紅の覚悟 3





 間近で巻き起こった強風に突き飛ばされ、クレスはとっさに頭をかばいながら地面に転がった。そのまま受け身を取って反転し、体術の手本のような動作ですばやく跳ね起きる。
「……何だ?」
 投石器の石が投げられたわけでも、飛竜の爪が叩きつけられたわけでもないのに、頑丈なはずの石壁が抉り取られたように吹き飛んでいた。ざわりと肌が粟立つのを感じ、膝をついた姿勢のまま周囲に視線を走らせる。爆発の規模はかなりの範囲にわたっていたが、近くにいた兵士が爆風に突き倒されただけで、幸いなことに直撃をくらった者はいないように見えた。
 クレスは小さく安堵の息を吐いた。まだ多少ぼんやりする頭を振り、あと少しでもずれてたら大変なことになっただろうな、と意識の冷静な部分で考える。周囲に転がっている兵士たちだけでなく、爆発の正面にいたクレスとて無事ではすまなかったはずだ。
(――――あと少しでもずれてたら?)
 そこまで考えたところで、クレスはふっと紅の瞳を見開いた。
 人為的ではない風が吹きすぎ、もうもうと立ち込めていた爆発の名残を払いのけていく。じっと凝らされたクレスの視線の先、弾け飛んだ壁と彼らのちょうど真ん中に位置する場所で、見慣れた純金色の光がわずかな風に吹き散らされた。
「……アーシェッ!!」
 クレスの叫びが合図であったように、アーシェの華奢な体が足元の地面に崩れ落ちた。
 透きとおるような石材で作られた地面に、見る見るうちに深紅の染みが広がっていく。一体どんな攻撃を受ければそうなるのか、全身の肌という肌がずたずたに裂け、優美な意匠の戦装束を禍々しい赤に染め上げていた。
 何が起こったのかなど考えるまでもなかった。不可解な力が王城を襲った瞬間、アーシェが超人的な脚力で進行方向に割り込み、背後にいたクレスたちを破壊の衝撃から守ったのだ。激しく上下する細い肩と、全身に走る痛々しいまでの裂傷が、アーシェの受けた破壊力の大きさを物語っていた。
「アーシェ!!」
「……来るなっ!!」
 思わず駆け寄ろうとしたクレスを、その場にうずくまったままのアーシェが鋭く一喝した。繊細な美貌をかすかにゆがめ、口元を押さえながらけほ、と乾いた音の咳を漏らす。
「来る、な……っ」
 傷が内臓にまで達しているのか、アーシェは体を折って激しく咳き込み、喉の奥に引っかかった血の塊を吐き捨てた。手の甲で血に染まった口元をぬぐい、それだけは力強い動作で伏せていた瞳を持ち上げる。かすれていながら流麗に響く声と、傷を負ってなお意思の力を失わない瞳には、駆け寄ろうとしていたクレスの足を止めるだけの力があった。
 全身で荒い息を吐きながら、アーシェは不可視の力が襲ってきた方向へと視線を向けた。
 アーシェの人間離れした力に怯んだのか、攻撃の激しさを失いつつあったランドーラの陣頭に、長衣をまとった人影が歩み出てくるところだった。血の匂いを乗せた風が抜きぬけ、まっすぐに流れ落ちる黄金の髪を巻き上げていく。矢の雨をものともせずに歩を進め、屍の浮いた堀の傍で立ち止まると、その人物は何気ない動作で白い腕を差し伸べてみせた。
 変化は一瞬だった。
 パキパキという異様に澄んだ音が響き、堀に湛えられていた水があっという間に凍りついたのだ。体中から矢を生やして浮かんでいた兵が、投石器によって破壊された筏(いかだ)の残骸が、瞬く間に白い氷に覆われてひとつの彫像と化す。
 レファレンディアの兵のみならず、ランドーラの兵たちもぎょっとしたように身を引いたが、すぐに自身を鼓舞するような鬨の声を上げ、目の前に作られた氷の道に勇ましい態度で足を踏み入れた。おぉっという怒号が大気を震わせ、その響きが塊となってレファレンディアの城門に殺到する。
 それを見やって小さく笑い、長衣の人物はどこか優雅な仕草で片方の腕を差し上げた。天に向かって手を差し伸べ、周囲に満ちている魔力を強制的に収斂させていく。アーシェは反射的に身を乗り出し、城門を守っている兵たちに逃げろと叫んだが、声を届かせるには両者の間にある距離が長すぎた。
「……っ」
 アーシェの叫びを嘲笑うように、細い腕が宙から地面へと振り下ろされた。
 たったそれだけの動作だったが、引き起こされた被害は甚大の一言に尽きた。目に見えない刃が次々に飛来し、レファレンディアを守る頑強な城門に深く突き刺さる。まるで爆発するように鉄板の仕込まれた城門が弾け、そこに配置されていた兵士たちを乱打し、一瞬前まで生きていた人間を血と肉の塊に変えていった。
 レファレンディアにとっての悲劇は、ランドーラにとっての好機に他ならなかった。フォルストラ王陛下万歳、という決まりきった文句を絶叫し、武器を振り上げながらレファレンディアの王城内へと突入してくる。運び込まれた梯子(はしご)や櫓(やぐら)が足場にかけられ、ランドーラの兵たちが蟻の大群を思わせる動きで這い上がってきた。
 先ほどのすさまじい攻撃を見せつけられたレファレンディアに、その侵入をふせぐ手立てはなかった。
「アーシェ……ッ!」
 矢弦の代わりに剣戟の音が支配者となる中、クレスはろくに動けないでいるはずのアーシェを振り返った。近くでしっかりと確認したわけではないが、あの傷では常のような動きができるはずもない。いくら並外れた回復力を持つとはいえ、一度城内に戻って手当てをしなければ命に関わる。
 クレスはごく自然にそう思ったのだが、振り返った先に純金の髪を持つ青年の姿はなかった。
 致命傷といって差し支えのない傷を負いながら、アーシェは先ほど投げ出した細剣を掬い上げ、無残に破壊された石の壁に向かって走り出していた。一歩目の直後にぐんと加速し、櫓から降り立った長衣の人物を狙って切っ先を走らせる。弾け飛んだというより掻き消えたという方がふさわしい速度で、何の武器も持たずにたたずむ人物に細剣の刀身を振り下ろした。
 アーシェが感じているのは怒りだった。どうしようもない遅れを取った自分に対して、魔術を使ってレファレンディアの人間を傷つけた相手に対して、アーシェは焼けつくような激しい怒りを自覚していた。傷の痛みを凌駕してあまりあるほどに。
「……ふぅん」
 それは飛竜であっても避けられない完璧な一撃だったが、振り下ろされた刃が長衣の人物に届くことはなかった。集められた魔力が極薄の壁を形成し、キィンという金属音を立ててアーシェの攻撃を受け止めたのだ。
 ある程度予想していたのか、アーシェの表情に驚愕の色は浮かばなかった。
「――――おまえは、何者だ?」
 低く抑えられたアーシェの問いに、その人物は寒気がするほど冷たい表情で微笑した。
 ふいに魔力の壁が音もなく消し飛び、周囲にすさまじい勢いの突風を巻き起こした。近くにいた兵士が足をもつれさせ、堪えきれずに足元の地面に転倒したが、アーシェは吹き上がる風の勢いに逆らわず、その流れに乗るようにして離れた位置に着地する。それは背中に翼がないことが不思議に思えるほどの、軽やかで無駄のない優美な動きだった。
 全身に走る裂傷はまだふさがっていなかったが、その程度の痛みはアーシェのさまたげにはならなかった。じわじわと血の滲む傷口に手をやり、細胞のひとつひとつに癒せと命令する。それだけで熱を伴う痛みがやわらぎ、流れ出す血の量が少なくなった。
 ふぅっと細く息を吐き出し、アーシェは赤く染まってしまった手で細剣を握りなおした。
「……驚いたな」
 そんなアーシェを興味深そうに見やり、長衣の人物はゆったりと微笑んでみせた。
 年の頃は二十代の半ばといったところだろうか。長く伸ばされた黄金の髪、青と緑を半々に混ぜ合わせた双眸、ぞっとするほど端麗に整った造作の、クレスとさして変わらない背を持つ細身の青年だった。
「その回復力といい、先ほどの人間離れした動きといい、貴様は神属リシェランディアか?」
「……答える必要はないな」
 氷を思わせるひややかな口調に、アーシェも負けじと冷たい答えを返した。乱れたものになちがちな呼吸を抑え、血ですべる細剣の柄を何度も強く握りなおす。
「――――アーシェッ!!」
「来るな、クレス!!」
 すぐ近くでクレスの声が響いたが、アーシェはそちらを見ることすらなく叫び返した。
「おまえは来るな、ランドーラの兵だけと戦ってろ! おまえたちは私が守ってやる!!」
 油断なく眼前の人物を見据えながら、アーシェは吹き抜ける風にさらわれないよう、わずかにかすれた声を張り上げた。
「守ってやるから!!」
 その言葉があまりにも真摯に響いたからか、クレスは駆け寄りたい衝動をぐっと堪え、アーシェから数歩離れた位置で立ち止まった。
 いかに勇猛さを讃えられる王であっても、クレスは理の神の加護を得られなかった人間にすぎない。腕の一振りで堀の水を凍らせ、頑強な城門を吹き飛ばす魔術師相手に、ただの人間ができることなど皆無に等しかった。アーシェも今は魔術が使えないはずだが、それでも彼の強さは戦神の域にまで達している。何があってもアーシェは負けないだろう。
 クレスにとってはそれだけで十分だった。
「負けんなよ、アーシェ!!」
 襲いかかってきたランドーラ兵を一撃で斬り捨て、クレスは静かに前を見据えるアーシェの後姿を見やった。
「死ぬくらいならレファレンディアから追い出すからな!!」
 ごく小さな笑みを滲ませ、アーシェは前を向いたままはっきりと頷いてみせた。血まみれの細剣を片手に構え、どんな動きにも対応できるようにすっと腰を落とす。張り詰めていながらどこまでも典雅な、神々の舞踏を思わせるアーシェの動きに、黄金の髪を持つ青年はくすくすと低い笑い声を立てた。
「なるほど、国王クレスレイドに雇われた用心棒といったところか。噂どおりだな」
「さっきも言ったが、答える必要はないな。……それより、私の質問に答えてもらおうか」
「俺が何者か、という質問か?」
 嘲笑の色濃く滲んだ口調だった。
 すいと掲げられた細い指先に、何の前触れもなく白金色の炎が巻き起こった。アーシェは何の反応も返さなかったが、それを見てしまった兵士たちが堪えきれずに悲鳴を上げ、無意識のうちに青年から距離を取ろうと後ずさる。火種となるものが存在しないにも関わらず、青年が無言のまま炎を生み出してみせたことに気づいたからだ。
「まさか……っ」
 使役系魔術師であるなら詠呪(えいじゅ)なしでも発動できるが、召喚系魔術師であるなら炎を呼ぶための呪文が不可欠のはずだった。そんな、という恐怖が込められた兵士たちのざわめきに、青年は炎をまといながら碧の瞳をすがめて笑う。
「エリュシオン」
 白金の炎がふわりと舞い上がり、まるで青年を祝福するように光をまき散らした。
「裁定者(さいていしゃ)レガート・エリュシオン。それが俺の名前だ」
 青年の告げたエリュシオンという名は、二年前に行われた『デリスカリア建国の戦』において、その立役者の裁定者自身が名乗ったとされる名前だった。周囲から上がる絶望的な叫びをよそに、アーシェは稀有な美貌に侮蔑に近い表情をよぎらせる。
「……裁定者、か」
「そうだ。貴様の名も聞いておこうか」
「アーシェ・エリュスだ」
 何のためらいも含まれていない口調で答え、アーシェは腰を落としたまま銀の細剣を構えなおした。吸い込んだ息を静かに吐き出し、血に染まった自分自身の体に問いかける。
 このまま相手に向かって走り出し、手にした細剣を振るうことができるかどうか。呪文なしで発動される攻撃をかわし、最後まで戦いを続けることができるかどうか。魔術を使うことができない身で、絶大な力を持つ魔術師を相手取り、握り締めた細剣一本で倒すことができるかどうか。
(……大丈夫だ)
 明確な答えを得ることはできなかったが、胸のうちから湧き上がり、全身に染み渡っていく言葉はひとつだけだった。
(まだ、戦える)
 アーシェにできるのはそれだけだから、命が尽きる瞬間まで戦い続けようと思った。不器用なアーシェが彼らに返してやれるのは、この異常としかいいようのない力と流された血と、何があっても揺るがない紅の覚悟だけだったから。






    


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