月夜にともる灯の中で 1


 


 太陽はゆるやかな速度で西の空に沈み始め、漂う空気は朱金から橙、紫がかった藍色へと色彩を変えていく。
 見慣れたものよりもややくすんだ、わずかに大気の汚れを感じさせる夕陽を浴びながら、レイは静かな足音と共に廊下を歩いていた。足を運んでいくその動作はさりげないもので、気配と足音を完全に殺してしまうことはしない。それは逆にすれ違った者に警戒を与えてしまい、己がただの少年ではないと教えることになりかねないからだ。
「……不思議な建築だな。石とも木とも違う」
 コツコツ、と固い音を響かせる床を見つめ、レイは小さく首を捻りながら一人ごちた。その動きに合わせて漆黒の髪がゆるくなびき、腰に下げられた長剣の柄が金属音を立てて揺れる。迷彩柄の上下に膝裏までのブーツという装いの中、美しい銀の剣はいっそすさまじいまでの違和感を醸し出していた。誰かに目撃されたら呼び止められるのは必至だったろうが、幸いと言うべきか、レイは誰ともすれ違うことなく士官用の宿舎を抜けて建物の外へ出た。
 レイが拓馬の部屋を抜け出し、同盟の戦前基地リバティを歩き回っているのは、決して子供らしい好奇心や欲求のためではなかった。この一見華奢で優美な少年にとって、いざという時に自分がいる場所の構造がわからない、というのは好ましい状況ではないのだ。特にここは見知らぬ土地の、いつ戦が始まるとも知れない軍用施設なのである。透きとおるような黒い瞳で周囲を見回し、レイはそこが戦闘に耐え得る場所なのか、逃走路が整えられているのかを確認して歩いていた。
「基地か……砦、とは少し違うな。もっと大きな、城のようなものか?」
 再び聞く者のいない呟きを零して、レイはくるりと振り返りながら機能的な建築物を見上げた。白で統一された建物は、降りしきる薄暮の光に照らされてうっすらと赤く染まり、嵌めこまれた窓硝子は淡い金色に煌いている。縦よりも横に広く作られ、無駄な装飾を完全に廃したその基地は、あらゆることを貪欲に学んだレイでも全く見覚えのない建築様式だった。
 それではなく、今レイを取り巻く世界そのものが、少年王にとっては見たこともない異質なものなのだ。
「――――――異界、か」
 並列世界とも言うけど、と困惑したように呟いて、レイは身軽な動作で建物の壁に背を預けた。ここは訓練場の裏手なのだろう、辺りには人影一つ見出すことができず、遠くから聞こえる兵士たちの声以外は静寂に閉ざされている。それが心地よいとばかりに瞳を細めると、レイは夕陽を遮るようにして白い手をかざした。
 レイの記憶は、臣下の一人を庇ってアルスランド同盟領の騎士と戦い、あやまって騎馬ごと崖下に転落したところで途切れていた。次に気づいた時は森の中で、天城拓馬と名乗る青年と出会い、そのまま成り行き上この基地までついて来てしまったのである。なぜ違う世界に迷い込んでしまったのか、どうすれば帰ることができるのかはまるで分からないが、不思議とレイの胸中に不安はなかった。ただ、その時が来れば帰れるという奇妙な確信があるだけだ。
 目も眩むような絶壁から宙に投げ出され、体を言い知れない浮遊感と本能的な恐怖が襲った時、レイが感じたのは死神の指先ではなく縋るように響く『願い』だったのだから。
『……どうか』
 悲痛な、絶望と慟哭に支配されながらも希望を願って紡がれたそれに、手を伸ばしてしまったのは条件反射だったのかもしれない。落ちているのか、地面に叩きつけられたのかも判断できない一瞬で、レイは確かに願いの響いてくる方へ手を差し伸べていた。
 誰のものとも知れない、愚かしいまでの懸命さで奏でられたその願いを叶えてあげたいと、無意識の中で強く思ったからだ。
「……」
 すぅっと軽く息を吸い込み、レイは黒玉の双眸を伏せながら花のような唇を開いた。
 夕闇が滲み始めた静けさを、ぽつりと零された音が柔らかく揺らしていく。それは穏やかな、透明感と響きの豊かさが矛盾なく同居した歌声だった。
 その歌を歓喜を持って抱きしめるように、涼しさをまとった風が吹きすぎていった。




 同盟軍の基地『自由なる場所』リバティでは、厳密にではないが食事の時間が定められている。
 勘定を払わなければならない酒場と違い、食堂では無料で食事が振る舞われるからだ。そのため、食事の時間帯ともなれば広い食堂は戦場となり、少しでもいいものを食べようとする軍人たちでごった返す。軍人には気性の荒い者が多く、いかに軍紀が徹底していると言っても、時には一切れの肉をめぐって殴り合いに発展することもあった。
 朝築比呂(アサツキヒロ)は、そんな血生臭い争いに巻き込まれることを嫌い、必ずと言っていいほど士官用の別スペースで食事を取っていた。司令官である拓馬などは意外に庶民的で、下士官が主に利用する一般の食堂を好んで使うようだが、比呂からすれば酔狂もいいところである。今も軍隊仕込みの早食いで夕食を片付け、一般食堂と一続きになっている酒場を目指して歩を進めていた。
「……あ?」
 一度建物の外に出た後、酒場に向かってゆったりと足を進めていた比呂は、風に乗って流れてきた音に気づいて眉を寄せた。
 夕暮れの空をゆるやかな風が行きすぎ、申し訳程度に植えられた木々の葉を優しく揺らしていく。その梢の音に合わせるようにして、美しく澄んだ歌声が冷たさを増しつつある大気を震わせていた。
「星の歌うたい、月の道たどり、明けていく空に光を探した……」
 かすかに聞こえる歌声に導かれて、比呂は訝しげな表情のままで視線をめぐらせた。
「……白き翼をなくした者も、慟哭の叫びを繰り返した誰かも、この救いのない地のどこかで」
 歌声は男性のものというには高すぎ、少女のものというには低すぎる、何よりも耳に心地よい清涼な響きだった。伴奏と言えるものは何もないのに、夕焼けの光と清かな風の中に聞こえるそれは、何かの冗談かと思うほどに壮麗な音律を紡ぎ上げていく。やがて、眉をしかめたまま流された比呂の双眸が、壁に背を預けながら静かに歌っている少年の姿を捉えた。
「ただ一つ、あの明けの星へと願いを寄せる」
 巻き起こった風が少年の頬に口づけ、うっとりするほど艶やかな黒髪をそよがせた。
「――――去りしあなたを、思うまま」
 そこでふいに歌声は途切れ、少年はゆっくりと伏せていた睫毛を持ち上げた。夕陽を浴びて黒玉の瞳が輝き、白い頬に落ちかかった前髪が薄く影を作る。魂を抜かれたように立ち尽くしていた比呂は、少年の眼差しがこちらに向けられたことに気づき、そこでようやく我に返った。
「あなたは……」
 困ったように呟いて首を傾げた『美少年』は、昼間、比呂の上司である拓馬が連れ帰ってきた子供だった。
 比呂の記憶と異なり、少年は白銀のマントに白の上下ではなく、軍人たちが普段着としても用いる迷彩服をまとっていた。襟元には王冠を象った同盟軍の徽章が輝き、細身のブーツが膝裏までを覆っていて、それだけならば新しく配属された新任士官のように見える。だが、その腰に下げられた流麗なデザインの銀の剣に気づいてしまい、比呂はあんぐりと大きく口を開けた。
 少年はそんな比呂に困ったような瞳を向けると、典雅な動作で壁から体を起こした。
「ここは、ひょっとして立ち入り禁止の場所だったのだろうか?」
「……は?」
 ためらいがちな少年の言葉に、比呂は思わず眉根を寄せて低い声を上げた。少年はますます首を傾けると、比呂の前まで歩み寄りながら言葉を続ける。
「違うならいいのだが……ああひょっとして、こんなところで歌っていたのがうるさかったか? だとしたらすまな……ではなくて、ごめんなさい」
「……」
「すぐに立ち退くから、わた……僕のことは気にしないでほしい。タクにも適当に時間を潰すように言われただけで、動き回る許可を得たわけではないし」
 最後の部分はかすかな苦笑と共に呟いて、少年は軽く会釈しながらその場から立ち去ろうとした。ふわっと細い黒髪が広がり、夕闇の中に綺麗な輝きを散らしていく。その光景を見て再び正気に返ると、比呂は顔をしかめながら少年の前へ腕を伸ばした。
「って、おい待て。ちょい待てって、ストップ」
 腕によって進路をふさがれた少年がえ、と瞳を見張り、すぐ隣に立った比呂を見上げた。比呂はそれを不機嫌そうな表情のままで見下ろすと、巨大な溜息と共に口から言葉を押し出した。
「とりあえず待て。一人で自己完結してさっさと立ち去るんじゃねえっての。で、そこの坊主」
 綺麗な瞳を瞬かせる少年に、比呂は軽く屈んで目線を合わせながら問いかけた。
「まず質問だ、お前、新兵か?」
「……いや、ここの兵士になったわけじゃないし、軍の中に組み込まれたわけでもない。タクに乞われて協力は約束したが」
「あー、まったく意味わかんねぇな。じゃあお前の名前は?」
「レシェ……いや、レイだ」
 途中で言葉を切り、少年は小さく首を振りながら名前を言い直した。その奇妙な動作に不審げな表情を作りつつも、比呂はレイか、と告げられた名を繰り返して頷く。さして珍しくもない名だった。
「苗字は?」
 何気ない調子で問いかけを続けた比呂は、淀みなく答えていた少年が不自然に沈黙したのに気づき、ますます訝しげな顔を作った。
「何だ? どうかしたのかよ」
 レイ、と名乗った少年の心から困惑した表情に、なぜか自分が悪いことをしてしまったような錯覚に捕らわれ、比呂は口調にかすかな苛立ちを込めた。レイはそれに対して静かに首を振ると、本当に申し訳なさそうな顔で口を開く。
「今は、レイという名前しか名乗れないんだ。それじゃあ駄目だろうか?」
 少年の様子はこの上もなく真剣だった。比呂は何だそりゃ、と眉間に皺を寄せたが、その表情からこれ以上聞いても無駄だと悟り、屈めていた背を伸ばして軽く溜息を吐く。そこでふと視線を放つと、周囲に漂う夕闇は淡い朱色を失い始め、藍色に近しい黒へと変化しつつあった。比呂は瞳を眇めながらレイを見下ろし、顎をしゃくることで建物の向こうを指し示した。
「……まあ、別にどうでもいいけどな。で、いつまでもこんな所にいても何だから俺はもう行くが、お前メシは食ったのか?」
「え?」
 突然の問いかけを受けて、レイはきょとんと漆黒の瞳を見開いた。それに小さく憮然とした表情を浮かべると、比呂は親指で遠くの酒場を指してレイに向き直る。
「ちょっと酒場までつき合え、ついでに何か奢ってやるから」






    



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