最後の約束 3





 クレスがアーシェと共に向かったのは、北棟の一角に存在する奥まった一室だった。
 広さのわりに飾り気のとぼしい部屋で、燭台どころか緊急用の蝋燭さえ置かれていない。西向きに作られた窓から夕日が差し込み、むき出しの石壁を赤く染め上げているが、それもあと少しで圧しかかってくる夜の闇に塗りかえられてしまうだろう。遠くの喧騒が静かなはずの大気を震わせ、がらんとした室内に何とも言いがたい緊張感を生み出していた。
 扉の正面に作られた壁の前に立ち、アーシェは首の動きだけで背後のクレスを見返った。
「……隠し扉か」
「ああ、ここを通ればすぐに裏の森に出られる。城を迂回して森に行くには崖を越えなきゃならねえし、ランドーラに今から別の部隊を出すだけの余裕はねえはずだ。途中で待ち伏せさえされてなければ、森の中を通ってレフュロスの国境まで行ける」
「レフュロスの?」
 アーシェは小さく目を見張ったが、すぐに酒場で行われた非公式の会談を思い出し、納得の表情を浮かべて形のよい顎を引いた。色違いの瞳が懐かしそうに細められる。
「……あれか。おまえが人に護衛を押しつけて脱走した時の」
「おう。戦いの最中に援軍を出すのは無理でも、国境まで避難してきた民の保護なら引き受けてくれるそうだ。レフュロスの王は俺の姉の旦那だからな、一応そのひととなりは信用してる」
 緊張感のない口調でさらりと言い切り、クレスは閉ざされたままの隠し扉に視線を投げた。
 レフュロスの国王であるウォルフレードは、数年前にクレスの姉であるエリスティアを娶り、彼女との間にもうけた男児を王太子として冊立していた。エリスティアとの仲が良好で、後を継ぐべき王子にも問題がない以上、正妃の母国にせまった危機に対して無関心ではいられないのだろう。避難民たちが国境までたどり着き、レフュロスの国土内に逃げ込むことさえできれば、後のことは彼がしっかりと取り計らってくれるはずだった。
 だから、と世間話をするような口調で呟き、クレスはほんのわずかに唇の端を持ち上げてみせた。
「レフュロスの国境まででいい。城内に収容された避難民たちと、生きることを望んだ兵士たちを逃がしてやってくれ。頼めるか?」
 ぽんと放り投げられたクレスの言葉は、まるで軽い用事を頼むように室内の空気を揺らしていった。
 だか、その中に込められたクレスの真情を、残酷なまでにはっきりした意図を、アーシェはどうしようもないほど正確に理解していた。理解していたからこそ、かすかに笑って頷いてみせることしかできなかった。
 本当は子どものように首を振りたかったのだけれど。
「おまえがそれを望むなら」
 青と緑の瞳を柔らかく細め、アーシェは細い体ごとクレスに向きなおった。
「友よ。おまえがそれを望むなら、私は持てる力のすべてをもってそれを叶える。戦えというなら死ぬまで戦うし、民を逃がせというならレフュロスの国境まで必ず逃がす。……たとえそれがどんなにずるい、おまえのことを殴ってやりたくなるような願いでも」
 どこまでも静かに紡がれた言葉は、クレスの頼み事に対する非難というより、すべてを受け入れた上での意趣返しに近かった。申し訳なさそうな仕草で頭をかき、クレスは精悍な面差しにほのかな微苦笑をよぎらせる。
「悪い」
「悪い、じゃないだろう、そこで謝るな。おまえがそういうやつだってことくらい……ここまで私を関わらせておきながら、結局はレファレンディアから追い出そうとするほどひどいやつだってことくらい、初めて会った時からちゃんと知ってた」
「や、返す言葉もねえけどよ」
「それでもおまえたちが好きだから、ここまでつきあったんだ」
 あっさりと響いたアーシェの言葉に、クレスは虚をつかれた風情で紅の瞳を丸くした。それを見やってアーシェは笑う。
 こんな当たり前の言葉に驚く青年王と、それに振り回されている苦労性の護衛官と、彼らによって治められている風変わりな王国が、すべてを投げうってもいいと思えるほどに好きだった。その思いに嘘はなかったから、他の誰でもないクレスの望みを叶えてやりたかったのだ。
「大好きだから、戦ったんだ。自分の意思で、ここまで」
 それは一片の偽りもごまかしもふくまない、真実の思いだけで作られた優しい言葉だった。
 クレスはほんの一瞬だけ息を呑んだが、すぐに泣き笑いにも似た表情を閃かせ、隙をつくようにしてアーシェの頭を抱え込んだ。ぎょっとしたように暴れるアーシェを無視し、乱暴な仕草で絹糸のような純金の髪をぐしゃぐしゃに乱す。
「今のはきいたぞ、この野郎! 胸にきたじゃねえか、大の男を泣かすつもりかおまえはっ!!」
「……って、痛いだろうがこの馬鹿! 離せ!!」
「うるせえ! おまえはいっつも人のことを馬鹿だ馬鹿だって言うけどな、おまえの方がぜってー馬鹿だ! 大馬鹿だ!!」
「ば……っ」
 きっぱりと断言してくるクレスに目を見張り、どう考えてもおまえの方が馬鹿だろうがっ、と言い返しかけたところで、アーシェは紅の瞳に浮かぶ嬉しそうな笑みに気づいてしまった。そのまま毒気を抜かれた様子で肩を落とし、呆れの色濃く滲んだ表情で溜息を吐く。
 純金色の髪がさらさらと揺れ、うつむいたままのアーシェの顔に影を作った。
「……本当に緊張感のないやつだな、おまえは」
「いいじゃねえか、そこが俺の魅力だろ」
「何が魅力だ。いつもおまえに振り回されてるファレオたちに泣いて詫びろ」
「あいつらはいいんだよ、ああやって心配したり怒鳴ったりするのが仕事みてえなもんだからな」
 変わらない笑顔であっさりと言い切り、クレスはアーシェを引き寄せた腕に力を込めた。ふっと見張られた色違いの双眸に笑いかけ、なあアーシェ、と朗らかな口調のまま言葉を続ける。
 紅の瞳が優しい笑みを形作った。
「おまえさ、こういうのも忘れるなよ?」
「は?」
「だから、こうやってじゃれあったり、下らねえことで盛り上がったり、馬鹿みたいな話題で会話したりしたことだよ。これから先に何があっても絶対、ずっと忘れんじゃねえぞ?」
「……」
「俺みたいにおまえのいいところに気づいて、うおやべえ友達になりてえっ! って思うやつが絶対にいるからな。そういう奴とふざけあったり、盛り上がったり、喧嘩したりして、それこそ馬鹿みたいに笑いながら楽しく過ごせよ」
 ここで俺としてたみたいにな、と影のない語調でつけ足し、クレスはアーシェの頭を解放しながら明るく笑った。
 レファレンディアから離れても、ここで過ごした日々が過去になっても、人間の世界で孤独を感じたりはしないでほしいという、真摯な願いのこもったクレスの言葉に、アーシェは一瞬反応を返すことができなかった。どうしておまえはそうなんだ、という八つ当たりじみた叫びを上げそうになったからだ。
 自分は滅びに瀕した国で最後まで戦おうとしているくせに、当たり前のような笑顔で友の幸せを願ってみせる人のよさが、思わず殴り飛ばしてやりたくなるほどクレスらしかったからだ。
 そんなアーシェの沈黙をどう取ったのか、クレスはあっもちろん、とにぎやかな声を張り上げ、青と緑の瞳に向かってびしりと指を突きつけてみせた。
「おまえの一番の親友は俺だからな。おまえがこれからすげえいいやつと会って、そいつと友達になったとしても、おまえの一番の親友の座だけは譲らねえぞ」
「……」
「そこで黙るな、返事! ちなみに了解の返事以外は断じて受けつけねえからな、その辺はちゃんと考えてから答えろよ!」
 季節が春から冬へと移ろっていく間、クレスの傍に腰を落ち着けていたアーシェにとって、それは彼らしいとしか言いようのない馴染みのある態度だった。痛みを堪えるように薄く微笑し、アーシェはさも呆れたように両腕を組み合わせる。
「……忘れてた。おまえは緊張感がないだけじゃなくて、そういうわがままなやつだったな」
「今さら何言ってんだよ、そんなこと最初っから知ってんだろ? つーか話をそらすな、断るとか言ったら普通に泣くぞ」
「偉そうに胸を張るな、二十五にもなって泣くとか言うな。……そんなこと、いちいち確認するまでもない当たり前のことだろうが」
「あ? …………おお」
 クレスはきょとんと目を見張ったが、すぐにアーシェの言わんとしていることに気づき、そういやそうだな、と大袈裟な仕草で両手を打ち合わせた。心から嬉しそうに両目を細め、幼い少年を思わせる表情でにかっと笑う。
「前にちゃんとアーシェから言質も取ったし、俺たちはあの日から完全無欠の大親友だったよな。今さら言葉にして確認するまでもねえか」
「言質って何だ、言質って。ついでに『大』親友は言いすぎだ」
「照れんなよ。俺はおまえの言うとおりわがままなやつだからな、俺が大親友っつったらその時点で大親友なんだぜ?」
 ぐっと胸を張ったまま宣言してみせ、クレスはもう一度目の前のアーシェに笑いかけた。窓から差し込む光が力を失い、室内に満ちる闇を深いものに変えつつあったが、その微笑が暗がりの中にかすんでしまうことはない。
 輝くような笑顔をさらに深め、ひょいとばかりに腰をかがめると、クレスは内緒話をするようにアーシェの顔を覗き込んだ。
「つーことで、アーシェ。わがままついでにもうひとつ頼む」
「何だ?」
「ランドーラのフォルストラ王の首をとるの、おまえに任せちまってもいいか?」
 馬鹿馬鹿しいほど軽やかに響いていく言葉だった。何を言い出すのかと思えば、とでも言いたげな表情を作り、アーシェは平然と笑っているクレスを軽く睨む。
「……おまえは。いつもそうやって私に無理難題を押しつけるんだな? 簡単に言ってくれる」
「でもおまえならできるだろ? 俺はおまえなら神サマにだって勝てると思ってんだぜ」
 浮かべた微笑を微塵も変えず、クレスは当たり前のことを告げるように言葉を重ねてみせた。
「アーシェは誰よりも強いからな、俺は竜にだって神サマにだって勝てるって信じてる」
「……」
「だから負けんなよ、アーシェ? これから先に何があっても、どんだけつらい目にあっても、絶対に負けんな」
 たとえば別れの悲哀にも、喪失の痛みにも。
 どうしようもない孤独にも。
「約束だぜ?」
 それはアーシェに生きることを強要し、自分は滅びゆく国で戦い続けることを選んだクレスの、罪滅ぼしにも似た言葉だった。
 笑みに細められた紅の瞳と、わずかにも揺るがない強靭な笑みを見返し、青と緑の色彩が泣き出しそうにゆがんだ。この馬鹿、という呟きを口の中に押し込め、せり上がってくる熱い何かを懸命になって押し殺す。
 別れを前提に紡がれる言葉が、アーシェの未来を信じてみせるクレスの思いが、声を上げて泣きたくなるほど胸に痛かった。それでも泣くわけにはいかなかったから、アーシェはクレスを見上げて何より綺麗な微笑を滲ませる。ほっそりした肩から純金の髪がこぼれ落ち、暗がりの中に眩しすぎるほど眩しい光を散らした。
「当然だ。私を誰だと思ってるんだ?」
「そうだよな、何たって伝説の裁定者さまだもんな。……っと」
 アーシェの言葉に調子を合わせた後、クレスは何かに気づいたように紅の瞳をしばたたかせた。
「そういやアーシェ。おまえの名前……つーか本名って、エリュスじゃなくてエリュシオンっていうのか? ちゃんと聞こえてたわけじゃねえけど、あの敵の魔術師がそう呼んでただろ?」
 深い意味を持つ問いかけではなかった。疑問に思った点を何気なく尋ねただけなのだろう、何のふくみもない表情で首をひねるクレスに、アーシェは誇らしさすら感じられる仕草で頷きを返す。すうっと小さく息を吸い込み、暗さを増していく室内に綺麗な音を響かせた。
「……アーシェリティア・エリュシオンだ」
「あ?」
「アーシェリティア・エリュシオン。それが私の、生まれた時に授かった本当の名前だ。――――ずっと名乗れなくて、悪かったな」
 彼らに名乗っていたアーシェ・エリュスという名は、本名であるアーシェリティア・エリュシオンをそのまま縮めた愛称だった。裁定者としての力を封じた時、過去と共に捨て去ってしまおうと思った名前だったが、なぜか今までクレスに名乗れなかったことを申し訳なく思った。クレスに対してだけは嘘をつきたくないという、気づかないうちに培われてしまった意識がそう思わせたのかもしれない。
 だが、アーシェの謝罪に対するクレスの反応は、あらゆる意味で彼の予想を裏切るものだった。
「……アーシェリティア。汝に幸あれ、か。すげえおまえに似合った、いい名前じゃねえか」
 そう言って穏やかに笑ったのである。
「……驚いたな。おまえは古き貴き言葉を知ってるのか」
「知ってるってほどでもねえけど、礼拝の時に何度か聞いたことがあるからな。確か、ステリア・ル・アーシェリティア、レジスタ・ル・セティアライト。汝に幸あれ、世界に光あれ、だったよな? ……誰がつけたのかは知らねえけど、これ以上おまえに合ってる名前はそうないと思うぜ」
 もちろんアーシェって響きもすげえ好きだけどな、と聞かれもしないのに主張し、クレスは目の前の親友に光が差し込むような笑みを向けた。眩しすぎるほど眩しい笑顔を受け止め、アーシェは稀有な色合いの瞳をかすかに細める。馬鹿だな、という万感の思いを込めたささやきは、ひんやりした空気の中に吸い込まれて消えた。
 外の喧騒に耳をすませば、武器同士のぶつかる剣戟の音と、兵士たちの上げる怒号とが入り混じり、レファレンディアの置かれた状況を嫌でも再確認させてくれた。残された時間はあと数分もないだろう。
 それがわかったからこそ、決意のこもった態度で顔を上げ、アーシェは何かの祝福のように優しく微笑んだ。
「……なら、この名前はおまえはやる」
「は?」
 言われた内容が理解できなかったのか、驚いたように目を見張るクレスの前で、アーシェは思ってもみない行動に出た。地上のどんな権力にも屈することのない、法王すら足元に跪かせる魔術師の王が、たったひとりの人間に向かって膝を折ってみせたのだ。
 最初で最後の、言葉にしきれなかった思いの代わりに。
「この先どんなにすばらしい人間と会っても、誰かを心から愛することがあっても、おまえ以外を一番の親友と呼び、おまえ以外に名を捧げ、おまえ以外に膝を屈したりはしないと誓う。……その約束の証として、アーシェリティア・エリュシオンの名前はおまえのもとに置いていく」
 そこで一度言葉を切り、祈りの名を持つ青年はそっと顔を上げた。
 その場に立ち上がりながら視線を合わせ、心から愛しそうにぽつりと呟く。
「約束だ、わが友。わが王」
 今にも泣き出しそうな表情で小さく笑い、アーシェは眼前に立つクレスに細い腕を伸ばした。そのまま高い位置にある頭を引き寄せ、先ほどのお返しだというように強く抱きしめる。
 その存在すべてを、誰より傍にあった温もりを、記憶の中に刻みつけようとするように。
「私はおまえを忘れない。おまえと会った日のことも、馬鹿みたいにふざけあったことも、友達だと言ってくれたことも。……いつかこの命が尽きるまで、ひとつもこぼさずに覚えてる」
 華奢な両腕に力がこもり、神がかってすらいる美貌が子どものように揺らいだ。胸をかきむしる痛いほどの悲哀を感じながら、アーシェは声にならない声でそれでも、とささやく。
 それでも、この誇り高い王と出会えてよかった。共に過ごせて幸せだった。何よりも大切な日々だった。
「……おまえに会えてよかった。本当に、幸せだった」
 だからアーシェは忘れないだろう。レファレンディア・ウェル・クレスレイドという名の王を、いつもまっすぐに笑っていた親友を、呆れるしかないほど優しかった言葉たちを。
 持てる力のすべてをもって、この命が尽きる瞬間まで覚えているだろう。
「ありがとう」
 聞き取れないほどかすかな声で呟き、アーシェは言葉もなく立ち尽くしているクレスから体を離した。その瞬間、沈みかけていた太陽が輝きを増し、藍色の空を真っ赤に染め上げ、飾り気のとぼしい室内を優しい色彩で包み込む。石作りの部屋を照らし出したのは、神の加護を受ける美貌の青年と、彼の愛した人間の王に贈る、世界からの優しい餞(はなむけ)の光だった。
 礼を言うように淡く微笑し、アーシェは隠し扉になっている石の壁に向きなおった。ごつごつした表面に白い指先で触れ、声を出さないまま胸のうちに簡潔な言葉を作る。それだけで石作りの扉が横向きに動き、裏の森へと続く短い通路をあらわにした。
 とたんにすさまじい勢いで風が流れ込み、停滞していた室内の空気をかき回していった。純金色の髪が音もなく流れる中、風に乗って白く小さなものが舞い遊び、闇に慣れていた視界を花吹雪のように染め上げる。
 それは今年に入って初めての、レファレンディアでは滅多に降らないとされている粉雪だった。
 その冷たさによって硬直が解けたのか、クレスは自分でも無意識のうちに剣帯へと手を伸ばし、そこに下がっていた長剣を鞘ごと取り外した。それをわずかなためらいもなく振りかぶり、歩き始めていたアーシェに向かって放り投げる。
「……アーシェッ!!」
 通路に足を踏み入れていたアーシェは、弾かれたように背後のクレスを振り返り、掲げた右手で投げ渡された長剣を受け止めた。手にかかる重みに瞳を瞬かせ、離れた位置にたたずむクレスへ問いかけの眼差しを送る。
 クレスはそれに答えなかった。
 ただ痛みを堪えるように目をすがめ、一瞬だけ足元に視線を落とした後、顔を上げながらどこまでも晴れやかに微笑してみせた。いつかアーシェがクレスを思い出す時、浮かんでくる表情が笑顔ばかりであるように。
「楽しかったな、アーシェ!」
 伝えたい言葉は山のようにあったが、結局クレスが選んだのはその一言だった。だからおまえも笑え、とばかりに口の端を上げ、クレスは吹き込む風に消されないよう強く声を張り上げる。
「楽しかったな!!」
「――――ああ」
 託された長剣を固く握り締め、アーシェも粉雪をまとわせながらふわりと笑った。
「ああ、楽しかった」
「忘れんなよ!」
「ああ、忘れない」
「じゃあな!!」
「……ああ!!」
 最後の言葉だけは笑顔で言えた自信のないまま、それでもクレスの姿を焼きつけようとするように見つめ、アーシェは闇に包まれつつある森へと踵を返した。
 真っ白な粉雪が後から後から降りしきり、夜目が利くはずの視界をあいまいにぼやけさせていく。ゴゴ、という重い音を立てて石の扉が動き、背にそそがれていたクレスの視線を完全にさえぎった。
 ひややかな風が木々の間を吹きぬけ、雪と共に光の色をした髪を大きく乱す。
 普段はアーシェに優しいはずのそれが、今は舞い散る粉雪とあいまって耐え切れないほど冷たかった。
「アーシェ殿っ!!」
 ふいに響いた聞き覚えのある声に、アーシェは色違いの瞳で雪の向こうを透かし見た。避難する民と護衛の兵に指示を与えていたのか、弓の代わりに煌々と燃えさかる松明を手にし、ファレオが通路をくぐってきたアーシェのもとに走りよってくる。松明の炎がちらちらと揺れ、さみしいはずの景色に柔らかい光を刻みつけた。
「アーシェ殿、避難民たちの準備は整っています。若い者ばかりですが、護衛のための兵士もつけておきました」
「……ああ」
「申し訳ありません。後のことはよろしくお願いします」
 最後まで真面目な態度を崩さないファレオに、アーシェは表情を引き締めて頷きを返した。
「わかった。……言うまでもないだろうが、クレスを頼む」
「もちろんです。私はクレスレイドさまの筆頭護衛官ですから。……あ」
 そこで慌てたように声を上げ、ファレオは松明を持ったまま背筋を伸ばした。
 甘く整った面差しと、優しい色合いの双眸が穏やかにゆるむ。
「言い忘れてしまうところでしたが、アーシェ殿」
「……」
「守って下さってありがとうございました。このご恩は決して忘れません!」
 純粋な感謝のみの感じられる口調で、普段と変わらない生真面目な動作で、ファレオは主君の親友であった青年に頭を下げてみせた。アーシェはこれからレファレンディアを離れ、避難民たちと共に『硝子の王国』レフュロスを目指すというのに、ファレオの瞳に不安や恨みがちらつくことはない。
 反射的に何かを言いかけたが、この場にふさわしい言葉を見つけることができず、アーシェは返事の代わりに鮮やかな笑顔を浮かべた。
 ひらひらと舞う粉雪が視界を占領し、実在が危ぶまれるほど綺麗な微笑をけむらせていく。焦げ茶の髪を揺らしながら顔を上げ、そのまま魂を抜かれたように立ち尽くすファレオの肩を、アーシェは深い思いのこもった仕草で優しく叩いた。
 それが別れのあいさつだった。
 返答らしい返答を口にしないまま、アーシェは目を見開いたファレオの横を通り過ぎ、明かりの揺れる森の奥へと足を踏み入れた。どこまでもまっすぐに前を見据え、アーシェを待っているだろう避難民たちのもとへ歩を進める。
 血が滲むほど強く唇を噛み、脇に下ろした手のひらを握り締めながら、何があっても背後を振り返ることだけはしないと決めた。
 子どものようなその決意だけが、愛しい国に背を向けたアーシェの、鈍りそうな足を進めてくれる力だった。






    


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