さよならの代わりに 1





 真冬の夜は闇が深い。
 松明の明かりがゆらゆらと揺れる中、真っ白な粉雪が音もなく降りそそぎ、凄惨なはずの戦場をひどく幻想的に彩っていた。いたるところに倒れ伏した兵士たちと、雪化粧をほどこされたレファレンディアの王城とを見やり、クレスは手にした矢弦を限界まで引き絞る。びぃん、と音を立てて放たれた矢は、風よりも早く宵闇の空を翔け抜け、足場に侵入しようとしていた敵兵の首に突き刺さった。
「……クレスレイドさま!」
「陛下!!」
 弓をたずさえて現れたクレスの姿に、レファレンディアの兵士たちから歓喜の声が上がった。
 レファレンディアの兵士たちは、横列をいくつも重ねた密集陣形を組み、櫓や梯子(はしご)によって侵入してくる敵兵を迎え撃っていた。最前列の兵士が突き倒されても、すぐさま後ろの味方がその穴を埋め、ランドーラの兵たちに必要以上の侵攻を許さない。
 常識離れした魔力を持つレガートと、空から攻撃してくる飛竜の脅威が消えたおかげで、本来の白兵戦における力量差がはっきりと出たのだろう。ざっと周囲を見渡せば、レファレンディアの防衛線がランドーラの猛攻を相手取り、足場の上で互角以上の戦いを繰り広げている様子が見て取れた。
 クレスは小さな笑みを浮かべた。何かを確かめるように右腕を動かし、袖のちぎれてしまった肘の部分を撫でると、今だ巻かれたままの即席の包帯に視線を落とす。アーシェの使った癒しの術によって、抉れていたはずの箇所に新しい皮膚が盛り上がり、剣を振るうのに支障のないところまで回復が進んでいた。
 最後までおまえに頼っちまったな、と柔らかい口調で呟き、クレスは感傷を振り切るような動作で紅の瞳を上げた。いつの間に戻ってきたのか、ファレオがきびきびした足取りでその横に歩み寄り、クレスの手から役目を終えた強弓を受け取る。
「……行ってしまわれましたね」
「ああ」
「これで、よろしかったんですか?」
「ああ」
 痛みを堪えるようなファレオの声音に、クレスは揺るぎなく前を向いたまま頷きを返した。そのまま堂々とした足取りで一歩踏み出し、抜き放った大剣を高く空に突き上げる。
 大剣の切っ先が松明の炎に映え、見る者の目にどこまでも鮮やかな輝きを焼きつけた。
 まるで希望の光のように。
「いいかおまえら、これが最後の戦いだ! 戦神シエルの御子が残してくれた命、何があっても無駄にするな! あいつが体を張って守ったものだ、最後まで俺たちの手で守り抜く!! 怯むな、前を見ろ、武器を取れ!!」
 そこで一度だけ瞳を細め、クレスは浮かべた笑みを深めてみせた。
「アーシェに恥じない戦いを見せてみろ!!」
 その言葉に答えたのは、すさまじい勢いで爆発した歓呼の声だった。
 それぞれが全身を使って叫びを上げ、殺到してきたランドーラの兵に剣を、槍を、矢を叩きつけた。悲鳴と共に鮮血が噴き上がり、宵闇の空に不吉極まりない模様を描く。それは背筋も凍るような禍々しい光景だったが、彼らの勢いを押しとどめる要因にはなり得なかった。
「万歳!」
「獅子王クレスレイドさま万歳!!」
「戦神アーシェ殿万歳っ!!」
 悲鳴を圧倒して響きわたったのは、レファレンディアの総大将であるクレスの名と、今はもうここにはいない戦神の名だった。
 伝説に謳われた裁定者ではなく、傷だらけになりながらも戦い続け、彼らと彼らの王を守ってみせた、純金色の髪を持つ青年の名前だった。
 熱狂的にほとばしった歓声を受け、ランドーラの陣営に隠し切れない動揺が走った。ひっ、と気おされたように息を呑み、武器を構えたまま背後に下がった敵兵を、クレスの振るった大剣の刀身が斜めに薙ぐ。ぐらりと傾いだ体を思いきり押しのけ、その背後にいた兵士を一刀のもとに切り捨てながら、クレスは唇の端に戦場には似つかわしくない笑みを滲ませた。
 ほらみろ、というささやきが空気を揺らし、次の瞬間には悲鳴や剣戟の音に紛れて霧散する。
(……俺の言ったとおり、おまえはちゃんとこの国を救ってくれてるじゃねえか)
 国王であるクレスの檄(げき)だけでも、兵士たちの士気を高める効果は十分に望めただろうが、やはりここまでの興奮や熱狂を招くことはできなかっただろう。彼らの中から死への恐怖を取り除き、どうしようもない絶望を希望に変えているのは、全身を血に染めながらも剣を手放さなかった青年の存在だった。
(おまえは自分に対する評価が低すぎるんだよ。俺たちがこうして戦ってられるのは全部、おまえが体張って守ってくれたからなんだぜ?)
 その辺わかってなさそうだよな、と胸中に続け、クレスは襲いかかってきた敵の頚部に大剣を一閃させた。手のひらに伝わる何とも表現しがたい感触も、一気に噴出する鉄の匂いを乗せた鮮血も、戦場を押し包む独自の高揚感の前にはひどく遠い。
 頬に飛んだ生暖かいものを乱暴にぬぐい、クレスはだから、と苦笑混じりの口調で小さく呟いた。
「そんな顔すんなよ、アーシェ」
 今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、それでも綺麗に笑ってみせたアーシェの顔を思い出し、クレスはどこか申し訳なさそうな態度で瞳をすがめた。ふっと短く息を吐き出し、襲いかかってきた壮年の兵士を力ずくで切り倒す。
 ヒュン、という風を切る音に視線を転じれば、ファレオが神技としかいいようのない速度で矢を放ち、櫓から飛び降りた敵兵を射落としたところだった。クレスの傍にぴたりと寄り添い、琥珀の瞳で殺到してくる敵を見据えたまま、ファレオはクレスレイドさま、と優しい声音で主君を呼ぶ。
 訝しげな色を湛える紅の瞳に、琥珀色の双眸がやんわりとすがめられた。
「……笑っておられましたよ、あの方は」
「ん?」
「後のことをよろしく頼みます、と言った私に、あの方は信じられないほど綺麗な表情で笑って下さいました。最後にクレスレイドさまを頼む、とも」
「……」
「優しい方でしたね。本当に、痛いくらいに」
 風に紛れるような呟きに返されたのは、隙のない身のこなしで敵兵を斬り捨てたクレスの、おう、という子どものような喜びに満ちた言葉だった。
「当然だろ。アーシェは俺の大親友だぜ?」
「ええ」
 そうですね、と包み込むような表情で笑い、ファレオは手練の早業で弓に矢をつがえた。足場に立てかけられた梯子に狙いを定め、顔を出した敵兵の鼻柱に矢を突き立ててのける。隙らしい隙をみせるとこなく、あっという間に屍の山を築いていく主従のふたりに、ランドーラの兵士たちから狼狽の呻き声が上がった。
「――――何をしている!!」
 その瞬間、兵士たちのざわめきを引き裂くようにして、男にしては甲高い叫び声が響きわたった。
「ここまできて怖気づいたか! 所詮は追いつめられたねずみの最後の足掻き、何を恐れる必要があるっ!!」
 頼みの綱だったレガートを失い、一度は後方に下がった総大将のナジェールが、周囲を屈強の兵士たちに守られ、勇ましいかけ声と共にレファレンディアの足場へと降り立った。抜き身の剣を頭上で振り回し、その切っ先を黒衣に身を包んだクレスに向ける。
「怯む必要はない、勝利はもはや目前だ! すべては全能なるわれらが王、フォルストラさまの御ためにっ!!」
 言葉そのものはひどく芝居がかっていたが、とにもかくにも最前線へと姿を現した総大将に、押され気味だったランドーラの兵士たちが勢いづいた。おぉっ、という鬨の声を張り上げ、強固なレファレンディア側の防衛線に猛攻をかけ始める。
「フォルストラさまの御ために!!」
「われらが祖国、ランドーラに勝利をっ!!」
 耳が痛くなるほどの喧騒と絡み合い、宵闇の空へと響いていく絶叫は、戦場の中でしか聞くことのできないある種の音楽だった。
 ほんのわずかに片方の眉を持ち上げ、クレスは返り血と汗ですべる大剣の柄を握りなおした。数で劣っているレファレンディアの陣営が、勢いに乗ったランドーラの攻撃にさらされ、それを長時間しのぎきることは不可能に近い。状況はますます絶望的になりつつあったが、クレスは挑戦的な表情でにっと笑い、傍らに立つファレオに悪戯めいた視線を投げた。
 あまりにもクレスらしい飄々とした態度に、ファレオも口元にほのかな苦笑をよぎらせる。
「……前にも申し上げましたが、こういう場合はもう少し緊張感を持って下さい。状況は悪化の一途をたどってるんですよ?」
「いいんだよ、俺はこれで。それよりファレオ、覚悟はいいか?」
「もちろんです。たとえあなたに嫌だと言われても、私だけは最後までお供させていただきますからね、国王陛下」
「よし」
 幼い少年のように笑ったまま、幅広の大剣を片手にかまえ、クレスはわずかな躊躇もなく石作りの足場を蹴った。敵の猛攻の中に飛び込み、最前線でランドーラの兵を薙ぎ払っていく主君の後姿に、ファレオも一拍置いてから支援のための矢を放つ。目を見開いた敵兵を一瞬で斬り捨て、獅子のごとき武勇を惜しみなく見せつけながら、クレスは粉雪のちらつく真冬の空に瞳を向けた。
 紅の瞳がかすかになごみ、何より優しい笑みを形作る。
 見てろよ、という穏やかにこぼされた言葉は、ふいに吹き抜けた突風にさらわれ、空の彼方へと運び去られていった。




 周囲に満ちる不穏な何かを感じ取り、アーシェは隊列を組む兵士たちの先頭で足を止めた。ほっそりした腕を横に掲げ、背後の兵士に前進をやめるよう指示を出す。斜め後ろを歩いていた兵士が瞳を丸くした。
「……アーシェ殿? どうか」
 なさいましたか、という若い兵士の言葉が終わる前に、ひゅっという鋭い音を立てて数本の矢が地面に突き立った。勢いのままの揺れる矢羽を見つめ、アーシェは無言のまま色違いの瞳を険しくする。
 アーシェたちが進んでいるのは、鬱蒼としげった森をつらぬくように作られている、かなりの範囲にわたって整備された公路だった。二百人ばかりの護衛部隊だけでなく、それに倍する非戦闘員を守らなければならない状況で、敵から身を隠してくれる獣道を進むわけにはいかないからだ。道とも言えない道を歩いているうちに、体力のない女性や子どもから脱落し始め、最終的には隊列を組むことさえままならなくなってしまうだろう。
 その考えが間違っていたとは思わないが、敵に待ち伏せされたという事実を悟ったとたん、アーシェの胸中にかすかな後悔の念が湧きあがった。腰に下げた長剣の柄に手を這わせ、姿を現した敵の部隊を睨みすえる。
 大規模な部隊ではなかった。初めからこの場所にひそんでいたのか、呼気が立ち上らないように口元を布で覆い、甲冑の上から防寒用のマントを着込んでいる。数は二百五十から三百といったところだろう。
 数自体はそれほど異ならないが、こちらの兵士のほとんどが少年兵であり、その後ろに非戦闘員を抱えているという事実を鑑みると、状況は圧倒的に不利だと言わざるを得なかった。
 レファレンディアの護衛部隊は、百五十人の兵が避難民たちの前を、二十人がその横を、残りの三十人がその後ろを進み、道幅いっぱいに広がりながら長い縦列を作っている。前方の部隊が足を止めたことに気づいたのだろう、背後の避難民たちが怯えたように騒ぎ始め、身を切るほど冷たい真冬の空気をざわざわと震わせた。
「……アーシェ殿」
 確かめるような仕草で剣の柄を握り、先ほどの若い兵士がアーシェの顔を仰ぎ見た。今にも剣を抜きそうな態度だったが、柄にかけた手をアーシェによって押しとどめられ、驚いたように若草色の瞳を瞬かせる。
「あの……」
「剣は抜くな。陣を組んで弓で応戦しろ」
 アーシェの指示は簡潔だった。有無を言わさぬ口調で命じつつ、自分は黄金作りの鞘から長剣を抜き放ち、じりじりと近づいてくる敵部隊に向かって足を踏み出す。白金の刀身が松明の明かりを受け、殺意に満ちた場にはふさわしくない清冽な光をこぼした。
「いいか、おまえたちは向かってくる敵を矢で牽制しろ。何があっても絶対に近づけさせるな。後ろにいる部隊は避難民を頼む。混乱して列を乱したらそこで終わりだ」
「はっ……」
「私が突破口を開く。合図があったら民を守って駆け抜けろ」
 兵士たちは従順な態度で頷きかけたが、そこでアーシェの言わんとしていることに気づき、まだ年若い顔に驚愕の表情を貼りつけた。意味もなく口を開閉させながらアーシェ殿、と呟き、救いを求めるように味方同士で視線を交わし合う。
 アーシェはそれに構わなかった。一度だけ背後の兵士たちを見返り、二色に染まった稀有な瞳をなごませると、彼らが何かを言うよりも早く敵に向かって走り出す。おまえたちは民を守れっ、という叩きつけるような言葉だけが、息を呑む兵士たちの鼓膜に強く刻みつけられた。






    


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