王者の帰還 1





 冬の冷たい大気を引き裂き、炎の矢がアーシェに襲いかかった。流れるような動作で横向きに飛び、アーシェは連続して降りそそぐそれに空を切らせる。石作りの地面に激突した炎は、火の粉を散らしながら金色に弾け、硬いはずの表面に抉ったような痕跡を作り出した。
「ふん、なかなか」
 手負いの相手が見せた予想外の動きに、レガートは愉快そうな表情で片方の眉を持ち上げた。
 レガートは理の神アーカリアの加護を受ける魔術師だが、戦神シエルの寵愛を集める屈強の戦士ではない。その身に絶大な魔力を帯び、それを扱う術に長けているとはいえ、純粋な身体能力ではアーシェの足元にも及ばなかった。
 それがわかっているからこそ、レガートはアーシェに接近を許すつもりは微塵もなかった。
 風の流れを巻き取るように腕を伸ばし、間合いをつめてきたアーシェに向かって勢いよく振り下ろす。とたんに冷たい風がうなりを上げ、目で捉えることのできない無数の刃を作った。アーシェの頬から、肩から、腕から、目にも鮮やかな赤が音もなく噴き上がる。
「……っ」
 術の原理はかまいたちに近いもので、傷の深さのわりに出血の量は少ない。一瞬で避けるまでもないと判断し、速度をゆるめないまま地面を蹴ると、アーシェは無防備に近いレガートの懐へ飛び込んでみせた。
 レガートがかすかに目を見張った。魔力による防壁を張り、迫ってくる細剣を弾き飛ばそうとするが、アーシェの動きの方がわずかに速い。
「なに……っ」
 呟きを漏らしたのは無意識の行動だった。
 刀身のほっそりした優雅さにも関わらず、飛竜の首を紙細工のように切り飛ばしてのける細剣が、誰であっても目で追うことのできない速度で振り抜かれた。切っ先が張りかけの防壁に当たり、束の間ギシギシという軋んだ音を立ててせめぎ合う。大気が悲鳴を上げるほどの激しい攻防だったが、最終的に力ずくで相手を押し切ったのはアーシェの方だった。
 魔術による防壁がこじ開けられ、その奥にいたレガートの体に朱色の線が走った。つっ、という短いうめき声に付随し、そこに深紅の飛沫が跳ね上がる。右肩から左の脇腹までを一閃したそれは、レガートの上体に決して浅くはない傷を負わせたが、アーシェは繊細な美貌をしかめて低く舌打ちした。中途半端に張られた防壁にはばまれ、相手の動きを止めるだけの怪我を与えられなかったからだ。
「……その傷でよくやる!!」
 嘲るような叫びと共に、レガートの周囲に先ほどの比ではない風が巻き起こった。とっさに掲げた腕で目をかばい、アーシェは剣を振るった勢いのまま背後に飛びすさる。その腕に幾筋もの裂傷が走り、噴き上がった血が流れていく風にさらわれた。
 跳躍の勢いを殺しきれなかったのか、着地すると同時に片膝をつき、アーシェは眉を寄せて短く咳き込んだ。出血の量が少なくなったとはいえ、内臓にまで達する傷はまだ癒えきってはいない。口元に添えた手のひらが不吉な赤に染め上げられた。
 そこに白熱した炎の塊が飛来した。
 とっさの判断で横に転がり、炎の直撃を受けることだけは避けたが、代わりに戦場にあっては致命的なほど体勢を崩してしまった。跳ね起きたところに別の炎が迫り、逃げ遅れたアーシェの左腕を薙ぐようにかすめる。ジュッという不吉な音が空気を震わせ、戦装束の袖が一瞬の間に消し炭となった。
 左腕を犠牲にしながら体勢を立てなおしたアーシェに、傷口を押さえたレガートがすべるような足取りで肉迫した。細剣の切っ先が横薙ぎに振るわれるが、今度はひどくあっさりと防壁を展開させ、華奢な体をなぞるように上から手を振り下ろす。
 一際勢いのある炎が爆発し、アーシェの体を崩れかけた石壁まで吹き飛ばした。
「っつ、ぅ……っ!」
 ずるずると壁伝いに崩れ落ちながら、アーシェは血に汚れた面差しに苦痛の色をよぎらせた。袖が焼け落ちている左腕を持ち上げ、炎に撫でられた胸の部分をきつく押さえる。なめらかだった皮膚が無残に弾け、それ以外の箇所も火傷特有の症状に見舞われていたが、爆発のすさまじい規模から考えると意外なほどの軽傷だった。
 アーシェの細剣は特殊な材質で作られている。横薙ぎの一撃を弾かれた瞬間、ほとんど反射的な動きで細剣を引き寄せ、刀身を自身の体とレガートの手の間に割り込ませたのだ。材質に込められた加護の力が作用し、爆発の破壊力をほんの少しだけ弱めたからこそ、あれだけの攻撃を受けても致命傷を負わずにすんだのだろう。
 ぶすぶすとくすぶる左腕を石の壁につき、アーシェは重い体を意志の力で引き起こした。
 動けないほどの傷にはなっていないが、それでも広範囲にわたって皮膚がただれ、周囲に肉の焦げる嫌な匂いをまき散らしていた。ぜぇぜぇと喉を鳴らしつつ、アーシェは傷口を押さえた手のひらに力をこめる。
 アーシェの身体機能はどこまでも異常だった。普通なら治るまでにかなりの時間を要する怪我でも、アーシェ自身が癒そうという意識を失っていない限り、神属リシェランディアや高位の魔獣と比べても遜色のない速度で回復が進む。強引な治癒は激しい痛みをともなうが、ここが命のやりとりをする戦場であり、目の前に自分を殺そうとしている相手がいる以上、いつまでも壁にすがって立ち止まっているわけにはいかなかった。
 指を曲げて左腕の動きを確かめ、少しふらつきながらも背筋を伸ばして立ったアーシェに、レガートはひどく冷たい表情を閃かせた。
「……やはり、貴様は神属リシェランディアではないのか? ただの人間にこれほどの動きができるものか」
 レガートの体は常人と何ひとつ変わらない。アーシェにつけられた傷に手をやり、それを発動させた魔術によって癒しながら、レガートは抑えきれない苦痛に形のよい眉をゆがませた。
「そもそもなぜ魔術を使わない? その青の瞳は召喚系魔術師の証ではないのか?」
 魔術なしで勝てると思うな、という嘲りの含まれた口調に、アーシェはゆっくりした動作で唇の端を持ち上げた。
「……言っただろう」
 乱れる呼吸によってさまたげられてもなお、アーシェの言葉は戦場の喧騒を裂いて凛と響いた。
「おまえに、それを答える必要はないと」
「……ふん」
 傷口を押さえていた手を掲げ、レガートは緩慢にさえ見える仕草でそれを一振りした。大気の刃が宙をすべり、一瞬前までアーシェのいた位置をすっぱりと切り裂く。
「違うな。やはり、貴様は違う」
「……何?」
「違うのなら別にいい。どうせ殺すつもりだったのだからな」
 真横に飛んで大気の刃をかわし、次の攻撃にそなえて膝をたわめたアーシェが、真意の見えない呟きに対して訝しげな表情を作るのに、レガートはどこか苛立ちの滲んだ態度で鼻を鳴らした。ふいをつくように一陣の壁が吹き抜け、鉄が錆びたような血の匂いと、何かが焦げる不快極まりない匂いを運んでくる。
 侵入してきたランドーラの兵によって、張り出した足場はすでに白兵戦の舞台となっていたが、クレスに率いられたレファレンディア兵の抵抗にあい、今だ王城の内部に踏み込むことはできていなかった。白兵戦の技術ではレファレンディアの方が優れているのだろう、ちらりと足場に視線を走らせただけで、地面に倒れ伏しているランドーラ兵の甲冑が数多く見て取れる。
 武器と武器とがぶつかり合い、悲鳴と鮮血の二重奏を奏でる中で、アーシェとレガートの周囲だけが何かの隙間のように無人だった。兵士たちが恐れのあまり遠ざかったせいもあるし、アーシェが意図的にレガートを引き離そうとしたせいもある。アーシェの目論見どおり、彼との戦いに意識を奪われたレガートが、その魔術をもってレファレンディアの兵を攻撃することはなかった。
 胸中で安堵の息を吐き、アーシェは目の前にたたずむ金髪の魔術師を睨み据えた。
 レファレンディアの冬は日が短い。少し前まで中天にかかっていたはずの太陽は、やや駆け足ぎみに西の空へと歩を進め、戦い続ける兵士たちに夕暮れの気配を投げかけていた。レガートを見据えるアーシェの視界に、ランドーラ兵が灯したと思しき松明の明かりが映りこむ。
 アーシェはほんのわずかに瞳を見開いた。
「おまえは……」
 こぼされたアーシェの呟きをかき消すように、突如として硝子をこすり合わせるような叫びがほとばしった。
 己を鼓舞するように叫びを上げ、一度旋回してから急降下をかけてきたのは、アーシェがまだ仕留めていなかった最後の飛竜だった。魔力の奔流が収まるのを待っていたらしく、ここぞとばかりに鋭利な牙をむき出し、背を向けて立っているアーシェに攻撃を仕かけてくる。
 アーシェはそれを避けなかった。
 それどころか振り返ることも、レガートから視線を外すこともしなかった。ただ血に濡れた細剣を握りしめ、まっすぐに前だけを見つめたまま、ごく自然な態度で口に馴染んだ名前を呼ぶ。
「クレス、ファレオッ!!」
 ガキッという音を立てて飛竜の鱗が鳴り、一拍置いてその巨体が怒りと苦痛に打ち震えた。
 クレスの投げた長槍がその横面に、ファレオの射かけた弓がその瞼に激突し、攻撃に転じようとしていた飛竜の体勢を崩したのだ。アーシェ以外の人間など眼中になかったのか、飛竜が警戒の叫びを上げて舞い上がり、突然の妨害者たちに憎悪のこもった双眸を向けた。
「……ざけんじゃねえぞ、このトカゲが! 俺が相手をしてやる、せいぜい感謝しろよっ!!」
「アーシェ殿、ここは私たちが!!」
 クレスはどこか楽しそうな表情で、ファレオは強い決意を滲ませた表情で、レガートと対峙するアーシェに声を張り上げてみせた。それはクレスたちがそこにいるのを知っていたような、アーシェに名前を呼ばれるのがわかっていたような、何よりの信頼関係が垣間見える無駄のないやり取りだった。
「……レファレンディアの国王か」
 それを冷たい眼差しで一瞥し、レガートは赤く染まった右腕を一閃させた。非常識な身体能力を有するアーシェはともかく、その身に何の魔力も持たない脆弱な人間など、レガートにとってはうっとうしい夾雑物(きょうざつぶつ)以外の何物でもない。風の刃がすさまじい速度で宙を走り、その体を両断すべくクレスとファレオに襲いかかった。
 だが、その刃は振り上げられた銀の細剣にはばまれ、目的を達成できないまま解けて消えた。
 ほっそりした腕に裂傷が走ったが、瞬間的に足元の地面を蹴りつけ、刃の軌道上に体をすべり込ませたアーシェは、傷の痛みなど欠片も感じていないように小さく微笑した。眼差しは揺るぎなく前に据えたまま、背後の友に向かってあっさりと呟く。
「任せた」
「おう、任された!」
 飛竜と向かい合う二人を背にかばい、アーシェは刃こぼれひとつない細剣をレガートに向けた。
「おまえの相手は私だろう。他の人間に……クレスとファレオに、手を出さないでもらおうか」
 その口調と立ち姿には、相手が何者であっても目をそむけることを許さない、神の御姿を思わせる清冽な美しさがあった。
 わずかに気おされたような表情をよぎらせ、レガートはそんな自分に苛立ったように眉をひそめた。魔術師の証である色彩を身に帯びながら、どれだけ探っても魔術の片鱗さえ見いだすことのできない存在に、その静かな気迫だけで気おされたという事実が面白くなかったのだろう。かざした指先に白金色の炎を宿らせ、嗜虐的な微笑と共に満身創痍のアーシェを見やった。
「くだらんな。それほどの力を持ちながら、ただの人間のために死に急ぐか」
「私の勝手だ」
 さらりとした口調で言い切り、アーシェは隙のない動作で銀の細剣を構えなおした。
「私が誰のために戦うかは私が決める。それがくだらないか否かもな」
「……戯言を。いいだろう、ならばおまえから殺してやる」
「やってみろ」
 音もなく高まっていく殺意の中で、アーシェはふいに鮮やかな青の瞳を細めた。
 レガートはアーシェの行動をくだらないと言うが、彼にとってはこの思いだけが紛れもない真実だった。優しい半年間を与えてくれた彼らのために、どれだけ傷ついても最後まで戦い抜くという決意だけが、圧倒的に不利な状況でアーシェを突き動かしている原動力だった。
 たとえすべての人間にくだらないと言われても、決して覆すつもりはない純粋な意思だった。
(……そうだな。私はおまえたちなんか大好きだ)
 奇妙な言い回しで胸のうちに呟き、アーシェはよく見なければ気づけないほどかすかな笑みを作った。
(おまえなんか大好きだよ、クレス)
 この半年間をくれた者たちのためなら、何のためらいもなく二年間守ってきたものを捨て去れるほどに、アーシェは騒がしくて子どもっぽい黒髪の王と、彼の治める風変わりな王国が好きだった。
 他の感情など見つけられないほどに、ただその思いだけが鮮やかだった。






    


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