さよならの代わりに 2





 たったひとりで走りこんできたアーシェに、ランドーラの兵士たちは反応らしい反応を返すことができなかった。アーシェの動きが予想外だったからではなく、事前に予想していても反応できないほど速かったからだ。
 すれ違いざまにひとりの喉を斬り裂き、返す刃でもうひとりの首を両断すると、アーシェは驚いたように立ちすくむ別の兵士に足払いをかけた。兵士はうわっ、と間の抜けた声を上げて体勢を崩し、近くにいた同僚を巻き添えにしながら地面に倒れこむ。その首筋を無慈悲な刃で一閃し、アーシェは他の兵士を相手取るために身を翻した。
 広範囲にわたって整備されているとはいえ、両脇を森に囲まれた道の上では平野と同じ戦法は取れない。相手の異常さに気づいたランドーラの兵は、よろめきながらも後方に下がり、乱れてしまった歩兵独自の隊列を立てなおそうとした。
 そこにレファレンディアの護衛部隊が矢を射かけた。アーシェの指示が行きわたったのだろう、前方に展開していた兵士たちが列を組み、まとめ役と思しき兵の号令に従って矢の雨を降らせ始める。両者の間に距離がある分、一度の射撃で与えられる損害などたかが知れていたが、それでもランドーラの部隊を撹乱(かくらん)するには十分だった。
 敵が降りそそぐ矢に気を取られた瞬間、アーシェは手近にいた壮年の兵士に走り寄り、胸甲の継ぎ目を力任せに斬りはらってみせた。どぷっ、という奇妙な水音と共に血が噴き出し、普段は清浄なはずの空気を鉄の匂いに染めかえる。それが全身に降りかかり、白皙の肌を赤く汚すのにも頓着せず、アーシェは体をひねる勢いを利用して長剣の柄を振り抜いた。柄頭に顔面を強打され、まだ若い兵士がのけぞるように崩れ落ちる。
 甲冑の隙間に突きかかることはしない。敵の体から刃を抜いている間に、別の兵士がアーシェの横を駆け抜け、レファレンディアの一隊に攻撃を仕かける可能性があるからだ。
 いくらここが森の中の道であっても、アーシェひとりで三百人に及ぶ敵兵と戦い、レファレンディアの避難民たちを守りきることは不可能に近かった。たとえばふたりの兵士を斬り捨てているうちに、五人以上の兵士がアーシェの脇をすり抜け、民を守っているレファレンディアの一隊に突っ込んでいってしまう。だからこそ護衛部隊に陣を組み、矢によって牽制するように指示したのだが、今のところアーシェの思惑以上の効果が出ていると言ってよかった。
 降りそそいできた矢に射られ、ぐらりと傾いだ長身のランドーラ兵を、アーシェの振るった長剣が斜め上から斬り下ろした。大国に伝わる国宝級の剣だけあって、白金色の刀身は金属の甲冑を引き裂き、その下に守られた兵士の体を深く傷つけてのける。
「……まったく」
 それをあんなに簡単に投げて寄こすんだからな、とひとりごち、アーシェは倒れこんできた兵士の体を片手で受け止めた。それをすさまじい膂力で横向きに投げ飛ばし、こちらに襲いかかろうとしていた敵兵の出鼻をくじく。ほっそりした青年の腕力に度肝を抜かれ、投げつけられた味方の体ごと倒れこむ兵士たちに、突風のような速度でアーシェの操る長剣が迫った。
「――――すごい」
 手にした矢弦を引き絞り、号令に合わせて牽制の矢を放ちながら、レファレンディアの少年兵は呆然とした口調で呟きを漏らした。
 純金色の髪をさらさらと流し、血にまみれて長剣を振るうアーシェの姿には、神話の中の戦神シエルを思わせる異質な美しさがあった。
 ランドーラ側がもう少し冷静であったなら、あるいはここが開けた平原であったなら、アーシェひとりを相手にこれだけ苦戦することはなかっただろう。百人あまりの兵がアーシェの足止めをしている間に、残りの兵がレファレンディアの隊列に攻撃を仕かけ、そのままの勢いで皆殺しにしてしまえばすむからだ。だが、実際には広いとは言いがたい道幅と、たおやかですらある青年の人間離れした力によって、ランドーラの兵たちはアーシェの横をすり抜けることすらままならなかった。
「すごい……すごい、すごい。あれが戦神の、シエルの御子……」
 吐息と共にこぼされた言葉は、アーシェの戦いを目の当たりにし、視線を外すことも忘れて見つめる兵士すべての思いだった。
 頭上から振り下ろされた剣をあっさりと弾き、アーシェは無防備にさらされた相手の喉を横薙ぎに裂いた。ランドーラの部隊に走りこんでから、こうして何人目とも知れない敵兵を屠るまで、呼吸ひとつ分の間さえも動きを止めていない。
 アーシェの目的は敵部隊の殲滅ではなく、レファレンディアの一隊を無事にレフュロスまで送り届けることだった。そのために相手の気をそらし、あるいは混乱させ、冷静な判断ができなくなるように仕向ける必要がある。止まるな、と自分自身の体に命令し、アーシェは振り上げた長剣の切っ先を敵兵の顎に叩きつけた。
 喧騒の中に血煙が弾け、粉雪によってぬかるみつつある地面を穢していく。
 大きくのけぞった敵兵から視線を外し、アーシェは蓄積されていく疲労を追い出すように息を吐いた。斬り捨てた人数は五十人にも満たないが、その人間離れした力を見せつけたことによって、ランドーラの部隊を混乱させるという意図は達成されつつある。せめて三分の一は倒しておきたい、と意識の冷えた部分で考え、眼前の敵兵に向けて流れるように足を踏み出した、まさにその瞬間のことだった。
 体の奥に激痛が走り、膝からがくりと力が抜けた。
 踏み込みの勢いを殺しきれず、泥を跳ね上げながら足元にくずおれ、アーシェはごほ、という嫌な音と共に激しく咳き込んだ。口の中に錆びた鉄の味が広がり、とっさに押さえた手のひらを鮮やかな赤に染め上げる。
 柔らかくおとずれた白昼夢の中、どこか悲しげに微笑んでいた少年の言葉を思い出し、アーシェは低く舌打ちの音を響かせた。あふれ出した力が君の体を壊してしまうかもしれないよ、という予言めいた言葉通り、ほっそりした体のいたるところが悲鳴を上げ、これ以上の戦闘は無理だと持ち主に訴えてくる。今まで戦えていたことが奇跡に等しかった。
 何の前触れもなく地面に倒れ、咳と共に血を吐き出したアーシェの姿に、ランドーラの兵士たちは色めきたった。踏み込んできたアーシェと視線が合い、恐怖の表情を作って後ずさった年若い兵士が、怯えを振り払うように蛮声を張り上げ、膝をついたままの青年に剣の刀身を打ち下ろす。
 とっさの判断で上体をひねり、頭を叩き割られることだけは避けたが、代わりに左の肩を刃の前にさらしてしまった。華奢な肩口に刃が食い込み、稀有な美貌に押さえきれない苦痛の色がよぎる。そのまま体勢を崩しかけたが、地面についた左腕で倒れかかる体を支え、アーシェは手放さなかった長剣を相手の腹部に突き出した。
 どっ、という重い感触が右手に伝わり、それが相手に致命傷を与えたことをアーシェに教えた。
 倒れこんでくる兵士の体を避け、肩に食い込んだままの刃を強引に引き抜くと、アーシェは使い手のいなくなった剣を背後に投げつけた。それは放たれた矢のような速度で宙を裂き、攻撃に転じようとしていた別の兵士の首に突き立つ。その間に崩れてしまった体勢を整え、アーシェはよろめきながらも二本の足で立ち上がった。
 血まみれの両腕をだらりと下げ、ぜぇぜぇと苦しげな呼吸音を漏らす。
「アーシェ殿!!」
「……っい、じょうぶだ」
 聞こえるはずがないと知りつつ、レファレンディア兵の絶叫に答えを返し、アーシェは取り落としそうだった長剣の柄を握りなおした。今が好機とみたのか、殺到してくるランドーラの兵に視線をやり、振り抜いた刃でふたりの首を高く跳ね飛ばす。兵士たちの首であった部分と、負荷に耐えかねたアーシェの肩から血がこぼれ、粉雪の舞う空に赤い染みを作り出した。
 アーシェの動きは変わらず人間離れしていたが、その相手に傷を負わせたことで余裕が生まれたのだろう、ランドーラの部隊の間に秩序だった動きが回復しつつあった。十人あまりの兵がアーシェに襲いかかると同時に、他の兵士がその横を駆け抜け、矢の雨をものともせずにレファレンディアの一隊へと迫る。アーシェは再び舌打ちした。
 熱さえともなう痛みを意識から締め出し、長剣の切っ先でひとり目の喉笛を、ふたり目の顔面を深く斬り裂いた。横合いから突き出された剣を受け止め、その衝撃でぬかるむ地面に膝をつきながら、横をすり抜けていこうとする敵兵に手を伸ばす。がりっという音と共に爪が割れ、ほっそりした指先に血が滲んだが、それにも構わず相手の剣帯をつかんで引きずり倒した。
 その額部分に長剣を突き下ろし、間髪入れずに別の相手へと体当たりをかける。そんな攻撃は予想外だったのか、体格のいい兵士が泥の中に倒れこみ、その体によって近くにいた味方の足をもつれさせた。
 もしもこの場に裁定者を名乗った魔術師がいたなら、驚愕と失望をこめて形のよい眉をひそめてみせただろう。鮮血と泥濘(でいねい)にまみれ、なりふりかまわず敵をはばもうとする戦いは、神々の舞踏を思わせる普段のそれとは遠くかけ離れていた。ランドーラの兵士たちだけでなく、離れた位置にいるレファレンディアの兵士たちも息を呑み、ふらつきながら立ち上がったアーシェに言葉にならない眼差しを向けた。
 白皙の肌と純金の髪を汚し、何かをかなぐり捨てるように戦うその姿は、普段の優美さと比べて滑稽ですらあるのに、なぜか胸がつまるほど壮麗で美しかった。
 肩口の傷を押さえることも、魔術を使って癒すこともせず、アーシェは駆け抜けていこうとする別の兵士に追いすがった。斜め後ろから膝裏のあたりを斬りつけ、足の部分を守っている具足(ぐそく)ごと真っ二つにする。兵士は悲鳴を上げて倒れこんだが、その瞳に憎悪と執念の光を宿し、自分を追い抜いていこうとした美貌の青年に腕を伸ばした。
 倒れた兵士に片方の足をつかまれ、アーシェは右の肩から地面に叩きつけられた。反射的に受け身は取ったが、負傷している左肩に弾けるような痛みが走り、瞬間的に瞼の裏が真っ赤に染まる。
 起き上がろうとしたところを蹴りつけられ、ぬかるむ地面の上を転がったアーシェの視界に、松明の明かりを受けてぎらぎらと輝く刃が映った。
「……っ」
 だが、大きく掲げられた刃が振り下ろされ、アーシェの華奢な体に傷をつけることはなかった。わぁっ、という大音声の叫びと共に、剣をかまえた数十人の人間が突撃をかけ、武器を振りかぶったランドーラの兵を突き倒したからだ。
 固い表情で歯を食いしばり、アーシェを守るように敵部隊へと突っ込んだのは、離れた位置で陣を組んでいたはずのレファレンディアの兵だった。
「――――アーシェ殿!」
「アーシェ殿、ご無事ですか!?」
 間近で響いた兵士たちの声に、アーシェは愕然とした表情で色違いの瞳を見張った。地面に突き立てた長剣で体を支え、蹴られた箇所をかばいながら上半身を引き起こす。
 泥だらけの美貌が焦りの表情を作った。
「何を……っ」
「すみません!!」
 何をしてるんだっ、というアーシェの怒鳴り声をさえぎったのは、必死の形相で敵兵と斬り結んでいる少年兵だった。かざした剣で迫ってくる刃を押し返し、死への恐怖を紛らせるように叫びを重ねる。
「すみません、すみませんアーシェ殿! 自分たちはあなたを神さまみたいだと……無敵に違いないんだと思い込んでいて!!」
「な……」
「あなただって死んでしまうかもしれないのに、最後まであなたに守ってもらうつもりでいましたっ!!」
 本当にすみません、と後悔の滲む口調で叫び、少年兵は体当たりの要領でランドーラの兵に剣を突き刺した。ずぶっ、というくぐもった音に泣きそうな表情を閃かせ、わずかに痙攣する敵の体を泥の中に押し倒す。それに触発されたのか、他の兵士たちも手にした武器を振りかざし、言葉にならない絶叫を放ちながらランドーラの兵に打ちかかった。
 周囲はたちまち乱戦状態となった。斬る者と斬られる者がからみ合い、いたるところに深紅の花を咲かせ、これ以上ないほど荒らされたぬかるみをさらに踏みにじる。ランドーラの兵が深手を負い、泥を跳ね上げながら倒れこむ横で、レファレンディアの兵が頭部に一撃をくらい、足元に転がっている死体の仲間入りを果たした。
 アーシェの瞳に痛みの色が走った。重い体を意思の力で引きずり起こし、肩で息をしながらなんでだ、と吐き捨てる。
(なんでこうなんだ。この国の人間は……レファレンディアの兵士たちは、どうしてこうも馬鹿ばっかりなんだ)
 脳裏に浮かび上がった親友の笑顔に、耳元によみがえった明るい声音に、アーシェの表情が泣き出しそうにゆがんだ。
(私を無敵だと思ってた? 私に守ってもらうつもりだった? そんなの当たり前じゃないか。……化け物みたいな力の持ち主がいるなら、それを利用してしまえばいいじゃないか。誰もそれを責めやしないのに)
 長剣の切っ先を地面から引き抜き、アーシェは周囲に満ちる魔力に声なき声で呼びかけた。友と交わしたもうひとつの約束を果たすため、高位の魔術はこの先まで温存していくつもりだったのだが、そのためにここでレファレンディアの兵士たちを死なせるわけにはいかない。
(それなのにどうして、おまえたちは私なんかをかばおうとするんだ)
 恨み言めいた口調で胸中に呟き、ほんの一瞬だけ長い睫毛に縁取られた瞳を閉じると、アーシェはランドーラの兵士たちがかたまっている方向に視線を向けた。集まってくる魔力をひとつに練り上げ、極限まで高められた破壊の力を解き放とうとする。
 その時だった。
 乱戦の騒音を縫うように馬蹄の音が轟き、一拍はさんでおぉっ、という鬨の声が大気をつらぬいた。ふっと見開かれたアーシェの視線の先で、明らかに矢と知れる黒い雨が降りそそぎ、後方に展開していたランドーラの兵士を地に倒す。
 粉雪混じりの風をはらみ、松明の明かりを受けてひるがえったのは、銀の月と金の宝冠が中央で交差する、誉れ高い『硝子の王国』レフュロスの旗だった。






    


inserted by FC2 system