愛しい言葉 3





 打ちかかってきた槍の穂先を弾き、クレスはがら空きになった敵兵の頭部を薙ぎ払った。ぐしゃり、という何とも表現しがたい音を立て、叩き潰された兵士の頭が血と脳漿(のうしょう)をまき散らす。ずり落ちそうになった柄を握りなおし、ふらつく体を意志の力で立てなおすと、クレスはさして広くもない室内に紅の瞳を走らせた。
 クレスの視線の先には、汗まみれの面差しに恐怖の表情を浮かべ、槍の柄をきつく握りしめているナジェールの姿があった。周囲を守っていた部下たちを失い、自身もその身に数え切れないほどの傷を負いながら、たったひとりで十数人の敵兵を打ち倒してみせたクレスに、武人としての如何(いかん)ともしがたい格の違いを思い知らされたのだろう。かすかな吐息と共に笑みをこぼし、クレスは感覚のなくなりつつある指先に力を込めた。
 燭台の明かりに照らされた部屋の中で、今も倒れることなく石作りの床を踏みしめているのは、双方の総大将であるクレスとナジェールのふたりだけだった。生き残っている兵士が火を放ったのか、遠くからパチパチという炎の爆ぜる音が響き、冷たいはずの大気を汗ばむほど熱いものに変えている。
 頬を伝う汗とも血ともつかないものをぬぐい、クレスは眼前のナジェールに向かって一歩足を踏み出した。
 全身のいたるところに走る傷と、そこから流れ出していく鮮血のせいで、動くたびにひどい寒気と眩暈がせり上がってくるが、だからといって目の前の相手を逃がすわけにはいかなかった。総大将であるナジェールを潰しておかなければ、分断されているランドーラの軍が指揮系統を回復し、レファレンディアの王城を占拠することに成功するかもしれないからだ。
 それだけはさせねえ、という気迫のこもったクレスの視線に、ナジェールは気圧された風情で唾を飲み込んだ。しょせんは追い詰められた鼠にすぎないと侮り、数に物を言わせて押しつぶしてしまおうとしていた相手が、実際は鋭い爪と牙を持つ獅子であったことに思い至ったのだろう。助けを求めるように首をめぐらせ、倒れている兵士たちの間に視線をさまよわせたが、ややあって小刻みに震える唇を引き結び、ナジェールは立派な拵(こしら)えの槍をかまえなおした。おぉっ、という気合いのこもった声を上げ、剣をかまえたまま眼前のクレスへと突きかかる。
 破れかぶれとしかいいようのない突撃に、クレスは小さく唇の端を持ち上げた。
 首をねらった一撃をはらいのけ、体勢を崩したところに大剣の切っ先を一閃させる。相手の隙をついた無駄のない動きだったが、ナジェールはすんでのところで上体を開き、振り抜かれた銀の刀身に空を切らせた。
 クレスは小さく片眉を持ち上げた。ただのお飾りじゃないってことか、と口の中で呟き、間髪いれずに襲いかかってきた槍の穂先を受け止める。名の上に獅子王という尊称を冠し、その勇猛さを讃えられるクレスにとって、名門貴族の若君でしかないナジェールなど物の数ではなかった。傷口から血がこぼれていくのを自覚しつつ、わずかにも鈍らない身のこなしで穂先を流し、無防備になった相手の懐に飛び込むべく足を踏み出す。
 その時だった。
 軸足に予想していなかった衝撃が走り、クレスは勢いを殺しきれずにたたらを踏んだ。上半身をばっさりと斬り下ろされ、足元の床に倒れ伏していたランドーラの兵が、最後の力を振り絞ってクレスの足に飛びついたのだ。
「……ナジェールさまっ!!」
 必死な声音で紡がれた兵士の叫びに、ナジェールは我に返った風情で両目を見開いた。その瞳がかすかに細められ、ゆがんだ満足感と喜びに満ちた笑みを形作る。
 クレスは小さく舌打ちした。絡みついてくる兵士の腕を振りはらい、片足の自由を取り戻したところで、致命的な距離にまでせまった槍の穂先に気づく。ほとんど反射的に剣を突き出し、その先端を斜め上へと弾き返したが、それと引き換えにどうしようもないほど体勢を崩してしまった。
 ナジェールはその隙を逃さなかった。弾かれた槍の手のひらの中で一転させ、滑稽なほど引きつった笑みと共にそれを振りかぶる。その場に踏みとどまることができず、数歩分背後に下がることで転倒を免れたクレスに、その攻撃を避ける術は残されていなかった。
 だが、次に響いたのは肉の裂ける音ではなく、窓に貼られた硝子の砕け散る澄んだ音だった。
 ナジェールが悲痛な表情で絶叫した。石作りの王城を飲み込もうとしていた炎が、不自然としか言いようのない勢いで窓硝子を破り、槍を振り下ろそうとしていた彼に襲いかかったからだ。むき出しだった頬を炎の舌に舐められ、ナジェールは背後によろめきながら両手で顔を覆う。それでも槍を手放さなかったのはさすがといえるだろう。
 何の前触れもなく飛び込んできた金の炎に、クレスは剣をかまえなおすことも忘れて瞳を見開いた。
 すさまじい勢いで窓硝子を破った炎は、武器を振りかぶったナジェールに降りかかっただけで、近くに立っていたクレスには火傷ひとつ負わせなかった。金色の火の粉がひらひらと舞い、クレスの周囲に場違いなほど綺麗な光を散らす。
 まるでクレスを、他の誰でもないクレスだけを、その輝きで守ろうとしているように。
 クレスは知らない。魔術師の王に膝を折られ、その名を捧げられた人間の王に、世界がほんの少しだけ力を貸したのだということを。友の残していった美しい名前は、ただそれだけで強力な護符を同じ効果を持つ、神々によって授けられた加護の一端なのだということを。
 理の神に愛された魔術師にとって、他者に自分の名前を譲りわたすという行為は、命そのものを預けるのにも等しい信頼の証なのだということを。
 クレスは知らない。ただ、直感とすら呼べない意識の根源的な部分で、アーシェが力を貸してくれたのだと当然のように思い、血に塗れた口元に晴れやかな笑みを閃かせた。そのまま炎を物ともせずに足を踏み出し、渾身の力を込めて手にした大剣を前方に突き出す。がむしゃらに振るわれた槍の穂先が、自分の脇腹を深く抉っていくのにも構わず、さらに一歩踏み出してナジェールの喉に切っ先を突き立てた。
 弾けるような音を立てて鮮血が噴き出し、クレスの黒衣を不吉な赤に染め上げていく。
「がっ……あ……」
 うめき声とも悲鳴ともつかない声を上げ、ナジェールは二、三歩後退してから床の上に倒れこんだ。脈拍や呼吸の有無を確かめる余裕はなかったが、血溜まりに伏した体がぴくりとも動かなくなったのを見て取り、クレスは短く安堵の息を吐く。
 そこまでが限界だった。
 床に突き立てた剣にすがったまま、背後の壁に向かってふらりとよろけ、その表面に血の跡を残しながら足元に崩れ落ちた。つっ、という短い苦痛の声を漏らし、背中に当たる冷たい壁へと体重を預ける。
 ぐるりとめぐらせた紅の瞳に、とぼしい調度品に燃え移っていく炎と、その合間に倒れている兵士たちの躯が映った。聞こえてくるのは火の粉の弾ける音ばかりで、新たな敵部隊がこの北棟へと侵入してくる気配はない。クレスは再び安堵の表情で息を吐いた。
 燃えさかる炎がその腕を伸ばし、唯一の出入り口である扉を飲み込むのが見えたが、不思議と慌てて飛び起きようという気持ちは湧いてこなかった。飛び起きるだけの力が残されていなかった、といった方が正しいかもしれない。血と共に生きるための力が流れ出していくのを感じ、クレスは何とも言いがたい表情で苦笑を浮かべた。
 少し前に別れたファレオも、北棟のいたるところに散った兵士たちも、主君であるクレスを守るために命を懸けて戦ったのだろう。そう思うと胸の奥が痛んだが、どう足掻いてもこれ以上動くことはできそうになかった。
 しょうがねえな、という呆れの混じった呟きを漏らし、炎に照らし出された血まみれの顔を仰向ける。
 それがクレスの意識を揺さぶったのは、全身に満ちていく気だるさに負けて瞼を閉じる寸前だった。
「…………アーシェ?」
 クレスは小さく瞳を瞬かせた。この半年間で何よりも聞きなれた、けれどもう聞くことはできないはずだった声が、ひどく懐かしい調子の歌を綴っているのに気づいたからだ。
 まるで叩きつけるように、幼い子どもが泣き叫ぶように、どこか上擦った響きでクレスの意識に触れたのは、ここではないどこかから聞こえてくる歌声だった。あふれ出しそうな激情にはばまれているのだろう、どんな歌い手であろうと敵わない技量の持ち主のはずなのに、響いてくる歌声そのものはこちらが心配になるほどかすれてしまっている。
 それでもなお、静寂を揺らしていく歌声は他のどんな音より綺麗だった。
 澄んだ旋律を追いかけるように瞼を伏せ、クレスは痛みと慈しみの入り混じった表情で目元をゆるめる。
「なんで……」
 泣いてるんだ、と続けたはずの言葉は、吐息の中に紛れてしまって声にならなかった。薄く開いた瞳をやんわりと細め、クレスは割れた窓硝子の向こうに視線を投げる。
 泣かないでほしかった。いつも痛みを堪えるように笑うアーシェが、ふとした瞬間に見せる微笑が本当に綺麗で、それを目にするたびにひどく幸せな気持ちになれたから。それを見たいがためにちょっかいを出し、おどけ、馬鹿なことをするクレスに、いちいち文句を言いながらも呆れたように苦笑する、普段からは想像もできないほど優しい表情が好きだったから。
 クレスがいなくなった後も変わらず、明るい光の中で笑い続けていてほしかった。
(……こんなこと言ったら、全部おまえのせいだ、って怒られちまいそうだけどな)
 怒っていても綺麗な顔立ちを思い出し、クレスは唇の動きだけでそっと微笑した。なぜ遠くにいるアーシェの歌が聞こえるのか、という当たり前な疑問を持つことはない。アーシェは世界に愛された存在だからだ。存在の根源そのものが、魂の核とでもいうべきところが、世界と神のひたむきな愛によって作られている人間だからだ。
 レファレンディア・ウェル・クレスレイドにとって、世界を照らす眩しいひかりに他ならない存在だったからだ。
(……なあ、だから)
 かすみがかっていく視界を懸命に凝らし、ちらちらと踊る粉雪を見つめながら、クレスは変わらない表情で紅の瞳をなごませた。
(そんな風に泣くなよ。――――おまえはずっと、馬鹿馬鹿しいくらいに幸せでいろよ、アーシェ)
 室内に戻された視界の端で、金の炎がゆったりした動作で舌を伸ばし、周囲に倒れ伏している兵士たちの体を飲み込んでいった。静かに這い寄ってくるそれを見据え、クレスは残された力をかき集めるようにして息を吸い込む。
 伝えたい言葉があった。
 日常の一部になってしまうほど当然すぎて、形にする必要を感じないほど自然すぎて、伝え忘れてしまった言葉があった。
 最後にそれを伝えたかった。アーシェの歌声がクレスのもとまで届いたように、クレスの言葉もアーシェのもとまで届けばいい。
 頬を撫でていく風の存在を感じながら、まるで真摯な祈りのようにそれだけを思った。
「――――……ありがとうな」
 大好きだ、とは何度も告げた。忘れるな、とも念を押した。じゃあな、とも最後に伝えた。
 だから今は、出会えたことに、隣にいてくれたことに、笑ってくれたことに、戦ってくれたことに、その存在すべてに、ありったけの感謝を捧げたかった。
 吐息と共にこぼされた言葉は、きちんとした音として響くぎりぎりのものだったけれど。
 確かに言葉として発せられたことに安堵して、クレスはどこか満足げに瞳を閉ざした。
 意識が闇に飲まれる瞬間、泣き笑いのような表情を浮かべ、この馬鹿、と小さな声で呟くアーシェの姿が、眩いひかりの中に見えた気がした。




 後に『レスファニアの決戦』と呼ばれることになる戦いは、ランドーラとレファレンディアの総力戦であったにも関わらず、その日の夜明けを待たずに奇妙な形で終結した。
 大軍同士が戦火を交える場合、双方の兵士が最後のひとりになるまで戦うことなどありえない。どれだけ愚かな指揮官であっても、自軍の敗北が決定的になった段階で、生き残るために降伏や撤退といった手段を選択するからだ。
 だが、レファレンディア軍の激しい抵抗にあい、いくつもの小部隊に分断されたランドーラ軍は、すでに泥沼と化している戦闘を継続した挙句、軍としての機能を維持できないほどの損害を出すことになった。攻城戦の最中に総大将のナジェールを失い、ランドーラ軍の指揮系統そのものが混乱したせいもあるだろう。
 そこに追い討ちをかけたのは、ランドーラの首都グランダールを壊滅させた流星雨だった。
 完全な空白地帯と化したグランダールに、『硝子の王国』レフュロスが軍を差し向けたことによって、栄華を誇った『中央の大国』ランドーラは大陸レーヴァテインから消滅した。レフュロスの王であるウォルフレードが、レファレンディアの友好国という立場を最大限に利用し、相撃ち状態になったふたつの大国を自国の支配下に組み込んだのだ。優しすぎるほど優しいと評されるウォルフレードだが、大国のひとつに名を連ねるレフュロスの支配者だけあって、こと政治的な面に関してはわずかな甘さも逡巡(しゅんじゅん)も見せなかった。あるいはそれこそがクレスの望みであると知っていたのかもしれない。
 大陸に名だたる三大国のひとつであり、今回の戦いでランドーラと手を結んだはずの『鉄鋼王国』ヴァングレインは、なぜか事態が収束するまでろくに動こうとはしなかった。ヴァングレインの国王であるダイアンのもとに、蝋漬けにされたフォルストラの首級が送りつけられ、もともと小胆な人間であった彼の肝をつぶしたのだと言われているが、それが真実であるか否かは明らかになっていない。
 周辺の国に住まう人々に理解できたのは、レファレンディアとランドーラが滅亡したということと、その国土がそのまま『硝子の王国』レフュロスの支配下に置かれたということだけだった。
 ただひとつ、レファレンディアの首都であったレスファニアの街を除いて。
 何者かによって占領されたわけでも、立ち入りが禁止されたわけでもないのに、レフュロスの兵士たちはそこに足を踏み入れることができなかった。目には見えない境界線に踏み込んだとたん、やんわりした膜のようなものに受け止められ、気づかないうちにもといた場所へ戻されてしまうからだ。人の気配が途絶えたレスファニアは、不可思議な力によって外界から隔絶され、違和感を覚えるほど柔らかい静謐の中に沈んでいた。
 そのちょうど中心部分にそびえたつ、煤(すす)によって黒く汚れてしまった王城の中を、アーシェは遅くも速くもない一定の速度で歩いていた。
 あの決戦からすでに三日が経過していたが、夜明けと同時にレスファニアそのものが封鎖されてしまったため、城内にこもる戦の余熱はまったくと言っていいほど冷めていなかった。ほんの少し前まで炎が暴れ回っていたのだろう、美しかったはずの調度品が無残に焼け落ち、場所によってはぶすぶすとくすぶった音を立てている。
 迷いのない足取りで歩を進めていたアーシェは、ほとんど原型をとどめていない扉の残骸をくぐり抜け、北棟の一角にある石作りの部屋に足を踏み入れた。
 さして広くもない一室だったが、壁いっぱいに作られた窓硝子が完膚なきまでに砕け散り、室内を吹きさらしに近い状態に変えていた。いびつにひしゃげた甲冑の断片や、半ばからへし折れた長槍の破片が、ここで行われた戦闘の激しさを無言のうちに物語っている。
 だが、どれだけ目を凝らしてみても、室内の隅々にまで視線を走らせてみても、そこに存在した人間の痕跡を見い出すことはできなかった。恐らく、裁定者に愛された人間たちが空に帰れるように、あるいはこの場所に戻ってきたアーシェが悲しまないように、世界が炎の助けを借りて彼らを連れていってしまったのだろう。骨さえ焼き尽くした炎の名残を見つめ、表情を変えないまま色違いの瞳をすがめると、アーシェは窓に対して直角になっている黒ずんだ壁に歩み寄った。
 カツン、カツン、という硬質な足音が途切れ、人気のない室内に穏やかな静寂が舞い降りてくる。
 アーシェの瞳に映り込んだのは、やや斜めに傾いた形で床の上に突き立つ、何より見慣れた作りの無骨な大剣だった。
 稀有な美貌をかすかに揺らし、アーシェは静かな動作で大剣の前に跪いた。まるでしゃがんでいる人間に視線を合わせるような、ただの物体に対するものではありえないような、愛しさと思いやりの混在した動作で背をかがめる。そのまま目の高さにある柄頭に視線を据え、煤と血によって汚れてしまったそれに手を伸ばした。
「――――クレス」
 ぽつんとこぼれ落ちた呼びかけは、窓から吹き込んでくる冷たい風にさらわれ、しっかりと響く前にほどけて消えた。
 アーシェはふっと短く息を吐き出し、何とか微笑と呼べるだけのぎこちない表情を作る。
「クレス」
 ざらりとした感触の柄に指をすべらせ、何かを確かめるようにその輪郭をなぞりながら、アーシェはもう一度だけ友の名前を呼んだ。そこで詰まってしまった喉を叱咤し、どうしようもなく震える唇から小さな言葉を押し出す。
「……遅くなって、悪かったな」
 これでもできる限り急いだんだ、と軽い調子で言葉を継ぎ、アーシェは大剣の柄に触れる指先に力を込めた。
 こびりついていた血がぱらぱらと剥がれ、そこに触れている白い指を黒く汚す。
「おまえと約束したとおり、フォルストラの首はちゃんと私がとってきた。ヴァングレインの王を脅かすのに使ったから、ここまで持って帰ってくるのは無理だったけどな。……おまえはやり過ぎだって怒るかもしれないが、ついでにランドーラの首都も叩きつぶしてきたから」
 そう言ってかすかに苦笑し、ああ、と純金色の髪を揺らして首を傾げた。
「それから、避難民たちは『硝子の王国』レフュロスの兵に保護してもらった。前にジタニスの酒場で会ったあのふたり……ティアラザード・フォーラムとジェス・クラウドが、おまえに対する好意で秘密裏に兵を出してくれたらしい。後のことはたぶん、レフュロスのウォルフレード王がどうにかしてくれるだろう」
 ひとつひとつ丁寧に言葉をつなげ、アーシェは何とも言えない表情で浮かべた苦笑を深くした。
「とりあえず、おまえたちは何も心配しないで大丈夫だ。ここにはもう誰も来ないから、ファレオたちと一緒にゆっくり休めばいい。……ああ、この街を魔術で封鎖したのは私だが、それについては怒るなよ? 私が生きている間限定のわがままで、それ以降はちゃんと元に戻すつもりだから」
 これくらいなら別にいいだろう、と優しい口調で呟き、大剣の刀身に指先を下ろしたところで、アーシェはふいに口をつぐんだ。
 割れた窓からひんやりした風が吹き込み、結われていない純金色の髪を宙に巻き上げていく。聞こえてくるのは風の音ばかりで、アーシェの言葉に笑い混じりの答えが返されることはない。
 その事実が悲しかった。
 これ以上笑みを保つことができなくなるほど、ごく普通の口調で言葉を続けることができなくなるほど、周囲に満ちる静寂が痛くてたまらなかった。
 前に据えていた視線をわずかにうつむけ、アーシェは音がするほど強く奥歯を噛み締めた。本当は明るい笑顔を浮かべたまま、最後まで戦い続けた彼らを労ってやりたかったのに。圧倒的に不利としかいえない状況で、それでもランドーラの兵と相撃ちにまで持ち込んだ彼らを、知りうる限りの言葉を使って褒めてやりたかったのに。
 どうしてもできなかった。
 血が滲むほどきつく唇を噛み、アーシェは触れていた大剣に両腕を回した。柄の部分に秀でた額を押しつけ、どこかすがるような動作で力いっぱい抱きしめる。刃の部分を握った手のひらに裂傷が走り、流れ出した血が幾筋もの赤い線を作ったが、それでも両手に込めた力をゆるめようとはしなかった。
 繊細な美貌がくしゃりとゆがみ、喉に引っかかった呼吸音が嗚咽に似た音を出す。
 この馬鹿、と。
「――――返事、くらい……っ」
 したらどうなんだ、という叩きつけるような叫び声は、今まで押さえつけてきたアーシェの中の本音だった。落ちかかってくる髪をはらいのけようともせず、子どものような仕草で抱きしめた大剣の柄に頬を寄せる。刀身を伝った血が床の上にこぼれ、煤けた表面にゆがんだ模様を描き出した。
「おまえが、そうやって、最後まで自分勝手だからっ……」
 流星によってランドーラの首都を滅ぼし、ヴァングレインの王にフォルストラの首を送りつけたのは、他でもないアーシェ自身の子どもじみた感情のためだった。その事実を否定するつもりはないし、他の誰かに責任をなすりつけるつもりもない。
 だが、アーシェが望んだのは『中央の大国』ランドーラの滅亡でも、『鉄鋼王国』ヴァングレインの王に対する牽制でもなかった。
「私は……っ、本当は、もっと」
 彼らと一緒に過ごしていたかった。下らない話題で笑い合い、馬鹿なことをするクレスに呆れてみせ、時には口の代わりに手を出したりしながら、この優しい王国で友と一緒に生きていきたかった。
 クレスに、ファレオに、レファレンディアの兵士たちに、生きていてほしかった。
 アーシェが望んだのはそれだけだったのに。
「ずっと、おまえたちと、一緒にいたかっ……」
 言葉と同時に視界が揺らぎ、堪え切れなかった熱い雫が頬を伝い落ちた。涙がこぼれたことに自分でも驚いたが、あふれていくそれを意思の力で止めることはできそうにない。
 それが答えだった。
 孤独に生きてきたアーシェにとって、たった半年でしかない時間がどれほど大切なものだったか、彼らと過ごした日々がどれほど愛しいものだったか、それを言葉よりはっきりと証明する答えだった。
 そんなアーシェの頬を撫でるように、穏やかな風が吹きさらしになった室内を通り抜けていった。どこか慌てているようにも、苦笑しているようにも、慰めているようにも感じられる、不思議な懐かしさをふくんだ優しい風だった。
 ごめんな、というように。
 泣くなよ、というように。
 つめていた息を細く吐き出し、アーシェは涙に濡れた瞼をぎゅっと閉ざした。浅い呼吸を何度も繰り返した後、噛み締めていた唇をほんのわずかにほころばせる。
「…………そんな風に、謝るくらいなら」
 最初からするな、と棘のある語調で呟き、アーシェは薄く開いた瞳で大剣を睨みつけた。
 当然のこととして、その大剣が太陽を思わせる表情で笑い、頭をかきながらそりゃ悪かった、と謝罪することはない。降りかかってくる沈黙が胸に痛かったが、白い頬を伝う幾筋もの涙はそのままに、アーシェはなじるような口調で言葉を重ねた。
「だからおまえは馬鹿だっていうんだ。……人に自分勝手な願いを押しつけて、レファレンディアから追い出して、自分はこうやって最後まで戦って」
 やまずに吹いている風の流れを感じながら、濡れて輝く青と緑の瞳を悲しげに細める。
「おまえはもう、私が文句を言ってやりたくても、殴ってやりたくても、どこにもいないくせに……」
 もう彼らはどこにもいない。どれだけ望んでも会うことは叶わない。それなのに胸に残された感情だけが鮮やかで、アーシェは再び怒りをぶつけるように両目を閉ざした。
「おまえなんか……――――」
 顎からしたたった涙が大剣の上に落ち、赤とも黒ともつかない雫になってすべっていく。
「――――……大好きだ」
 おまえみたいな馬鹿は大好きだ、と。
 斬り捨てるようにそっけない口調で、馬鹿だと罵るように愛想のない表情で、アーシェは胸がつまるほど優しい言葉を口の端に乗せた。血まみれになった手のひらをゆるめ、赤く染まった抜き身の刃を撫でながら、全身の力を使って何より綺麗な笑みを浮かべる。
 感謝も非難も歓喜も痛みも、すべてふくんだ透きとおる笑顔で。
 届けばいいと願いながら。
「私は、おまえたちが」
 風にまぎれてしまうほどかすかな声で、永遠を誓うようにささやいた。
「ずっと、いつまでも、大好きだよ。――――クレス」






    


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