 独白めいた口調で呟き、アーシェは近くの弓兵から持ち手の長い強弓(ごうきゅう)を借り受けた。確かめるように矢弦を弾いた後、手慣れた仕草で矢をつがえ、上空を旋回する飛竜の一頭に狙いを定める。
 弓から放たれた一本の矢は、重力に逆らっているとは思えない動きで風を裂き、狙い違わず飛竜の片目に深々と突き刺さった。
 眼球に矢を突き立てたまま、飛竜は痛みというより怒りを感じているように体をくねらせ、残った片目に今までとは比較にならない憎悪の色を閃かせた。軋むような絶叫が空気を揺らし、まだ無事であるはずの石壁をびりびりと震わせる。
 それほどまでに壮絶な怒りだったが、アーシェは怯むどころか顔色ひとつ変えなかった。手にした弓を兵士の手に押しつけ、代わりに鞘へ戻していた銀の細剣を両手で構える。怒りのままに突っ込んできた飛竜の首を、まるで紙細工を相手にするように斬り飛ばし、その巨体が足場の壁を崩す前に斜め上空へと蹴り上げてみせた。
 竜族の中でも最高位と目される鋼竜や晶竜は、最下位である飛竜十頭分とも十五頭分とも言われる力を持つ。その最高位竜とも互角に戦ってのけるアーシェにとって、飛竜四頭などその辺りの雑兵と大差なかった。今は魔術のほとんどを使うことができないが、神属リシェランディアすら上回る常識はずれの身体能力だけで、人間ごときに使役されるような下位の竜族ならあっけなく殲滅できる。
「……あと一頭」
 ひややかな眼差しで上空を仰ぎ、アーシェは頬に飛び散った緑色の血を無造作にぬぐった。優雅な仕草で細剣を振るい、刀身に付着した飛竜の血をも払い落とす。
 その時だった。
 突如として冷水を浴びせられたような寒気を感じ、アーシェは王城に群がっているランドーラの兵に視線を投げた。頬や手が痺れにも似た痛みを訴え、空気が鉛に変わってしまったように呼吸が困難になる。風がうねるように圧迫感を増し、アーシェに優しかった世界がほんの一瞬だけ、だが確実に敵意や悪意に満ちたものへと変化した。
 それはアーシェのよく知る感覚だった。
「――――避けろっ!!」
 間に合わないと知りつつ、アーシェは背後の兵たちに向かって全力で叫んだ。身を翻すと同時に地面を蹴りつけ、クレスたちの前方に華奢な体を滑り込ませる。クレスが弾かれたように顔を上げ、アーシェの叫びに目を丸くしたのが見えたが、それすら速すぎる動きのせいで満足に知覚することができなかった。投げ出された細剣が宙を舞い、異様にゆっくりした動きで石作りの地面に落下する。
「……っ!!」
 石で組まれた壁が広範囲にわたって爆発したのと、不吉な音を立ててアーシェの体から鮮血が噴き上がったのと、レファレンディアの兵士たちが突然の強風に突き倒されて転がったのは、わずかな差こそあれほとんど同時だった。






    


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