愛しい言葉 2

 



 フォルストラ・ロウル・ランドーラは、落ち着きのない仕草で手にした杯をもてあそんでいた。
 硝子細工のそれを口元に寄せたところで、すでにほとんど中身が残っていないことに気づき、ひどく不愉快そうな表情でどっしりした頬の肉を震わせた。そのままかすかに太い眉をひそめ、精緻な細工のほどこされた杯をためらいなく放り投げる。
 パリンという硝子の割れる音も、明かりに映えて煌く細かな破片も、何もかもがフォルストラの不快感をかき立ててやまなかった。
 ランドーラの総兵力といっても差し支えのない軍に、裁定者を名乗る金髪の魔術師をつけたにも関わらず、レファレンディアからもたらされる報告は甚だ芳しくないものだった。芳しくないどころか最悪といっていい。
「飛竜のみならず、あの裁定者までもが倒されただと……?」
 蹴りつけるように豪奢な椅子から立ち上がり、フォルストラは苛立った表情で奥歯を噛み締めた。
 竜族の中で最下位に位置する飛竜はともかく、今もなお伝説の中で語り継がれる魔術師の王者が、ただの人間ごときと戦って敗北するはずがない。やはりあやつは騙(かた)りだったか、と憎々しげな口調で呟き、侍従を呼ぶために扉へと向きなおったとたん、室内に吹くはずのない風が夜着の裾を揺らした。
「ん?」
 肥満した体を億劫そうに反転させ、バタバタとはためくカーテンに眉を寄せたフォルストラは、それ以上言葉を発することも行動を起こすこともできなかった。
 窓の様子を確認する暇もなく、伸びてきた手のひらに口元を押さえられ、先ほど放り投げた杯の破片の上に押し倒されたからだ。硝子の欠片がわずかに軋んだが、それ以外の音は毛足の長い絨毯に吸い込まれ、深夜の静寂を乱す前に霧散して消える。
 フォルストラの瞳に映ったのは、背の半ばまで流れる金の髪に、鮮やかな青と緑に染まる二色の瞳の、この世のものとは思えない美貌を持った青年だった。
 ずたずたに裂けた戦装束に身を包み、血とも泥ともつかないものに肌を彩らせ、全身から濃い鉄の匂いを漂わせているというのに、青年のまとう雰囲気は身がすくむほど清冽で美しかった。フォルストラが年若い青年だった頃、ウォリア山脈のただ中で高位の竜と出会い、その深すぎる双眸に見据えられて動けなくなったことを思い出す。あの時は周囲に屈強の近衛兵が控えていたが、今は声を上げて侍従を呼ぶこともできず、フォルストラひとりでこの恐ろしい生き物と相対しなければならなかった。
 フォルストラの背を冷たい汗が濡らした。
 随一の国力を持つランドーラの王として、あるいは弱者に対する圧倒的な強者として、常に他人を見下しながら生きてきたフォルストラは、自分を押さえつけている細身の青年に信じがたいほどの恐怖を抱いた。いつも以上に重く感じられる体で懸命にもがき、口を押さえてくる腕をはらいのけようとするが、まるで鉄の器具で固定されてしまったようにぴくりとも動かない。
 首元にひやりとした何かを押しつけられ、その弱々しい抵抗すら完全に封じられてしまうと、フォルストラは必死な視線で何のつもりだ、と訴えた。青と緑という稀有な瞳がかすかに細まり、それだけで室内に満ちる空気がはっきりと冷たくなる。
「……レファレンディアに力を貸す者だ」
 やはり息を呑むほど綺麗に澄んだ、美しいと表現する気にもならない声音だった。忙しなく左右の瞳を瞬かせ、無言のまま内心の狼狽を伝えるフォルストラに、青年はどこまでも冷ややかな口調で言葉を続ける。
「わが友、レファレンディア・ウェル・クレスレイドとの約束だ。フォルストラ・ロウル・ランドーラの首、この場でもらい受ける」
「……っ」
「許せとは言わない。生命の神ランディアークのもとにいった後、好きなだけ私のことを憎めばいい」
 本気で憎まれてもかまわないと思っているのだろう、青年の表情はぞっとするほど無機質で、そこに人間らしい感情の揺らぎを見い出すことはできなかった。
 フォルストラは思いきり全身を強ばらせた。それは突きつけられた剣に対する恐れでも、告げられた言葉に対する動揺でもなく、人が高位の竜や神々に向かって抱く本能的な畏怖だった。
 これ以上拘束しておく必要はないと思ったのか、ほっそりした腕から力を抜き、青年は押さえていたフォルストラの口と顔を自由にした。針のように細い目を限界まで見開き、フォルストラは解放された口で大きく息を吸い込む。
「おまっ……おまえ、おまえは、一体……っ」
 がちがちに硬直した舌を必死に動かし、あえぎながらも問いかけの言葉を口にできたのは、彼がまがりなりにも大国を統べる支配者だったからだろう。稀有な美貌に不思議な表情をよぎらせ、何かをためらうように瞳を伏せると、青年はフォルストラを見下ろして静かに口を開いた。
「――――アーシェ・エリュスだ」
「あ……?」
「アーシェ・エリュス。二年前、大国ラウルヴァードとそれに従う小国四つを滅ぼし、デリスカリア建国に協力した魔術師だ」
 フォルストラの顔に驚愕の表情が広がった。ぎこちない動作で首を振り、何とかして相手の言葉を否定しようとするが、全身を縛る強い畏怖がそれを真実だと訴えてくる。脂汗をにじませるフォルストラの眼前で、アーシェ・エリュスと名乗った青年は美しい細工の剣を握りなおし、どこまでも優美な仕草でその柄を引いてみせた。
 白金の刀身が蝋燭の明かりを受け、豪奢な室内に眩しい輝きを刻みつける。
「まっ……待て、待ってくれ、待っ……」
「恨むなら」
 ひどく静かな声音でフォルストラの命乞いをさえぎり、青年は何とも言えない表情で色違いの瞳を細めた。それは紛れもない痛みと、決して覆らない決意と、名前のつけられない感情とが入り混じる、言葉では表しようのない複雑な表情だった。
「他の誰でもない、私ひとりを恨め。それはきっと、文句のつけようがないほど正統な恨みだ」
「ひっ……」
 追い詰められた獣のように喉を鳴らし、フォルストラは滑稽な動作で太い腕をばたつかせた。ふんわりした絨毯の毛を夢中でつかみ、仰向けに這ったまま青年から遠ざかろうとする。
 それがフォルストラに許された最後の行動だった。
 白金の光が容赦なく振るわれ、ずんぐりしたフォルストラの首を宙に跳ね飛ばした。あっという間に頭部を失った体が、まるで死を拒絶するようにびくりと震え、次いで生臭い鮮血を勢いよく噴き上げる。
 ややあってぐったりと弛緩したフォルストラの衣装に、赤く汚れてしまった長剣の刀身をなすりつけ、青年は絨毯の上に転がった頭部のもとへと足を進めた。ほんの一瞬だけ瞳を閉ざし、聞き取れないほどかすかな音量で祈りの言葉を呟く。静寂の中にこぼれ落ちたその音は、世界が霧散させてしまうのを惜しんだように凛と響き、血の匂いに支配された空気に柔らかく染み込んでいった。
「……いつかおまえが生まれ変わった時、まだ私のことを許せていなかったら、その時はいつでも復讐しにくるといい」
 決まりきった祈りの文句の後に、何より心情のこもった口調で言葉を続け、青年は落ちているフォルストラの首を拾い上げた。
 そのままあっさりした動作で踵を返し、窓に続いている露台に向かって足を踏み出す。開け放された窓から夜風が吹き込み、返り血に汚れた純金の髪を柔らかく揺らした。
 その髪が重力に従って落ちかかる寸前、青年の輪郭が溶けるように形を失い、月の輝く夜闇の中に吸い込まれた。色のない光が音もなく舞い上がり、砕け散った硝子の破片をきらきらと輝かせる。そこに付着した鮮やかすぎる赤と、絨毯の上に倒れ伏したフォルストラの体だけが、この部屋の中で行われた凶行を証立てるすべてだった。




 冬らしく乾いた感触の下草を踏みしめ、アーシェはなだらかな丘の頂上に降り立った。
 ごくわずかに首を動かし、間近にそびえ建った石作りの城壁と、それに守られたランドーラの王城を視界におさめる。随一の国力を持つランドーラの城だけあって、二重構造になっている城壁はこの上なく堅固だったが、その守りだけでアーシェの侵入をふせぐことは不可能だった。アーシェは裁定者と呼ばれる魔術師の王だからだ。理の神アーカリアから授けられた力を使い、周囲の空間そのものに働きかけるだけで、王城のお抱え魔術師に気づかれることなく、厳重な警備の敷かれたフォルストラの居室にまで侵入することができる。
 静かな眼差しで目の前の城壁を見つめ、何かを払い落とすように首を振った後、アーシェは右手にぶら下げたフォルストラの首に視線を落とした。感情の伺えない表情で息を吐き、血にまみれたそれを丈の短い草の上に下ろす。
 ぐるりとめぐらされた色違いの双眸に、深夜特有の静けさに沈み込むランドーラの街並みが映った。
 大がかりな戦の最中だからだろう、どの家もきっちりと鎧戸(よろいど)を閉め、息をひそめるようにしながら深い眠りについていた。ここから見渡せる家のどこかで、レファレンディアとの戦に駆り出された兵士の妻が、まだ幼い子どもと共にその無事な帰還を祈っているのかもしれない。アーシェの唇がかすかに動き、小さく謝罪の言葉を作りかけたが、そこで思いなおしたように表情を引き締め、両脇に下ろした手のひらで拳を作った。
 許しを請いたいわけではなかった。
 ランドーラの国王であるフォルストラの命を奪い、今も首都の街並みを見下ろせる丘の上にとどまっているのは、誰に憎まれようとも覆すつもりのない決意のためだった。
 きつく握り締めていた拳をほどき、空に向かって赤く染まった腕を差し伸べる。避難民たちを逃がすための戦いと、立て続けに使った転移の術によって、体の奥がひっきりなしに痛みを訴えていたが、その程度の警告に耳を傾けるつもりはなかった。ふくれ上がっていく力の方向性を思い描き、アーシェはためらいの見られない表情で息を吸い込む。
 次の瞬間、目に痛いほどの輝きをまき散らし、ランドーラの街に純白のひかりが降った。



 
 幾千もの 星屑をかぞえて
 遠い日に 流れ星を待っていた




 いくつもの星が尾を引いて降りそそぐ中、場違いなほど優しい歌声がこぼれ落ち、耳をつんざく轟音に混じって夜の空気を揺らした。
 それは何より美しい響きの声だったが、歌声そのものはところどころかすれ、無様なまでに上擦ってしまっていた。歌い手であるアーシェの技量が足りないためではなく、こめられた感情の大きさがなめらかな発音を邪魔しているためだろう。何かを請うように両手を差し上げ、召喚した流星によってランドーラの首都を破壊しながら、アーシェは爆風に挑むように澄んだ声を張り上げた。
 どこか滑稽なまでに真摯な歌声は、それでもなお胸が痛くなるほど綺麗で、この場にはふさわしくないほど柔らかかった。




 静かな夜に 眠れ 瞳を閉じて
 綺羅星の道は 今も 果てなく
 人はまた朝を迎えて めぐりあうだろう 何度でも




 穏やかに響いていく歌声に、ごほ、という嫌な音の咳が混じった。威力の高すぎる術に体が耐えられなかったのか、ただでさえぼろぼろだった全身に裂傷が走り、世界を染め上げる白光の中に鮮やかな赤を噴き上げる。
 地面を踏みしめる足から力が抜け、乾いた草の上に崩れ落ちそうになったが、わずかによろけただけでその場に踏みとどまり、アーシェは血の滲んだ唇をふわりとほころばせた。
(……最低だな、私は)
 片方の腕で痛みを訴える胸を押さえ、ふらつきながらも懸命に背筋を伸ばす。落ちた流星の爆発が風を生み出し、血と泥にまみれた純金の髪を大きく乱した。
(本当に、言い訳のしようもないほど最低な人間だ)




 時の海鳴りは 絶えることなく
 夜はまた生まれて ほほえむだろう 安らかに




 特別な力を持たない普通の人間は、たとえひとつの国に激しい憎悪を抱いたとしても、一晩にしてそのすべてを滅ぼし尽くすことなどできはしない。だがアーシェは、こうして破壊の力を持つ流星を呼び招き、ほんの一瞬で数百、数千の人間を消滅させることができる。その不条理としか言いようのない現実に、アーシェは自嘲のこもった表情で笑みを漏らした。
 数時間前に別れてきた親友は、いつかアーシェの持っているいいところに気づき、友達になりたいと願う人間が現れると言ったが、クレスのような人物がこの世界に何人も存在するとは思えなかった。レファレンディアがランドーラの一部になってしまうのは嫌だという、まるで頑是無(がんぜな)い子どものような感情のために、多くの人間が住まう国を滅びに追いやる存在など、周囲の人間から憎悪や忌避の目を向けられて当然だと思うからだ。




 山並みを越えて あの空の向こう
 澄みわたる風が いつか歌をうたうように
 楽園の楽士が またひとつ 弦を弾いた




(……でもおまえは、それをわかった上で私に幸せになれって言うんだろう?)
 白く照らし出された美貌がゆがみ、途切れずに続いていた歌声が頼りなく揺らいだ。
 降りそそぐ純白の流星によって、慌てたように家を飛び出してきた人々や、王城の警護を担当していた兵士たちが、まるでたちの悪い冗談のようにあっさりと消し去られていく。背筋が寒くなるほど異常な光景を見据え、アーシェはほんの一瞬だけ色違いの双眸を閉ざした。
(だけど私は、ちゃんと、誰よりも幸せだった)
 自分を罪人だと自覚しているアーシェにとって、クレスと共にレファレンディアで過ごした日々は、分不相応だと思えるほどに幸せで優しいものだった。
 一生分の幸せに値すると思えるほどに、クレスたちにもらった感情は鮮やかで綺麗だった。
(十分すぎるくらい、本当に幸せで仕方なかったから、私はそれでいいんだ)




 翔けすぎた日々に 眠れ 幸福を抱きしめて
 虹のかかる場所で まためぐりあうだろう 何度でも




 子どもに聞かせる子守唄のようにも、死者に手向ける鎮魂歌のようにも聞こえる歌に、なあ、という痛いほど切ない呼びかけがかぶさった。間近で巻き起こった爆風に紛れ、音として響く前にかき消されたその名前は、それでも確かに白く染められた世界を揺らし、ふいに吹き抜けた風によって遠くまで運ばれていく。
 血まみれの頬を撫でていった優しい風に、どこか幼い子どものような笑みを閃かせ、アーシェは力尽きたように下草の上へと膝をついた。ざっくりと裂けた手のひらで口元を覆い、苦しげな呼吸音と共に乾いた咳を漏らす。痛みが贖罪になるわけではないと知りながら、この傷がこれから先も永遠に癒えず、いつまでも自分の身をさいなみ続ければいいと思った。




 その夜。『中央の大国』ランドーラの首都グランダールは、何の前触れもなく降りそそいだ流星雨によって、短期間での再建が不可能なまでに破壊し尽くされた。それは天に坐(ざ)す神々の裁きとも、世界そのものの怒りとも言われる、あまりにも圧倒的で無慈悲な滅びの力だった。






    


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