愛しい言葉 1





 王城内に敵兵の侵入を許してから、すでに感覚が麻痺するほどの時間が経過していた。
 握り締めた剣をかまえなおし、ファレオは躍りかかってきた敵兵に切っ先を叩きつけた。ファレオが得意とするのは弓による攻撃だが、遮蔽物(しゃへいぶつ)の多い室内で矢を放っても、敵兵に対する牽制程度の効果しか望むことはできない。倒した敵より消費した矢の方が多くなってしまうだろうし、いつかはランドーラの圧倒的な兵力に押し切られてしまうだろう。
 それがわかっているからこそ、使い慣れた弓矢を剣に持ちかえ、ファレオは副将の名に恥じない圧倒的な強さを見せつけていた。目の前の相手を力任せに斬り倒し、敵の猛攻が途切れたことを確認してから、背中合わせに戦っているクレスに視線を投げる。
「……クレスレイドさま、ご無事ですか?」
「とりあえずはな。おまえは?」
「大丈夫です。……今のところは」
 苦笑の混じった声音で呟き、ファレオは重い体に琥珀色の目を向けた。
 全身のいたるところに散った傷と、そこから流れ出していく血液によって、ファレオの持つ戦闘能力は確実に失われつつあった。周囲に視線を走らせれば、ぐったりと倒れ伏したランドーラの兵に混じり、動かなくなってしまった味方の姿が視界に飛び込んでくる。残っている兵の数は百人にも満たないだろう。
 状況はこの上ないほど絶望的だったが、不思議とファレオの意識は穏やかに凪いでいた。
「……敵はあとどれくらい残っているんでしょうね。たぶん三分の一くらいには減ったと思うんですが」
「そうだな。こっちも人のことは言えねえが、中央棟を占拠した時にかなりの死傷者を出したはずだ。そろそろ向こうも自棄になってきたんじゃねえか?」
 淡々とこぼされたクレスの言葉通り、王城の中央棟はすでに敵の手に落ちていたが、だからといって無抵抗のまま北棟まで追いやられたわけではなかった。精兵と名高い兵士たちが死力を尽くして反撃し、ランドーラの陣営にもある程度以上の出血を強いている。レファレンディアの猛反撃に警戒心を煽られたのか、あるいはクレスの言うように自棄になりつつあるのか、ランドーラの兵士たちはいくつかの小部隊にわかれ、相手の防衛線をけずりながら無謀とも思える攻撃を繰り返していた。
「……どちらにせよ、あれこれと考えてる時間はありませんね」
 次の部隊が外側を守るレファレンディア兵と激突したのだろう、激しい剣戟の音と鬨の声が空気を震わせ、最奥に展開するファレオたちの全身に緊張を走らせた。
 残された兵たちが北棟の各所に散らばり、侵入してくるランドーラの兵士たちを迎え撃っているが、そのすべてを途中で食い止めるのは物理的に不可能だった。どこかで必ず一定数の敵を取りこぼし、主君であるクレスを危険にさらすことになってしまう。王城の半分以上を敵兵に占拠された状況で、それでもなお主君の安全を確保しようとしている自分に苦笑し、ファレオは決意を固めるようにクレスの瞳を仰ぎ見た。
 かすかに胸の奥が痛んだが、迷いを感じることだけはなかった。
「クレスレイドさま」
「何だ?」
「ここは私ひとりでも大丈夫です。あなたは兵士たちを連れて王城の奥に向かって下さい」
 あっさりと響いたファレオの言葉に、クレスはほんの一瞬だけ紅の瞳を丸くした。それを見やって小さく笑い、ファレオは畳みかけるように言葉を重ねる。
「ここにもじきに敵の兵が押し寄せてきます。それは私が食い止めますから、クレスレイドさまは奥で別の部隊に備えていて下さい。……あなたは王です。そして王は、他の何を犠牲にしても最後まで生き延びるのが仕事です」
「……」
「最後まで生きて……レファレンディアの国王としての責務をまっとうなさって下さい」
 私はそれを守ってみせます、と気負いなく続けたファレオの前で、クレスは血に汚れた面差しにかすかな痛みを閃かせた。
 本当は嫌だと答えたかったのだろう。この悲しくなるほど優しい王は、最後に願いを託して友を逃がしたように、叶うことならファレオを含むすべての兵士を生かしたいと思っているのだろう。
 だが、何かを堪えるように瞳をすがめた後、クレスは普段と変わらない表情で笑ってみせた。
 それが仕事だというように。
「――――わかった」
 違和感を覚えるほど軽い返事を受け、ファレオは焦げ茶色の髪を揺らしながら頭を下げた。ふっと小さく吐息をこぼし、安堵と申し訳なさのない交ぜになった苦笑を浮かべる。
「申し訳ありません」
「謝んなよ。しょうがねえから駄々をこねないでやるけど、無理してさっさと死ぬんじゃねえぞ」
「はい」
 さっさと死ぬんじゃねえぞ、という何気ない言葉の重さを噛み締め、ファレオは万感の思いを込めて返事を返した。
 兵士に殺戮と死を命じる軍の総大将は、たとえ自分の所業に激しい後悔の念を抱いても、それを己のもとで戦い続ける人間に悟らせてはならない。常に揺るぎない態度で前を見据え、兵士たちに希望を示すことができる人間でなくてはならない。総大将は命を預かる存在だからだ。あらゆる人間の人生を預かり、必要に応じて死地に向かわせ、自分のために死んでいく兵士を見つめながら、そのすべてに対して責任を負わなければならない唯一絶対の存在だからだ。
 そういった意味において、普段から王らしくないと言われる優しい青年は、やはり数百万人の命を預かる大国の支配者だった。
 淡い色合いの双眸をふわりと和ませ、ファレオはやや高い位置にあるクレスの瞳を誇らしげに見上げる。
「クレスレイドさま。私は」
「ん?」
「あなたのような王に仕えられたことを、心の底から誇らしく思います」
 柔らかい口調で紡がれたファレオの言葉に、クレスは虚をつかれた風情で瞳を瞬かせた。
 その唇が小さく言葉を作りかけたが、ふいをつくようにガチャガチャという金属音が鳴り響き、その場に降りていた静寂をあっという間に引き裂いた。我に返ったように表情を引き締め、クレスは微笑を浮かべたままのファレオに視線を据える。
 静かに掲げられた大剣の刀身に、燭台の投げかける暖かい光が音もなく反射した。
「……俺もだ」
 ややあってこぼされた呟きは、少しずつ近づいてくる喧騒にも紛れずはっきりと響いた。
「俺も、おまえみたいな臣下を得られたことを誇りに思う」
「もったいないお言葉です」
「さっきも言ったが、自分から死ぬような真似だけはすんなよ」
「はい。クレスレイドさまも、ご武運を」
 唇の端で小さな笑みを作り、ふたりの主従は手にした剣を触れ合わせた。キィン、という澄んだ音が響く中、周囲に展開していた兵士たちに合図を送り、クレスは黒衣のマントを翻して踵を返す。
 遠ざかっていく黒衣の背中を見やり、どこか満足げな表情で笑みを深くすると、ファレオは姿を現したランドーラの兵に向きなおった。アーシェ殿なら私と同じことをしただろうな、と無意識のうちに考え、そんな自分自身の思考に淡い苦笑を滲ませる。
 純金色の髪を持つ美貌の青年は、その神がかった力や優れた判断能力にも関わらず、どこまでも一軍の総大将という立場にふさわしくない存在だった。
 桁外れの身体能力を有するアーシェは、戦う力のない者とある者が居合わせた場合、力のある者が身をけずって弱者を守るべきだと思っている。ひとりの敵さえ殺すことのできない人間と、ひとりで百人の敵を屠ることのできる人間がいるなら、後者の方が武器を取って戦うべきだと当然のように信じている。
 それは間違いではなかった。
 人間に備わった戦闘能力が平等でない以上、戦う力を持つ者が持たない者の代わりに戦い、勝利を得るために剣を振るうのはしごく当然のことだった。
(……だからあなたは、いつもそうやって)
 痛ましげな口調で胸中に呟き、ファレオは飛びかかってきた最初の敵兵に剣を振り下ろした。刀身に付着した血と脂(あぶら)によって、刃そのものの鋭さはとうの昔に失われているが、だからといって殺傷能力が皆無になったわけではない。血まみれの剣を横向きに振るい、相手の首を力任せにへし折りながら、ファレオは戦場には似つかわしくない仕草で瞳を細めた。
(たったひとりで、戦い続けていたんですね)
 まるで呼吸をするように、それ以外の選択肢を知らないように、もっとも強大な敵を倒すべき相手と定め、ファレオたちを背にかばっていたアーシェの姿は、思い返すたびに胸が痛くなるほど凄絶だった。
 そうやって孤独に戦い続けるアーシェも、総大将として兵士たちを指揮するクレスも、広い視点から見れば多くの命を奪った殺人者に他ならない。それを一抹の悲しみと共に理解しながら、ファレオは唇の動きだけでそうだとしても、と呟く。
(そうだとしても、私は。……何があっても逃げないおふたりが、本当に本当に好きでした)
 戦争という行為の醜さを承知した上で、安全な場所から彼らを殺人者と罵る人間の代わりに、ぼろぼろになりながら手にした剣を振るい続ける、どうしようもないほど自分自身に厳しいふたりが好きだった。
 好きだったからこそ、彼らに対して胸を張れるような人間でありたかった。
「――――だから、私はっ!」
 せり上がってくる感情をぐっと押し込め、ファレオは体当たりをかけるように敵兵の首へと突きかかった。ずぶっという嫌な感触を確かめる間もなく、突き刺さったままの刀身を真横に振り、相手の首を半ば以上断ち切る形で別の兵士に斬りかかる。
 目の前の相手を力ずくで殴りなおし、そのまま背後の敵兵を相手取るべく振り向いた、まさにその次の瞬間だった。
「……っ」
 背中から腹にかけて衝撃が走り、ファレオは中途半端な体勢でたたらを踏んだ。うあっ、という短い悲鳴を上げたつもりだったが、実際は奇妙な呼吸音が漏れただけで声になっていない。
 背後を見返ったファレオの視界に、血まみれになりながら肩を上下させ、手にした槍を突き出している敵兵の姿が映った。脆くなっていた甲冑の継ぎ目を狙ったのだろう、槍の穂先はあっけないほど簡単にファレオの体をつらぬき、その神経に激しい痛みと熱を弾けさせていく。
 刺さっていた穂先がずるりと抜け落ち、それにあわせて体の両側から鮮血が噴き上がった。
「……っ、あ……」
 見開いた視界が真っ赤に染まり、床を踏みしめる足から力が抜けた。そのまま足元に崩れ落ちそうになる体を、石の継ぎ目に突き立てた剣で必死に支え、ファレオは槍をかまえたままの敵兵に琥珀の瞳を向ける。
 そこからは完全に無意識の行動だった。
 自身を鼓舞するように声を張り上げ、ファレオは血をこぼしながら相手の頭部に打ちかかった。そんな行動は予想外だったのだろう、敵兵はなすすべもなく剣の一撃をくらい、どろりとした血溜まりの中に倒れこむ。ひっ、という息を呑む音を聞きとがめ、最後の力を振り絞って背後を振り向くと、残っていた敵兵の顔面に剣の切っ先を突き出した。
 開いていた口の部分を切っ先につらぬかれ、兵士はひどく聞き苦しい悲鳴を上げながら背後に倒れる。
 ファレオの唇が笑みを作った。
(……クレスレイドさま)
 攻撃の勢いを殺すことができず、うつぶせの体勢で石作りの床にくずおれたが、その際に必要以上の痛みを感じることはなかった。やれやれと言わんばかりに嘆息し、かすみ始めた視界で周囲の状況を確認する。先ほど倒した相手が最後のひとりだったのか、あたりには物言わぬ屍が転がっているばかりで、ファレオ以外に意識を保っている人間はいないように見えた。
(アーシェ殿)
 すみません、と声にならない声でささやき、ファレオは何より優しい表情で笑みを作った。
 死ぬんじゃねえぞ、というクレスの言葉を思い出し、何とも表現しがたい申し訳なさを感じたが、胸のうちを満たしていくのは奇妙なほどの満足感だった。血と共に大切な何かが流れ出ていくのを感じても、徐々に近づいてくる死の存在を自覚しても、ファレオの内心に恐怖や狼狽の感情がよぎることはなかった。
 強ばっていた指先から力を抜き、どうやら私はここまでのようです、と脳裏に浮かんだ主君の姿に語りかける。
 そのまま鉛のように重い体を反転させ、天井付近に作られた採光窓に視線を向けた。空は完全な漆黒に塗りつぶされていたが、冴えた光を放ち続ける金色の月と、それを受けてちらちらと輝く粉雪を見やり、ファレオは理由のわからない安堵を感じて瞳を閉じる。
 私は、という小さな呟きが空気を揺らし、そのまま吸い込まれるようにして消えていった。
(……あなたたちおふたりに恥じない、立派な人間であれましたか?)
 その問いかけに返る答えはなかったが、瞼の裏に残る金のひかりが輝きを増し、まるでファレオを包み込むように瞬いた気がした。全身に残された力をかき集め、礼の代わりにもう一度だけ笑みを浮かべる。
 満たされた者の表情で。
 どうか、と。
(……悲しまないで、幸せに)
 胸中に呟いた言葉を最後に、ファレオの意識は深い闇の中に飲み込まれ、何の名残も残さずにふつりと途切れた。
 それでも、最後に見たひかりはただ、眩暈がするほど鮮やかだった。






    


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