異界の王と夢の始まり 2





 真冬の夜空を思わせる透明な瞳が、何よりも真摯な光を湛えて拓馬を見上げていた。
 そこには拓馬に対するからかいも、正気を失った者の危うさもなく、ただ聡明さを感じさせる輝きだけがあった。たっぷり数秒間沈黙した後、拓馬は呻くような声を漏らしてこめかみを押さえた。
「……わかった、ちょっと待て。いいか、待てよ? とりあえず、落ち着け? ……で、何だって?」
「だから、ここはどこなのか教えて欲しい。わけあって崖から落ちてしまって、その後の記憶が曖昧なんだ。もしかしたら、河に落ちてそのまま流されたのかもしれないが……」
 見覚えのない場所なんだ、と困惑した表情のままで呟き、少年は漆黒の髪を揺らして首を傾けた。やはり話し方も明晰で、口調も違和感を感じるほどに大人びたものだが、徹底的に言っている内容が理解できない。拓馬はきつく眉を寄せると、白装束に身を包んだ華奢な少年を見下ろした。
 西洋人形のように整った容貌に、柔らかな光沢を放つ漆黒の髪と瞳。東洋人というには肌の色が白すぎるが、西洋人というには漆黒の色彩がそぐわないように見える。美しいというより、その少年がまとう空気は純粋で綺麗だった。
 思わず透きとおった黒玉の瞳に見入っていると、少年はふっと長い睫毛を伏せて物憂げな表情を作ってみせた。
「あなたはアルスランド同盟領の者ではないのだろう? だったら私はあなたの敵ではない。無理かもしれないが、できれば警戒しないでもらえないだろうか?」
「……は?」
「ここがどこだか教えてもらえれば、あなたには迷惑をかけず、ここから去ると約束する。だから……」
「いや、待て待て、ちょっと待て」
 拓馬は片手を挙げて少年の言葉を遮ると、真剣な光を湛える漆黒の瞳を見下ろした。意志の疎通がまったくできていないことに気づいたのだ。拓馬が困惑しているのは警戒ゆえだ、と勘違いしたらしい少年に、どうしてそうなるんだと頭を抱えたくなる。
「あのな……」
 とりあえず誤解を解こうと口を開きかけ、拓馬はそこでふいに言葉を切った。
 同時に少年も眼光を鋭くし、白銀のマントを翻して背後を振り返った。一拍置いてから威嚇のための銃声が響いて、基地の影からばらばらと黒い人影が飛び出してくる。確認するまでもなく、拓馬たちに気づいた連邦軍の兵士たちだった。
「伏せろ、こっちだ!!」
 自分の迂闊さを呪いながらライフルを構え、少年のほっそりとした腕を強く引いた。そのまま少年を引きずるようにして大木の陰に飛び込み、太い幹に背を押し付ける。次の瞬間、二人の立っていた位置にいくつも銃弾が打ち込まれ、落ちていた葉が千切れ飛んで宙を舞った。低く舌打ちの音を響かせると、拓馬も乱暴にライフルの引き金を引いた。
「くそっ、最悪だ」
 手に伝わる振動に眉を寄せて、拓馬は吐き捨てるように呟いた。敵に気づかれた以上、ここが包囲されるのは時間の問題だろう。そうなっては拓馬に勝ち目はなかった。彼に残された武器はこのライフルと、戦闘服に仕込んだいくつかの手榴弾のみなのだから。
 絶望に捕らわれかけた拓馬の横で、ふいに涼しげな声が響いたのはその時だった。
「……あなたは狙われているのか?」
 その声にちらりと見返ると、拓馬が反射的に守ろうとしてしまった黒髪の少年が、場違いなほどに落ち着いた表情で彼を見上げていた。
「こんな時に何言ってんだ! 見ればわかるだろうが!!」
 死にたくなかったら隠れてろっ、と怒鳴りつけた拓馬に、少年は静かな眼差しを向けてそうか、とささやいた。そのまま大木の幹から背を起こし、身を低くしながら拓馬の傍を通り過ぎようとする。当然のこととして拓馬は目を剥き、ほとんど無意識のうちに少年の細い肩を掴んでいた。
「……おいっ!!」
「何だ?」
 きょとん、としか言いようのない表情を浮かべ、少年が拓馬を振り返った。その横の幹がわずかに弾け、至近距離を銃弾が掠めていったことを教えたが、湛えられた静謐さは微塵も揺るがない。拓馬は苛々と眉をひそめると、激しい銃撃の音に消されないように声を張り上げた。
「何だ、じゃないだろう! お前は何をやってるんだ、死にたいのかっ!?」  
 拓馬のすさまじい剣幕に、少年は軽く漆黒の双眸を見開いた。
「……信用してもらえないのはもっともだが、私なら大丈夫だ。私が相手の注意を引くから、あなたはその武器で援護してほしい。一人よりは二人の方が効率がいいだろう?」
「……なっ」
「大丈夫だ、出会ったばかりでこんなことを言うのもなんだが、信用してくれ。私もこんなところで死ぬわけにはいかないんだ」
 そう言って、少年はふわりと表情を綻ばせた。
 初めて見た笑顔が信じ難いほどに綺麗だったからか、言葉と態度の端々に垣間見える意志があまりにも強固だったからか、ほとんど無意識のうちに拓馬の手から力が抜けた。それを了承と取ったようで、少年は短く礼代わりの微笑を過ぎらせると、止める間もなく大木の陰から飛び出していってしまった。
「お前っ……!」
 拓馬の悲痛な叫び声は、連続して響き渡った銃声によって掻き消された。
 思わずライフルの引き金から指を離し、少年の後を追って飛び出そうとしたところで、拓馬は不自然な体勢のままで動きを止めた。その端正な顔からストンと表情が抜け落ち、ただダークブラウンの瞳だけが大きく見張られる。あまりにも有り得ない光景を突きつけられ、現実を認識する能力が麻痺してしまったのかもしれない。
 横向きに飛び出した少年は、地面の上で二転三転して打ち込まれた銃弾をかわすと、跳ね起きると同時にしなやかな手首を翻した。大気を裂いて銀の光が飛び、銃を構えていた男の肩に突き刺さる。それが短剣だと気づく暇を与えず、少年の華奢な体が一瞬で跳躍し、呻き声をあげた男の手から銃を蹴り飛ばした。
「何だ!?」
「このっ……」
 他の兵たちは驚愕の叫びと共に銃口を向けたが、少年の手が宙を舞った銃を受け止め、逆手に持ちかえて銃床を叩き下ろす方が早かった。ぱっと紅の鮮血を散らし、頭部を強く殴られた男が昏倒する。その背に銃弾を浴びせようとしたもう一人の兵は、我に返った拓馬によって手の甲を打ち抜かれ、叫び声を上げながら銃を取り落とした。
 少年はその兵の鳩尾に拳を叩き込むと、崩れ落ちる巨体から軽やかに身をかわし、低く身を沈めながら最後の男の足を払った。ぎゃあっと情けない悲鳴を上げて倒れる男に、首筋への正確な手刀を叩き込んで、瞬きする間に気絶させてのける。一連の動きにはいっさいの無駄がなく、白銀のマントと漆黒の髪が翻る様はまるで舞いのようだった。
 さわりと涼しげな風に髪を揺らし、少年が踏み荒らされた大地に立ち上がった時には、四人の敵兵たちは一人残らず地に這っていた。
「…………」
 拓馬は何かを言おうと口を開き、結局は上手く声を出せずに立ち尽くした。それも当然だ。少年の動きは、どう見ても十五、六歳程度にしか見えない子供のものではない。厳しい訓練を受けた職業軍人でさえ、ここまで無駄のない動きをするのには莫大な労力と時間を要するだろう。だが、少年は涼しい表情を浮かべて拓馬を振り返り、夜の波間を思わせる瞳に淡い苦笑を滲ませてみせた。
「すまない、助かった」
「なっ……は?」
「先ほど、あなたは私を助けてくれただろう? 見たこともない戦闘方法で少し戸惑ったみたいだ」
 奇妙な術だな、と拓馬には理解できないことを呟き、少年は優雅な動作で身をかがめると、気絶している男の肩から短剣を抜き取った。瀟洒な細工の柄から見るに、少年が腰に下げている剣と揃いのものであるようだ。刀身を一閃させて血を払い、鞘に収める少年に向かって、拓馬はようやく声を絞り出すことに成功した。
「……お前」
「どうした?」
「お前……お前は、何だ?」
「は?」
 いきなり「何だ?」と問いかけられた少年は、虚をつかれたように綺麗な色彩の双眸を丸くした。明らかに問いの意味を理解していない様子に、拓馬は苛立って乱暴にダークブラウンの髪をかき回す。そのまま何度か深い呼吸を繰り返して、内心で暴れまわる驚愕の念を押さえつけた。
 どうやら連邦側の人間ではないようだが、かといって味方であると断定することもできない。この少年に助けられたことは自覚しながらも、拓馬は何とか冷静さを保とうと必死だった。少年は首を傾げてそれを見つめていたが、ややあって気絶した兵たちを避けながら拓馬に歩み寄ると、その綺麗な黒玉の瞳を真っ直ぐに向けてきた。
 そこに宿るのは、気を強く持っていなければ魅入られてしまいそうな、鮮やかで熾烈な輝きだった。拓馬だけではなく、この世界に生きる者が誰一人として知ることのできない、多くの民を統べる王者の光がそこにあった。
 その輝きを無理なく宿し、少年は生真面目な表情で口を開いた。
「そうだな。それどころではなかったとは言え、初めにに名乗らなかった非礼を詫びよう。私はレシェリクトだ。レシェリクト・フィル・デュロス。皇国デュロスの現王位継承者にして、国政の執行者。国の守護と繁栄を担う者だ」
 少年の澄み切った声が、荒れ果てた基地の空気を涼やかに揺らし、凛冽な響きを奏でていった。
「レシェリクト、と呼んでくれて構わない。差しつかえがなければ、あなたの名前を伺ってもいいだろうか?」
「……」
 やはり正気とは到底思えない言葉を聞いて、拓馬は思わず気が遠くなりかけた。このご時世に、『皇国』や『王位継承者』などという単語が存在しているはずがない。からかわれているのか、戦争のショックで正気を失っていると考えるのが妥当なところだろう。常の拓馬ならばまったく取り合わないか、大人をからなうなと言って怒鳴りつけていたはずだ。
 だが、そんな内心の思いとは裏腹に、唇は勝手に少年への答えを紡ぎ出していた。
 まるで何かに操られるように。
 そして確かに、自分の意思を持って。
「――――天城、拓馬だ」
 何故名乗ってしまったのかわからなかったが、この少年は敵ではないという、不思議な確信だけが存在していた。






    



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