夢と真実の境目などありはしない。
 現実を感じるこの心こそが、実は夢の範疇におさまった概念ではないと、断言できるだけの根拠を我らは持たないから。
 ただ、それでも愚かなまでに信じている。
 たった一つの明けの星が叶えた、この願いだけは真実であったと。




 

曙光の星に願いを寄せて






 夜明けと共に始まった戦いは、今だ収束する予兆すら見せず、爽やかなはずの大気を戦の熱に染め上げていた。
「……レシェリクトさまっ!」
「皇王(こうおう)陛下!!」
 悲鳴のような声を遠くに聞きながら、レシェリクトは突き出した剣で振り下ろされた刃を受け止め、ねじ込むように騎馬ごと相手の正面へ滑り込んだ。踏みしめた山道は足場が悪く、茂った木々の葉で視界も利かなかったが、その動きはわずかにも鈍ることはない。輝くような白と銀で統一された装いとも相まって、レシェリクトの動作は翔けていく閃光のようだった。
「陛下っ……」
 馬上で肩に矢を受けた騎士が、突如として眼前に乱入してきた主君に愕然と目を見張った。敵から庇われたのだ、ということを鈍る思考の中で認識し、痛みを忘れてとっさにレシェリクトの前へ出ようとする。だが、レシェリクトはその動きを許さず、敵の刃を弾くと同時にほっそりとした足を伸ばし、負傷した騎士の馬の腹を蹴ってその場から遠ざけた。
「……陛下、何を……っ!!」
「いいから逃げろ、死にたいのか!」
 反射的に走り出した愛馬を何とか御して、主君を守るために馬首を返しかけた騎士は、喧騒を裂いて凛と響いた声に息を呑んだ。
「行け、私の臣下なら死に急ぐな!」
「……っ、陛下っ……!」
 騎士はそれ以上言葉を続けることができず、血の流れ続ける肩を抑えながら細い後姿を仰ぎ見た。
 レシェリクト・フィル・デュロス。それは皇国デュロスの若き国王であり、今だ若年といっても差し支えない年齢にも関わらず、その識見と卓越した武勇を讃えて『神王』と呼ばれる少年王の名だった。
 悔しげに唇を噛み、それでも素直に後退して行く部下を視界に端に収めると、レシェリクトはその退路を守るために強く馬腹を蹴った。混戦状態になった山道は足場が悪く、岩石を多分に含んだ大地はわずかな衝撃でも崩れてしまう。だがあえてそこを戦場とし、有利な高地に布陣したデュロスの陣営は、数の不利を補って余りある奮迅ぶりを見せていた。
 誘うように剣を引きながら、細い山道に沿って馬を走らせ始めたレシェリクトに、対峙していたアルスランドの騎士は色めきたった。
「――――皇国デュロスの現王位継承者、レシェリクト・フィル・デュロス神王とお見受けする!」
「いかにも」
「我が名はアルスランド同盟領のカーナルド・ヴィケル。一戦お相手つかまつるっ!!」
 並走して馬を駆ってきた騎士に、レシェリクトは鋭い表情を閃かせた。
 間髪いれずに走った大剣を剣の腹で弾き、馬上に身を沈めて重い一撃を避ける。カーナルド、と名乗った騎士はアルスランドでも名のある将なのだろう、その剣さばきは決して侮れるものではなかった。そのまま数度剣を合わせ、レシェリクトは冷静に相手の実力を判断した。
 だがそれも、大陸中で最も貴く、力ある血を受け継いだレシェリクトにとっては児戯に等しいものだった。
 あと数歩ずれれば崖下に転落する、という際どい位置で馬を返し、振り向き様に甲冑の継ぎ目に向かって切っ先を突き出す。狙いは外れず、正確に頚部を貫かれた騎士は目を剥いて体勢を崩した。低い呻き声と共に鮮血が吹き上がり、武装に包まれた少年の腕を生温かく濡らしていく。
 むせ返るような鉄の匂いに瞳を細め、レシェリクトが剣を手元に引き戻そうとした、まさにその瞬間のことだった。
「……っ!?」
 崖下に向かって大きく体を傾がせながら、カーナルドは最期の力を振り絞ったようにレシェリクトへと圧しかかってきた。本来ならば苦もなく避けられただろうが、相手の体に剣を抱きこまれたような体勢であったため、レシェリクトの反応は一瞬だけ遅れてしまった。馬が高くいななき、二つの影がもんどりうって道を外れる。その中でも何とか剣を引き戻して、圧しかかるカーナルドの甲冑を押しのけたのが、少年王に出来た行動の限界だった。
「――――レシェリクトさま……っ!」
「陛下っ!!」
「陛下ぁっ!」
 重なり合ういくつもの叫びを後に、レシェリクトの体は馬ごと宙に投げ出され、目も眩むような断崖の下へと転落していった。



 曙光の空にただ一つ、明けの星が瞬いた。



 ガラッ、という小さな音を立てて、薄汚れた壁からコンクリートの破片が崩れ落ちた。
「――――くそっ、よりによって反対方向に逃げちまうとは、な」
 元の高さの半分にも満たない、廃墟となった建物の壁に手をついて、天城拓馬(テンジョウタクマ)は憎々しげに吐き捨てた。身にまとった黒の戦闘服はところどころ擦り切れ、そこに仕込んだ弾薬の数も心もとなくなってきている。今回の任務は偵察だけの予定だったからこそ、動きを妨げるような重武装は避けてきたのだが、今となっては過去の自分の浅慮を罵り倒したくてたまらなかった。
 敵である連邦側の基地で待ち伏せに合い、飛び交う銃弾の中で仲間たちとはぐれてしまった。雨のような銃弾の嵐を何とかくぐり抜け、壁の残骸に背を預けて息をついたと思ったら、そこは出口とは反対方向の場所だったのである。片手で壁にすがったまま、拓馬は自分のあまりの運のなさに深々と溜息をついた。
「さて、どうするかな」
 畜生め、と小さく呟いて、拓馬は肩にかついだライフルを持ち直した。弾奏にはまだ十分な弾が入っており、懐にいくつかの手榴弾が残っているのがせめても慰めだった。ライフルを固く握り締めると、拓馬はもう一度風に背を預け、コンクリートに切り取られた夜明けの空を仰いだ。
 ゆるりと吹いていく冷ややかな風に、清浄な白い光が揺れている。
 それは、強い朝日にも掻き消されずに輝く、空に一つだけ残った眩い星明りだった。明けの明星、と呼ばれる美しい星を見つめて、拓馬は強く願う。
「死ぬわけには、いかない」
 自分の思いを確認するように声にして、明けの空にぽつりと残る、孤独で綺麗な星へと願った。
「まだ死ぬわけには、いかないんだ」
 欺瞞と死に満ち、救いがたく荒廃し切ってしまったこの世界で、星に願うなど夢物語でしかないのかもしれない。拓馬はそう思って自嘲気味に笑ったが、強く白い星を見上げることをやめようとはしなかった。
「……どうか」
 ゆっくりと瞳を伏せて、ただ強く強く、願った。
 夢物語でもかまわないから、と。
 曙光の星を仰いで、願いをかけた。






  



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