最後の約束 2





 冷たい何かが頬をぬぐう感触に、アーシェはひどく緩慢な仕草で閉じていた瞼を持ち上げた。
 まっさきに視界に飛び込んできたのは、こちらを覗き込んでいる紅の瞳と、深い皺に半ば以上隠された緑の瞳だった。その向こう側で明かりが揺らめき、周囲を柔らかい暖色の光で照らし出している。
「大丈夫か、アーシェ?」
「……クレス?」
 無様なまでにかすれてしまっていたが、それでも何とか声をしぼり出すことに成功し、アーシェは横たわっていた床から重い体を引きはがした。そんなささいな動作すら億劫そうに感じられ、クレスは心配そうにアーシェの色違いの瞳を覗き込む。
「おい、無理すんなよ?」
「大丈夫だ、傷はもうほとんどふさがってる。……ここは、広間か?」
「ああ、負傷した兵の手当てに使ってる大広間だ。医療兵と、城に残ってた侍従たちに怪我人をみてもらってる。――それよりアーシェ、本当に大丈夫か? いきなりぶっ倒れるからかなり心配したんだぜ?」
 じっと見つめてくるクレスに苦笑しつつ、アーシェは答えの代わりにはっきりした動作で頷きを返した。そのままぐるりと視線をめぐらせ、自分の寝かされていた大広間の状況を確認する。
 かなりの面積を誇る大広間に、さまざまな種類の布がびっしりと敷きつめられ、運び込まれてくる負傷兵たちの寝台となっていた。その合間を医療兵が行ったり来たりし、真剣な表情で苦痛にうめく仲間の治療にあたっている。血と汗の匂いが充満し、息をするのもつらい状況になっているはずだが、すでに嗅覚が麻痺してしまっているらしく、呼吸をするのに不都合を感じることはなかった。
 大広間の明るさは燭台の炎によるもので、採光窓から差し込む光はひどく弱々しいものに変化しつつある。アーシェが最後に視線をやった時、空が燃えるような赤に染まっていたことを考えると、少なくとも五分から十分程度は意識を失っていたらしい。それくらいなら許容範囲だな、と胸中に呟き、アーシェは体に障らないよう務めて細く息を吐き出した。
「……悪かったな、クレス。シゼルも」
 吐息と共にこぼされたアーシェの言葉に、クレスの横にひかえていたビルグウェイ・シゼルがくしゃりと破顔した。魔術師として負傷兵を治療していたのだろう、引きずるほど長い袖を紐でくくり、皺の刻まれた額にうっすらと汗をかいている。
「なに、婆(ばば)は何もしとらんよ。癒しの術も使えんことはないが、この老いぼれ程度の力ではひかり殿を癒すことはできんでの」
 眩しい何かを見上げるように目を細め、シゼルは手にしていた布を冷水の揺れる桶の中に戻した。その水が赤黒く染まるのに気づき、アーシェはまだ重いままの腕や肩に視線を落とす。先ほどの冷たい感触の正体はこの布だったのか、乾いてこびりついていたはずの血が綺麗にぬぐわれ、ふさがりつつある傷口をよどんだ空気にさらしていた。
 清められた腕をもう一方の手でなぞり、アーシェは淡い微苦笑の混じる表情で頭(かぶり)を振った。
「それはあなたのせいじゃない。私のこれは怪我とは違うんだ、魔術で癒せないのは当たり前だろう」
「怪我とは違う?」
 不思議そうに問い返したのはクレスだった。シゼルからクレスに視線を移し、アーシェは表情を変えないまま小さく頷く。
「副作用のようなもの……と言えばわかるか?」
「あ?」
「私の力を抑えていた楔を壊して、かなり規模の大きな魔術をひとつ使ったからな。倒れたのはたぶんそれの反動だ。……心配しなくても、少し休めば動けるようになる」
 クレスは心底疑わしげな表情を作ったが、それについては何も言わず、子どものような仕草で首を傾げてみせた。これ以上アーシェを問いつめても、大丈夫だという答え以外が得られないと悟ったのかもしれない。
「楔? ……それが力を抑えてたから、おまえは今まで魔術を使えなかったのか? 何でだ?」
「デリスカリアを離れる条件だったんだ。裁定者としての、世界に混乱を招きかねない力を封じることが。いつも使ってた細剣があっただろう? あれが私の力を抑える楔だったんだよ」
 クレスはわかったような、わかっていないような表情を浮かべてへえ、と呟いた。剣帯に下げられた空の鞘に視線をやり、今気づいたと言わんばかりに紅の瞳を丸くする。それは普段と何ひとつ変わらない、アーシェを友達と呼んだクレスそのままの態度だった。
 アーシェはそれが嬉しかった。
 相手が伝説に謳われる裁定者だと知っても、ひとりで無数の国を滅ぼした恐るべき存在だと知っても、以前とまったく態度を変えない人間がいる、それだけの事実に泣きたくなるほどの喜びを感じた。
 そんなことを思っていたせいか、シゼルがゆったりした動作で右手を伸ばし、かさついた指先でアーシェの頬に触れた瞬間、何かを考えるより先にその感触から体を引いてしまった。色違いの瞳を大きく見開き、手を伸ばしたまま微笑しているシゼルに向きなおる。
「シゼ……」
「すまんの、ひかり殿」
 シゼルの微笑がかすかにゆがんだ。緑の瞳をやんわりと細め、今度はアーシェが驚かないよう、正面から優しい仕草で頬に触れる。そのまま撫でるようにすべっていく指先に、アーシェは何とも言えない居心地の悪さを感じて瞳を瞬かせた。
 その様子を慈しみに満ちた表情で見つめ、シゼルはもう一度すまんのぅ、と申し訳なさそうな呟きを漏らした。
「この婆は単なる老いぼれにすぎんが、それでもひかり殿の持つ力のすさまじさはわかる。それを解き放つのは……ひかり殿の言う楔とやらを壊すのは、婆などには想像でもできないほどつらかったじゃろうに」
「……」
「婆たちは守ってもらうばかりで、そんなひかり殿に何もしてやれんでなぁ。……本当にすまんの、許しておくれ」
「……シゼル」
 シゼルの表情があまりにも真剣だったからか、その言葉の内容が思ってもみないものだったからか、アーシェはとっさに言葉を返すことができなかった。
 レガートの言うとおり、二年前に終結した『デリスカリア建国の戦』の後、アーシェを己の国に引き入れようとする王なら数え切れないほど存在した。それをわずらわしく感じたことはあっても、王たちの行動を間違っていると思ったことはない。裁定者を味方につけることができれば、領土拡張を目論む近隣諸国へのこの上ない牽制となり、多くの国が乱立するレーヴァテイン大陸にあって他国より優位に立つことができるからだ。
 それを誰よりも理解しているアーシェにとって、シゼルの謝罪はとまどいを感じさせるもの以外の何物でもなかった。
 困惑気味に青と緑の瞳をさまよわせ、助けを求めるように見上げてくるアーシェに、クレスはどこか楽しげな表情で微笑を閃かせた。そのままひょいと体をかがめ、やや低い位置にあるアーシと視線を合わせる。
「なあ、アーシェ。おまえさ、あの敵の魔術師と戦ってる時、自分ができるのは兵を殺して国を滅ぼすことだけだ、って言ってたよな?」
「……ああ」
「二年前の戦いじゃそうだったのかもしれねえし、おまえがレファレンディアに来るまで何をしてたのかは知らねえけどよ。少なくともこのレファレンディアに限って言えば、おまえは俺たちのことを何度も救ってくれたぜ? ――なぁ?」
 最後につけ足された呼びかけは、いつの間にか布の上に上体を起こし、あるいは肘を使って頭を浮かせ、こちらに注目していた兵士たちに向けられたものだった。
「アーシェ殿」
 医療兵の手を借りてあぐらをかき、体ごとアーシェに向きなおった壮年の兵士が、血と埃にまみれた顔で穏やかに微笑んだ。アーシェを戦神シエルの御子と信じ、常にくもりのない畏怖と憧憬をもって接していた古参の兵だった。
「最初にあの敵の魔術師が現れた時、私は国王陛下のお傍で戦っておりましたが、アーシェ殿にかばっていただかなければ敵の魔術で命を落としていました」
「……」
「陛下と私どもを救って下さったこと、言葉では言い表せないほどに感謝しております」
 ありがとうございました、という兵士の言葉をきっかけに、傷だらけの体を起こした負傷兵たちと、その手当てにあたっていた医療兵たちが、まるで示し合わせたように乱れのない動きで床の上に跪いた。起き上がれない者も顔を動かし、アーシェに向かって深く頭を下げてみせる。
 そのままの体勢で告げられた言葉は、常になく真摯な響きをもって大広間の空気を揺らしていった。
「……感謝いたします、アーシェ殿」
「われらが王、クレスレイドさまの守り神よ」
「あなたと共に戦えたことを、われら一同、心から誇らしく思います」
「ありがとうございました」
 兵士たちの口調に嘘はなかった。言葉どおりの感謝と敬意だけが感じられる、一片の偽りもふくまない純粋な言葉だった。
 壮年の兵士に視線を据え、動くことを忘れたように座り込んだまま、アーシェは一瞬だけ泣き笑いに近い表情を滲ませた。唇の動きだけで馬鹿だな、と呟き、こみ上げてきた何かを押し込めるように瞳を閉ざす。
(……馬鹿ばっかりだ。この国の人間は、本当に)
 アーシェが彼らを救ったのではなく、彼らがアーシェを救ったのだという事実に、なぜこの国の人間は誰ひとりとして気づこうとしないのだろう。クレスが裁定者を兵器と見なし、その並外れた力だけを欲するような王なら、アーシェはレファレンディアのために剣を取ったりはしなかった。兵士たちが裁定者の力を恐れ、目の前にいるアーシェを化け物と呼ぶような人間なら、こうして泣きたくなるほどの胸の痛みを覚えたりはしなかった。
 アーシェをこの国につなぎとめていたのは、他でもない彼ら自身の価値ある魂だった。
(だから私は、こうやって戦うしかなかったんじゃないか)
 なじるような口調で胸のうちに呟き、アーシェは慎重な動作で布の上に立ち上がった。まだ多少のだるさは残っているが、すでに動くだけなら不自由を感じない程度に回復し、全身をさいなんでいた鈍い痛みも治まりつつある。ゆったりした足取りで歩を進め、跪いている兵士に向かって手を差し伸べると、アーシェは血なまぐさい戦場には似つかわしくないほど綺麗な笑みを作った。
 かざした指先に魔力を集め、祈りにも似た気持ちで静かに思う。
 こんなことしかできない自分を許してほしい、と。
「……勇敢にして誇り高き戦士たちに、レーヴァテインを守護する十二の神と、世界を支える礎の剣の祝福を」
 その言葉がこぼれ落ちた瞬間、アーシェの手から砂金を思わせる輝きが舞い上がり、大広間に膝をつくすべての兵士の頭上たちに降りそそいだ。
「え? あ……」
 ぎょっとしたように目を見張り、壮年の兵士が包帯の巻かれた自分の体に手をやった。完全にふさがったとは言いがたいが、じくじくと滲んでいた血が目に見えて少なくなり、その上に盛り上がった皮膚がかさぶたを作り始めている。それは他の兵士たちも同様で、確かめるように腕を回している者もいれば、ほとんど崇拝に近い眼差しでアーシェを見つめている者もいた。
「……おい、平気か?」
 アーシェの表情に苦痛の色がよぎったのに気づき、クレスはその背に歩み寄りながら肩に手を置いた。わずかに乱れた息を強引に鎮め、アーシェはクレスに強がりではない柔らかな笑みを向ける。
「大丈夫だ。使ったのは小さな術だからな、体にかかる負担はそれほどでもない」
「負担って……その、楔だったか? それを強引に壊したから、魔術を使うたびに負担がかかっちまうのか?」
「ああ、大きな術になればなるほどな。……高位の術が使えるのは、たぶんどれだけ無理をしてもあと一度が限界だ」
 クレスに隠し事をするつもりはなかった。楔を壊したのはアーシェ自身の意思であって、クレスやレファレンディアの兵たちが責任を感じる必要などないからだ。
 そんなアーシェの態度に何を見たのか、クレスは唇の端で小さな笑みを作り、つかんでいた華奢な肩から手を離した。何かを決意するようにそうか、と呟き、開け放された扉を右手の親指で指し示す。
 紅の瞳がほんのわずかに細められた。
「なあ、アーシェ」
「何だ?」
「改めて……つーのも変だけどな。頼み事があるんだ。いいか?」
「ああ、別に構わない」
「じゃあ場所を変えようぜ」
 悪童めいた表情でにかっと笑い、クレスは大広間の出入り口に向けて足を踏み出した。それと共に身を翻しかけてから、ふいに稀有な色合いの瞳を瞬かせ、アーシェはこちらを注視している兵士たちに視線を戻す。
 言葉はなかった。
 ただ何も言わずに表情を引き締め、アーシェは一度だけ深く頭を下げた。
 守ってやるという言葉が嘘になっても、最後までつきあうという約束が果たせなくなっても、この国が心の底から好きだったという、アーシェの気持ちだけは伝わればいい。大広間を支配するざわめきを聞きながら、押し込めた感情の代わりにそれだけを思った。
 その願いと行動だけが、アーシェの示すことができる純粋な謝意だった。






    


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