最後の約束 1





 ああ、という歓喜のこもった溜息を漏らし、レガートは光をまとう華奢な青年に向きなおった。
 圧倒的な力の差を見せつけられ、死と敗北という恐ろしい未来をつきつけられても、それに対する恐怖や屈辱感を覚えることはなかった。戦神シエルに遠く及ばないからといって、自分の技量に絶望する剣士がいないように、裁定者と人間を比べても無駄なのだと理解したからだ。
 背の半ばまである純金の髪をなびかせ、ひどく静かにレガートと向き合う美貌の青年は、それほどまでに常軌を逸した存在だった。
「お会いしたかった……支配者よ」
 ぽつりと漏らされたレガートの言葉に、アーシェの描いたように形のよい眉がひそめられた。くすくすと低い笑い声を立て、レガートは陶然とした表情のまま小刻みに震える拳を持ち上げる。
「われらが支配者よ。法王フォルセピアとはまた違う、人の身でありながら神に愛された無冠の王よ。……理の神アーカリアを信奉するものとして、魔術の系譜の一端に連なるものとして、なにゆえあなたの存在に焦がれずにいられようか」
 歌うような口調で言葉を続けつつ、固く握り締めていた拳をゆっくりと開き、レガートは喜悦しか滲んでいない表情で微笑してみせた。そこに無理やり引き寄せられた魔力が集まり、先ほどとは比べ物にならない大きさの光球を作っていく。
 同系統の魔術師同士が戦う場合、どれだけ早く周囲の魔力を収束させ、自分の意のままに操れるかが勝敗のわかれ目になる。光に誘い込まれる蛾のように、魔力はより強い力を持つ者のところに集まるものだが、その流れを多少強引に誘導してやるだけで、意思を持たない力の奔流はあっさりと行き先を変更してみせた。
 だが、それは純粋な魔力では敵わないからこその横取りであって、その分レガートの体にかかる負担は並大抵のものではなかった。掲げた腕がぎしぎしと軋み、負荷に耐え切れずいたるところから鮮血を噴き上げる。アーシェがほんのわずかに目をすがめ、クレスとファレオが驚いたように目を見張ったが、レガートは苦痛も焦りもふくまれていない表情で笑みを深くした。
 力のせめぎあいが大気をかき乱し、黄金と純金の長い髪を夕暮れの空に巻き上げていく。
「裁定者よ。あなたにお聞きしたかった」
「……何だ?」
「あなたはなぜ姿を消した?」
 それはぞっとするほど穏やかな問いかけだった。魔力の密度だけが高まっていく中、レガートが答えを促すように首を傾げ、沈黙したアーシェに向かって淡々と言葉を続ける。
「それほどの力を持ちながら……望めば世界すべてを手にできるほどの力を持ちながら、なぜあなたはデリスカリアの戦の後に姿を消した? 法王フォルセピアはその後もあなたの力を必要としただろうし、各国の王もそれぞれが言葉を尽くしてあなたを引きとめようとしただろう」
「……ああ」
「ならばどうしてその手を振り払い、たったひとりでデリスカリアを後にした? 人々の中から裁定者の記憶が薄れ、その実在を怪しむ人間が出始めるまで、なぜあなたは歴史の表舞台に出てこようとしなかった」
「……」
「神に選ばれた存在でありながら、なぜひっそりと世界から消えていこうとした」
 口調は一定の抑揚を保ったままだったが、その緑の瞳には紛れもない怒りの色がちらついていた。
 誰もが焦がれるだけのすさまじい力と、それを自由に扱えるだけの技量を持ちながら、その力を押さえつけて歴史の裏に埋没していくなど、レガートにとっては想像を絶する傲慢な所業だった。レガート自身もまた、普通の人間が束になっても敵わないだけの力を備え、それを振るうたびに恐怖の眼差しで見つめられる存在だったが、その彼であっても目の前にたたずむ青年には勝てないと断言できる。
 それなのにあなたは世界から消えていこうというのか、という詰問じみた問いかけに、アーシェは淡い痛みの垣間見える表情で口を開いた。
「……世界や国は、ひとりの人間だけを必要としているわけじゃない」
 不安定に揺れる空気を震わせたのは、かすかな悲しみと強固な決意の宿る静かな言葉だった。レガートがごくわずかに眉を持ち上げる。
「何?」
「たったひとりの力で無数の国は滅ぼせても、たったひとりの力でひとつの国を救うことはできない。……ひとりの力で簡単に滅んだり、簡単に救われたりする世界に、本当の意味で価値なんかない」
「……奇妙なことを言う。大国一つと小国四つをひとりで滅ぼし、デリスカリア建国に尽力したあなたが」
「だから言っただろう。私にできるのは戦の中で兵を殺し、魔術をふるって国を滅ぼすことだけだ。戦を終えた国に長くとどまる理由はない。……何より」
 一度ゆるやかに瞼を伏せたアーシェが、何かを決意するように瞳を開いたとたん、意思を持たないはずの魔力が紛れもない喜びにざわめいた。
「この力は私のものだ。誰のために使うかは私が決める。少なくとも、私の力をほしがった大国の支配者たちのもとで、彼らの望む英雄を演じ続けるつもりはない」
 それはどこまでも傲慢な言葉だったが、同時に人間として生きたいというアーシェ自身の願いでもあった。
 迷いなく言い切ったアーシェを見つめ、その言葉を吟味するように沈黙した後、レガートは再び何とも言いがたい表情で微笑した。ずたずたに裂けた腕を高く差し上げ、石作りの足場に赤い染みを作りながらそうか、と呟く。
「やはり、あなたは愚かだ」
「……」
「下らないほど愚かで傲慢で、焦がれずにはいられないほど眩い存在だ。裁定者よ」
 その台詞が合図だった。
 真っ白な炎が音もなく燃え上がり、辺りの魔力を強制的に引き寄せ、さらに巨大な塊を作りながらアーシェに襲いかかった。あまりにも温度が上がりすぎたためか、白い炎自体がバチバチと音を立てて放電し、周囲に振りまく熱気をこの上なく凶悪なものに変えている。目撃してしまった兵の間から堪えきれない悲鳴が上がった。
 直撃をくらえば骨も残らず蒸発しただろうが、アーシェは特に慌てることもなく片手を差し伸べ、その手のひらによって暴力的な炎の渦を受け止めてみせた。
 アーシェの持つ裁定者という異名は、彼の扱う神がかった魔術を目の当たりにし、それを天の裁きに違いないと信じた者たちが、いつしか敬虔な畏れを込めて呼び始めた二つ名だった。人間の力では太刀打ちできないからこそ、神にのみ許された『裁く者』の名を与えられ、空白の二年間をはさんだ今でも魔術師の王として語り継がれているのだろう。最初から人間ごときが刃を向けていい存在ではなかったのだ。
 アーシェの手に受け止められた炎は、まるでその身を傷つけるのを拒むように揺らぎ、魔力の根本からふわりと解けてかき消えた。
「……ああ」
 レガートが再び溜息を吐いた。アーシェの手のひらに集められ、そこから天に向かってほとばしる魔力の光は、レガートが見たこともないほど圧倒的で、どうしようもないほど美しかった。
 レガートが自ら裁定者を名乗り、デリスカリアの法に逆らってランドーラについたのは、裁定者エリュシオンの実在を疑う思いと、もし実在するのなら戦ってみたいという願いのためだった。眩い光を思わせるという金の髪以外、その外見的な特徴を伝える情報は何ひとつ広まっていないが、おかげで裁定者になりすますのは拍子抜けするほど容易かった。
 身を寄せる対象としてランドーラを選んだのも、レファレンディアに転がり込んだという『戦神シエルの御子』が、まるで金の光を紡いだような髪を持つ美貌の主だと聞いたからだ。確かめてみたくなったのは当然のことだろう。
 その行動の結果がこれだった。
「……後悔はない」
 レガートはうっとりと微笑んだ。
 かなりの力を持つ使役系魔術師として、理の神アーカリアの系譜に連なる者として、裁定者エリュシオンの実存を疑う気持ちは誰よりも強かった。神がたったひとりの人間に愛をそそぎ、異常としかいいようのない力を授けたというなら、こうまで一途にアーカリアを信奉し、死の瞬間まで祈り続けている魔術師たちの立つ瀬がないと思ったからだ。伝説や英雄譚の常として、伝わっていく間に仰々しく尾ひれがつき、現在語られている裁定者の話ができあがったのだろうと、レガートは民衆の愚かさを嘲笑いながら当たり前のように信じていた。
 だが同時に、その実存を信じる渇望にも似た思いがあった。
「われらが王よ……魔術師たちの支配者よ。あなたが本当に実在しているというなら、たった一度でいい、こうしてあなたにまみえてみたかった」
 裁定者が本当に存在するのなら、神の子とすら言われるその力を見てみたかった。
「お会いできてよかった……身に余る光栄だ」
 アーシェはほんのわずかに眉を寄せただけで、レガートの言葉に対しては何も答えなかった。その言葉は信仰に似ている。自分自身の思考を放棄し、ただ神の威光と意思にのみすがる狂信者に。アーシェを神の子として崇め、祀り上げようとしたデリスカリアの人間たちに。
「裁定者エリュシオンよ」
 それは痛みしか感じることのできない、あまりにも真摯にすぎる思いの形だった。
 痛みを堪える表情のまま、アーシェは何かを振り切るように首を振り、差し伸べていた手のひらを握って拳を作った。魔力の密度がぐんと高まり、それにともなって周囲に満ちる無色の光が透明度を増していく。
 レガートは柔らかく瞳を細めた。あふれたのは破壊のための力だったが、その激しい流れを一身に受けてもなお、恐怖や絶望が胸のうちに湧き上がってくることはない。一片の疑問を差し挟む余地もないほどに、王者の力によって滅ぶことのできる自分を幸福だと思った。
 すべてを甘受するように目を閉ざし、レガートはゆったりした動作で血まみれの両腕を差し上げた。その口元を陶然とした微笑がかすめ、冷たい面差しに一瞬だけ子どものような表情をよぎらせる。
 その微笑が最後だった。
 天から投げ下ろされた透きとおる雷が、響いたはずの轟音さえもすべて飲み込み、赤い夕日に支配された世界を白く染め変えた。
 それはもはや美しいと表現する気にもならない、純粋な破壊のためだけに降りそそぐ神代の力だった。レガートの笑みが白い光にかき消され、何の痕跡も残さず霧散していくのを見つめながら、アーシェはふいに祈るような動作で右の手を胸元に置く。青と緑という稀有な色違いの瞳を伏せ、光に溶けてしまうほどの声量で何事かを呟き。
 そのまま足元の地面へと華奢な体を倒れこませた。






    


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