さよならの代わりに 3





 かすかに響いてきた戦場特有の喧騒に、ティアラザード・フォーラムは紫の瞳を見開いた。
 ティアラに率いられた騎兵部隊は、数時間前にレファレンディアとの国境を越え、こちらに向かっているはずの避難民を保護するために進軍中だった。月を象ったレフュロスの旗をひるがえし、銀に煌く近衛師団の甲冑に身を包んでいるが、国王ウォルフレードの正式な命令を受けたわけではない。近衛師団一番隊隊長を務めるティアラの独断だった。
「……いや」
 たぶん黙認して下さったんだろうな、と静かに呟き、ティアラは手綱を握る指先に力を込めた。
 あの穏やかで心優しい主君は、ティアラの行動がどれだけの危険を招くか承知した上で、彼女が騎兵を動かしやすいように手を回してくれたのだろう。この行動がランドーラやヴァングレインに知られた場合、すべてをティアラの独断専行として処理してもらうつもりだったが、そうなった時のウォルフレードの悲しみを思うと胸が痛んだ。
「ティアラザード、近いぞ」
 ティアラの表情が翳ったことに気づいたのか、ジェス・クラウドが絶妙の手綱さばきで馬を寄せ、少しずつ大きくなっていく喧騒の出所に顎をしゃくった。
 金属同士のぶつかる剣戟の音と、人間の上げる悲鳴とが混じり合い、武人にとっては馴染みのある音楽を形作っていた。ごくわずかに眉をひそめ、ティアラは副官であるジェスに視線を向ける。
「……もしかして、間に合わなかったか?」
「さあな。とりあえず、この先で戦闘が行われているのは確かだ。どうする?」
「決まってる」
 紫の瞳が鋭い笑みに細められた。他の思考は一時的に棚上げし、前方に広がる闇に視線を戻すと、勇猛さを讃えられる将軍の表情で言葉を続ける。
「私たちはレファレンディアの避難民たちを保護しにきたんだ。邪魔者は叩きつぶして目的を果たす」
「了解だ、隊長殿」
 どこか好戦的な表情で微笑し、ジェスも進行方向に緑の双眸を据えた。
 松明の炎が闇を焦がす中、マントをまとった歩兵が一塊になり、互いに押し合いながら武器を振るう様子が見て取れた。ジェス、というティアラの呼びかけに答え、緑の瞳を持つ青年は遠視(えんし)の術で状況を確認する。細かい戦況を見て取ることはできなかったが、マントを身に着けた部隊がランドーラの歩兵であることと、まるで何かに怯えるように足並みを乱していることだけは理解できた。
「前方に見えるのはランドーラの部隊だ。戦ってるのはたぶんレファレンディアの兵だろう、人数は少ないが善戦してる」
「わかった」
 ジェスの言葉に頷きを返し、ティアラは背後に続く百騎あまりの部下に視線を投げた。
「これより前方の敵に対して攻撃を行う! 目標はマントを身に着けたランドーラの歩兵部隊だ、弓矢による威嚇の後、ラウルの部隊は私に、グレッドの部隊はジェスに続け! レファレンディアの避難民を救出する!!」
 風に紛れることなく響いた声に、名を呼ばれたふたりの兵士が了解っ、と叫び返した。前方の騎手たちが弓をかまえ、危なげない動作で矢弦を引き絞ってみせる。
 すっと深く息を吸い込み、ティアラは頭上に掲げた腕を前方へと振り下ろした。
「撃てっ!!」
 斜め上へと放たれた矢は、重力の助けを借りて地上に降りそそぎ、後方に展開していたランドーラの歩兵に襲いかかった。
 その効果を確認する間もなく、諾足(だくあし)から駆歩(くほ)による疾走へと移行し、レフュロスの騎兵は敵部隊のただ中に突撃をかけた。密集した陣形を組んでいる歩兵は、前方からの攻撃には強くても、背後からの奇襲には非常に弱い。うわぁっ、という悲鳴を上げて隊列を乱し、雪崩を打つように道の両脇へと倒れかかった。
 そこにティアラの愛馬が躍り込んだ。
 レフュロスの近衛師団一番隊は、精鋭といって差し支えのない戦闘集団であると同時に、国王であるウォルフレードにもっとも近い親衛隊でもあった。国内で大がかりな式典が催される際、国王の身辺警護を担当する親衛隊は、武人としての優れた実力のみならず、見目の美しさをも備えた華のある部隊でなければならない。
 そんな部隊の隊長を務めるだけあって、白馬を駆るティアラの姿は女神と見紛うほど優美だった。
 突きかかってきた切っ先を剣の腹で弾き、がら空きになった敵の上半身を真上から斬り下ろす。力任せに薙ぎ払うことはできなかったが、突撃による勢いと騎馬の高さのおかげで、相手に致命傷といえるだけの傷を負わせることに成功した。背後に倒れ込む敵兵に一瞥もくれず、馬に斬りつけようとした相手を蹄にかけ、ティアラは自分でも無意識のうちにぺろりと唇を舐める。
「……いいか、一兵たりとも逃すな! 情報を持ち帰られたら厄介だ、ここで全員始末しろっ!!」
 ティアラの命令に迷いはなかった。どうせいつかは知られてしまうだろうが、直接持ち帰られる情報が少なくなれば少なくなるほど、状況は二大国を敵に回したレフュロスにとって有利なものになるからだ。
 返事の代わりに喊声(かんせい)を張り上げ、レフュロスの騎兵は右往左往する敵の歩兵に襲いかかった。随所で鮮やかな血煙が噴き上がり、ただでさえよどんでいた真冬の空気と、屍の倒れ伏すぬかるんだ地面を蹂躙していく。
 ふたり目の頭部に剣を振り下ろし、三人目の首筋を深く斬り裂いたところで、ティアラは何かに気づいたように柳眉を寄せた。
(……人数が少なすぎるな。別部隊がいるのか?)
 手ごたえがないというわけではないが、伏兵という重大な任務を負った部隊のわりに、攻撃に転じてくる敵兵の数が違和感を覚えるほど少なかった。こちらに目を向けているのは百人あまりで、残りの兵たちは相変わらず前方に意識を奪われている。ティアラの胸中を不吉な疑念がかすめたが、改めて周囲に紫の瞳を走らせたとたん、それは大きな驚愕とかすかな恐怖に取って代わられた。
「なんだ……?」
 ティアラの視界に映ったのは、マントの下に着込んだ甲冑ごと斬り裂かれ、ぬかるみの上に倒れ伏している無数の死体だった。
 首から上を完全に失い、何かの冗談のように転がっている者もいれば、胸のあたりをざっくりと抉られ、奇妙にねじれた格好で地面に抱きついている者もいる。ひとりの兵も逃さないよう指示を出し、自身も三人の敵を始末してのけたティアラが、突然の冷気に抱きすくめられたように息を呑み込んだ。
 剣を握ったままの腕に鳥肌がたち、背筋を氷塊にも似た冷たさがすべり落ちる。
「……ティアラザード!!」
 動きを止めたティアラに気づき、獣じみた叫びと共に襲いかかろうとした敵兵を、ジェスの振るった剣が間一髪で突き倒した。両目の間に正確無比な突きをくらい、敵兵は血と悲鳴をまき散らしながら背後に倒れる。
「何を呆けてる、死ぬつもりか!」
「……ああ」
 滅多に聞くことのできない副官の大音声に、ティアラは夢から覚めた風情で紫の瞳を瞬かせた。
「すまない、油断してた」
「……自覚があるならいいが、仮にも隊長が間の抜けた振る舞いをするな。おまえに何かあったら俺が陛下に殺される」
「殺されるってことはないだろう、おまえだって陛下のお気に入りのくせに」
 ジェスの軽口に苦笑を返し、ティアラは武人の表情に戻ってあたりを見回した。
 彼女の部下たちが奮戦したおかげだろう、あれだけいた敵兵の大半が地面に転がり、ばっくり裂けた傷口を汚れた空気にさらしていた。こちらも無傷というわけにはいかなかったが、幾人かの兵が乱戦の最中に馬を失っただけで、命に関わるほどの深手を負った者はいないように見える。ティアラは小さく安堵の息を吐いた。
 ゆっくりとめぐらされた視線の先で、呆然としたように立ちすくんでいた兵士たちが、レフュロスの旗をひるがえす騎兵の姿に歓喜の表情を作った。恐らくはレファレンディアの少年兵たちだろう。己の足で立っているのは十数人ほどで、その倍以上の兵士が地面に横たわり、傷口を押さえながら苦痛の呻き声を漏らしていた。その中に混じる微動だにしない躯に気づき、ティアラの瞳が淡い痛みを湛えてすがめられる。
 そのまま奥へと流された双眸が、一瞬の間を置いて大きく見開かれた。
「…………エリュス殿?」
 重苦しい風の中にさらりと流れたのは、豪奢な黄金のようにも軽やかな白金のようにも見える、どこまでも煌びやかな光色の髪だった。
 遠目にもわかるほど泥にまみれ、ところどころもつれて固まってしまっているが、それでもあの稀有な色合いを見間違えるはずがない。ぽつりと漏らされたティアラの声に、純金の髪をした青年は顔を上げ、血だらけの面差しにかすかな笑みを滲ませてみせた。
 ああ、という柔らかな呟きが空気を揺らす。
「おまえたち、か」
 そう言って目を細めたアーシェの姿は、言葉では言い表すことができないほどに壮絶だった。
 だらりと下げられた左腕を、常人なら失血死してもおかしくない量の血が伝い、足元の地面に黒々とした水溜りを作っている。松明に照らされた顔色は蒼白で、口の端に滲んだ赤が異様な存在感を主張し、ずたずたになった美貌をどこか艶かしく見せていた。それを直視してしまったティアラだけでなく、隣に馬を寄せていたジェスも愕然としたように息を止め、やや離れた位置にたたずんでいる青年に何とも言えない目を向けた。
 ほんのわずかに視線を動かせば、ランドーラの兵たちが折り重なるように倒れ、アーシェを中心にいびつな円を作っているさまが認められた。先ほどティアラを戦慄させた躯と同様、ある者は甲冑ごと両断された姿で倒れ伏し、ある者は頭部を失った姿で泥にまみれ、生々しい戦場の中に非現実的な光景を作り出している。誰の手によるものかは考えるまでもなかった。
「……っ」
 手綱を握る指先に力がこもった。体の奥から正体不明の衝動が湧き上がり、固く握り締めたティアラの拳に震えを走らせる。上司と同じ感情に襲われたのか、ジェスも泰然とした態度を保つことができず、ティアラの横でかすかに乱れた呼吸を繰り返した。
 徐々にひどくなっていく粉雪の中、身を切るほど冷たい風が吹きすぎ、背の半ばまである純金色の髪を巻き上げていく。
「……アーシェ殿っ!!」
 呪縛にも似た強ばりを解いたのは、刃の折れてしまった剣を放り出し、アーシェに向かって走り寄ってきた少年兵だった。まろぶような足取りで距離をつめ、まだあどけない面差しに泣き出しそうな表情をよぎらせる。
「アーシェ殿、あの、傷の手当てを……っ」
「いや、大丈夫だ。これくらいなら自分で何とかできる」
「でもっ……」
「大丈夫だ。……おまえたちこそ、早く手当てをしてもらえ。すぐに治療すれば助かる兵もいるはずだ」
 淡々と響いたアーシェの言葉を受け、ティアラはようやく自分たちのなすべきことを思い出した。隣のジェスに身振りで合図し、軽い動作で地面に降り立つと、泥に突っ伏している屍を避けながらアーシェのもとに歩み寄る。ティアラの胸に揺れる隊長章に気づき、少年兵が慌しい動作でアーシェの背後に下がった。
「……お久しぶりです、エリュス殿」
「ああ。……ティアラザード・フォーラムに、ジェス・クラウドだったな。レフュロスの」
「はい。陛下のご命令を受けて……というわけではないのですが、レファレンディアの避難民の保護に来ました。後のことはわれわれにお任せ下さい。――――ジェス」
 ちらりと向けられた紫の瞳に、ジェスはすべてを了解した表情で頷きを返した。態度そのものはそっけなかったが、意外なほど優しい手つきでアーシェの腕を取り、もう一方の手をざっくり抉れた肩の傷へとかざす。
「俺は治癒は得意じゃないがな、出血くらいなら止められる」
「……」
「他の重傷者も連れてこい。早く手当てしないと死ぬぞ」
 台詞の後半部分は、不安そうな表情で若草色の瞳を見開き、ジェスの手元に視線をそそいでいる少年兵に向けられたものだった。弾かれたようにはいっ、と声を上げ、忙しない動作で身をひるがえそうとする少年を、前触れなく伸ばされたアーシェの手のひらが引き止める。
 ぱっと振り返った愛嬌のある面差しに、アーシェは呼吸を奪うほど鮮やかな表情で笑ってみせた。
「――――まだ、礼を言ってなかったな」
「え……」
「さっきは助かった。ありがとう」
 後になって思えば、アーシェの浮かべた微笑は恐らく、言葉にできないさよならの代わりだったのだろう。
 あっという間に頬を赤らめ、とんでもないです、と叫びながら首を振る少年兵に、アーシェはもう一度柔らかく笑みを作った。肩をつかんでいた手を離し、手当てを待っている他の兵へと視線を流す。もう行ってもかまわない、という意思表示に気づいたのだろう、少年は生真面目な態度で背筋を伸ばし、一礼してから同僚たちのもとへ駆け去っていった。
「エリュス殿……」
 理由のわからない胸の痛みに眉を寄せ、ティアラは少年兵の背からアーシェの瞳へと視線を戻した。そこで初めて瞳の湛える色彩を目の当たりにし、これ以上ないほどの驚愕を込めて紫色の双眸を丸くする。
「……その色は」
「ああ」
 呆然と漏らされたティアラの言葉に、アーシェは苦笑に限りなく近い表情で笑みを深くした。
 右目が真夏の空を思わせる青、左目が緑柱玉より鮮やかな緑という、見たこともないほど稀有な瞳が優しくなごむ。
「気にするようなことじゃない、もとからこういう色だったんだ」
「は……」
 ティアラは思わず間の抜けた声を上げたが、それ以上の追求を拒むように視線をそらし、アーシェはジェスの手から左腕を取り戻した。もう大丈夫だ、と謝意のこもった口調で呟き、証拠を示すように左の肩を動かしてみせる。
 色違いの眼差しがティアラの上に戻された。
「それより、負傷した兵士たちの手当てと、避難民たちの保護を頼んでもいいか?」
「……ええ、それはもちろんです」
「悪いな。この状態で兵を動かすのは大変だっただろう?」
「否定はしませんが」
 女性らしくない動作で肩をすくめ、ティアラはようやく形のよい唇に笑みを滲ませた。
「ランドーラはこの戦いでずいぶんと消耗したでしょうし、ヴァングレインの王は野心家のわりに小胆(しょうたん)な人間だと聞きます。この程度のこと……と言っては語弊があるかもしれませんが、われわれの動きを察知したくらいで戦をしかけてきたりはしないでしょう。無論、そうなったらそうなったで私も責任を取るつもりですが」
「そうか」
 そこで一度言葉を切り、アーシェは決意の垣間見える表情で小さく笑った。
「それなら、大丈夫だ」
「……エリュス殿?」
 それはどういう意味ですか、というティアラの言葉が終わる前に、背後から彼女とジェスを呼ぶ部下の声が響きわたった。
 残っていたランドーラ兵の掃討と、ある程度の遺体の確認が完了したのだろう。ジェスと共に背後を見返り、集まってきた部下たちに労いの言葉をかけてから、ティアラは厳しかった表情をほんのわずかにゆるめた。
「それで、エリュス殿……」
 今後の動き方を問いかけるべく、自然な動作でアーシェの方へと向きなおったティアラは、一瞬何が起こったのかわからずに紫の瞳を瞬かせた。血の匂いを乗せた風が吹きぬけ、吐き出された白い呼気を揺らめかせていく。
「――――エリュス殿?」
 そこには誰もいなかった。
 確かに存在したはずの気配ひとつ、落ちていたはずの影ひとつ残ってはいない。
 その場に残されたどす黒い血溜まりと、倒れ伏しているランドーラ兵の屍がなければ、今までの会話はすべて幻だったのだと信じてしまっただろう。そんな思いさえ抱かせる鮮やかな消失に、ティアラは呆然とした面持ちで視線をめぐらせた。
 日に焼けた顔に畏怖の表情を湛え、ジェスがぽつりと無意識の呟きを漏らす。
 やはりあれは、と。
「……裁定者」
 その言葉に答える声は、もうどこにも存在していなかった。






    


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