異界の王と夢の始まり 3





「テンジョウ、タクマ?」
 少年は不思議そうにその名を繰り返し、綺麗な漆黒の瞳を瞬かせた。聞き慣れない響きに戸惑いを感じた、というように首を傾げ、何度か口の中でその音を繰り返す。やがて真っ直ぐに拓馬を見上げると、真剣な表情を浮かべて口を開いた。
「どちらが姓で、どちらが名前か聞いても構わないか?」
「……天城が姓、拓馬が名前だよ」
 もはや驚愕するのも億劫になり、拓馬はげんなりと答えながら前髪をかき上げた。この少年が西洋人なのか、東洋人なのか、そんな区分さえすでに馬鹿馬鹿しくなってきている。諦めの混じった溜息を吐いた拓馬は、だが次の少年の言葉を聞いた瞬間、冗談ではなくその場に倒れこみそうになった。
「それじゃあ、テンジョウ殿」
「………………『殿』ぉっ!?」
「……いけなかったか? 初対面で呼び捨てにするのは礼儀に反すると思ったのだが」
 少年の稀有な美貌に浮かんだ表情は、この上もなく真剣だった。そういう問題じゃない、と反射的に怒鳴りそうになり、すんでのところでここが敵軍の基地であることを思い出して口をつぐむと、拓馬は何かを振り切るように強く頭を振った。
 それを見ていた少年がためらいがちに、けれどそれ以外の呼び方が思いつかない、といった様子で拓馬に呼びかける。
「テンジョウ殿?」
「――――――ああ、もういい。とりあえず、呼び方の談義は後回しだ。いつまでもこんなところにいたら見つかっちまう。場所を変えるぞ」
 頭痛を感じながらこめかみを押さえ、拓馬は強引に少年から視線を外した。
 幸い、先ほど倒した兵たちが外の見張りを担当してようで、他の兵士が姿を現す気配はない。倒れた兵たちから取れるだけの武器を奪うと、拓馬は無言で振り返って少年を促した。いかに得体の知れない少年といえ、子供をたった一人で置き去りにしていくわけにはいかないからだ。苦虫を噛み潰したような顔をする拓馬に、少年は素直に頷いてその後に従った。
 基地の薄汚れた壁に取りつき、兵たちのなだれ込んで来た角から外を伺うと、拓馬たちが侵入する時にあけた鉄条網の穴が見えた。あそこを抜ければ山の中に逃げ込めるが、来た時に使ったヘリはとっくに帰ってしまった後だろう。まさか徒歩で基地まで帰るわけにもいかず、拓馬は忌々しげに端正な眉を寄せた。
「どうするかな……」
 つい低く呟いた拓馬の肩を、少年の細い指が軽く叩いた。
「あ? どうした」
「妙な音がしないか」
「……音?」
「ああ、小さな爆発音が連続しているような、妙な低い音がいくつか聞こえる」
 視線だけで振り返った拓馬に、少年は遠くを睨むようにしながら小さくささやいた。拓馬は何のことだがわからずに首を捻ったが、すぐに彼の耳にもその音が飛び込んできて、鋭く目を細めながら納得の声を上げた。
「バイクか」
 鉄条網を迂回するように聞こえてくるのは、何台かのバイクが立てるエンジン音だった。先に逃げた拓馬の部下たちを追っていた兵が、追跡を終えて基地に帰還してきたのだろう。一瞬ひやりとしたものの、人間を捕らえているにしては軽いその音に安堵し、拓馬は改めて角から様子を伺った。バイクは全部で三台。舗装されていない悪路のためか速度を落とし、一列に並ぶようにして走行していた。
 拓馬は口元に会心の微笑を閃かせた。
「おい、お前」
「何だ?」
「おれが先頭と最後尾のヤツを片付けるから、さっきみたいにその剣で真ん中のヤツをやれるか? バイクを壊しちまったら元も子もないからな、乗ってる人間だけを狙う。どうだ、できるか?」
 バイクを奪うことができれば、山道を越えて同盟軍の基地リバティに帰ることができるだろう。拓馬は少年の正体も、言動の奇妙さも一時的に忘れ、眼前の危機を乗り切ることに集中しようとした。何より、少年を敵だと思い続けることは何故か難しかったのだ。
 不思議な輝きを持つ瞳の少年には、無条件に信頼を寄せてしまいたくなるような、鮮烈で美しい何かがあった。
「……わかった。あの奇妙な物を壊さなければいいんだな」
 真摯な表情で頷く少年を見遣りながら、拓馬は敵兵から奪った遠視装置をライフルに取りつけ、手慣れた動作で照準を合わせてみせた。その間にもバイクは鉄条網の入り口をくぐり、基地の内部に低速で入り込んでくる。距離は目算でおよそ八十メートルといったところだろう。拓馬の腕を持ってすれば難しい距離ではない。角から半身を乗り出すようにして、片膝をつきながらスコープを覗き込み、拓馬は静かに狙いを定めた。
 響いた銃声は一つにしか聞こえなかったが、先頭と最後尾を走っていた男が、それぞれ一発で頭部を打ち抜かれてバイクから転がり落ちた。
「なっ……!!」
 とっさに体を倒し、前方に倒れこんだバイクを避けようとした男は、同僚よりほんのわずかに生き延びられたにすぎなかった。ひゅっという短い音が響いたかと思うと、細い銀色の何かが飛来して喉に深々と突き刺さり、男は鮮血を吹き上げながら背後に仰け反る。突き立ったのは先ほどの短剣ではなく、少年が袖口から抜き取った細い針だった。
 地面を擦って止まったバイクの一台に駆け寄り、素早く異常がないか確かめると、拓馬はそれを起こして慣れた動作でエンジンをかけた。軽い手ごたえと共にエンジン音が聞こえ、思わず安堵の息が漏れる。
 バイクに乗って背後を振り返った拓馬の瞳が、どこか困惑したように佇む少年の双眸を捉えた。
「……来い! 後ろに乗れっ!!」
 思わず叫んでしまった言葉は、限りなく条件反射に近しいものだった。少年は漆黒の瞳を小さく見張ると、手を差し伸べる拓馬にためらいを含んだ眼差しを向けた。バイクに対して警戒を持っているのか、それとも拓馬について行くことを決めかねているのか。だが少年が逡巡を見せたのは一瞬のことで、まるで体重がない者のような動作で身軽に跳躍すると、拓馬の後ろに音もなく飛び乗ってみせた。
「よし、つかまってろよ! 落ちても責任は取らないからな!」
 エンジンの音に掻き消されないように叫ぶと、拓馬は返事も待たずにバイクを発進させた。後ろに乗った少年が驚いたように体を強張らせ、慌てて拓馬の肩につかまってくる。その動作はどこか子供っぽく、拓馬はかすかな苦笑を口元に過ぎらせた。
 厄介なものを抱え込んでしまったかもしれない、という思いが脳裏を掠めたが、あえてそれには気づかないふりをした。
 ただ何故か、この少年を置いていくことはできなかった。
 一人で逃げることだけはしたくなかったのだ。
(おれも大概お人好しだよな……)
 胸中に呟いて苦笑を深くし、拓馬はそれを振り切るようにバイクを走らせる速度を上げた。




 石造りの床に硬い靴の底が当たり、カツン、と高く澄んだ音を立てた。
 それにさえ苛立ちを刺激されるように思え、ジルファードは秀麗な弧を描く眉を寄せた。王城の回廊に作られた採光窓に視線を向けると、数刻前までは穏やかだったはずの風が荒れ狂い、庭園を飾る木々の枝をしならせている。まるで自分たちの内心に呼応するようだな、と憎々しげに思い、ジルファードは透きとおるような金髪をかき上げた。
「……陛下」
 ジルファードは窓から天を仰いだまま、ポツリと小さく呟いた。
「レシェリクトさま」
 皇国デュロスの神聖なる王であり、生涯変わらぬ忠誠を誓った主君の名を口にして、ジルファードはかすかに緑の双眸をすがめた。
 レシェリクトは国王であるだけではく、デュロスの軍をまとめ上げる戦の総大将だった。この大陸に唯一残った『貴い加護』の血筋を引く、美しくも熾烈な少年王を欠いた状況で、一度中断されたアルスランドとの戦争を再開することは不可能に近い。レシェリクトは統率者であると同時に、神聖不可侵なる象徴でもあるのだ。仰ぐべき旗を失って、どうして兵たちが士気を保つことができるというのだろう。
(……繰り言だな。騎士ともあろうものが、情けない)
 一つ頭を振って埒もない考えを追い払うと、ジルファードは鮮烈な深緑のマントを翻して回廊を歩き始めた。
 彼だけではなく、デュロスの騎士は一人残らず信じていた。
 彼らの絶対の主、レシェリクト・フィル・デュロスが、再び無事な姿で陣頭に立つということを。
「レシェリクトさま、どうか……」
 どこか祈るようなささやきを響かせると、ジルファードは端正な顔に憂いを浮かべながら歩を進めた。
 回廊の途中にある薄く開いた扉から、甘く切ない歌声が聞こえてきたのはその時だった。
 恐らくは休憩中の女官たちが、重苦しい城の空気に耐えかねて気分転換に歌っているのだろう。こんな時に不謹慎な、と叱るべきだったかもしれないが、ジルファードはゆるく苦笑して耳を傾けた。
 その柔らかな旋律が、主君の好んでいた歌であることを思い出したからだ。
 

「星の歌うたい、月の道たどり
 暮れなずむ空に光を仰いだ
 祈ることを忘れた者も
 絶望だけを知っていた誰かも
 この荒れ果てた地のどこかで
 ただ一つ、あの明けの星へと願いを寄せる
 遠いあなたに告げるまま」
 

 窓の外で唸りを上げる風よりも強く、そして優しげに歌は響いていく。その歌に誘われるようにして、ジルファードの緑の瞳に一抹の痛みが過ぎった。
 

「星の歌うたい、月の道たどり
 明けていく空に光を探した
 白き翼をなくした者も
 慟哭の叫びを繰り返した誰かも
 この救いのない地のどこかで
 ただ一つ、あの明けの星へと願いを寄せる
 去りしあなたを思うまま」


 ふわりと淡い余韻を残し、歌声は回廊の静寂の中に沈みこんでいった。
 ジルファードはゆっくりと首を振ると、いつの間にか緩やかになっていた歩みを再開した。彼にはやらねばならないことが山のように残っているのだ。主君である少年が再び陣頭に立ち、その絶大な統率力で彼らを導いてくれるまで、このデュロスを守るのが騎士たちに課せられた役目だった。
「……去りしあなたを思うまま、か」
 あながち冗談にも聞こえぬな、と自嘲に似た笑みを零して、デュロスの筆頭と目される騎士の一人は回廊を歩き去っていった。






    



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