月夜にともる灯の中で 2


 


 朝築比呂、と名乗った青年がレイを伴って向かったのは、一般食堂と一続きになっている広い酒場だった。
 店内は抑えられた照明に柔らかな木目が照らされ、他の機能美一点張りの建物とは違う、独自の落ち着いた空気が漂っていた。ガヤガヤという心地よい喧騒の中を進み、中央に置かれたテーブルの一つに目を止めると、比呂は目線だけでレイを促しつつそこへ足を向けた。
「よう」
 にこりともせずに片手を挙げた比呂へ、グラスを傾けていた二つの人影がゆっくりと振り返り、歩み寄ってくる同僚の姿を認めて笑みを作った。
「比呂か」
「あら、アサツキ中尉? どうしたの、その後ろの美少年は」
 そう言って比呂に笑顔を向けたのは、まるで違う雰囲気を持った二人の女性だった。
 椅子の背もたれに片腕を乗せ、瀟洒なデザインのグラスを弄んでいる栗色の髪の女性に、匂い立つような色香を漂わせ、比呂に婀娜(あだ)っぽい笑みを向けてくる黒髪の美女。双方が比呂を見つめて唇を綻ばせると、その後ろに立った見慣れない少年に好奇の眼差しを向けた。だが比呂はそれには答えず、気軽な動作で空いている椅子を引き、レイにも隣の椅子を示してやりながら女性たちに向き直った。
「ちょっとな。我らが司令官殿のお客さんだとよ」
 おれも詳しくは知らねえけど、と興味がなさそうに呟くと、比呂は素直に腰かけた少年を振り返って女性たちを指さした。
「坊主、こっちのデカイ、茶色っぽい髪の方が香崎千鶴(コウサキチヅル)。黒髪の方が藤沢沙希(フジサワサキ)で、ここの軍医だ。覚えとく必要はまったくねぇが、一応知っておけ」
「チヅルど……さんに、サキさんか」
 殿、という呼称を拓馬に嫌がられたのを思い出し、レイは咄嗟に「さん」という慣れない呼び方に改めた。そのまま二人に黒の双眸を向けると、稀有な美貌に柔らかな笑みを滲ませる。たったそれだけの仕草で、周囲に満ちた空気が華やかに彩られたようだった。
「はじめまして、あなた方のようなお美しい女性にお会いできて光栄に思う。僕はレイだ。どうぞそのままレイと呼んでほしい」
「……うん?」
「はい?」
 少年の口から滑りでた言葉に、女性たちは反応し損ねたように首を傾げた。だが、レイはそれにもまったく気づかず、ふわりと優雅な動作で礼を取りながら頭を下げてみせる。さらさらと綺麗な音を立てて黒髪が流れ落ち、仄かな照明に透けてうっとりと輝いた。
「名のみで姓を名乗れない無礼さを許していただきたい。どうか、以後お見知りおきを」
 絶世の美少年が淡く微笑み、まるで羽が舞うようにゆるりと頭を下げるその光景は、百戦錬磨の軍人たちが思わず見入ってしまう程度には美しいものだった。外見年齢にそぐわない挨拶を受け、比呂はもう勝手にしてくれとばかりに天井を仰ぎ、千鶴と沙希は驚いたように長い睫毛に縁取られた瞳を見張る。だがそれは一瞬のことで、二人は自失から立ち直ると同時にぷっと吹き出した。
 何かおかしなことを言っただろうか、と瞳を瞬かせる少年に、千鶴が肩を震わせながら鍛え上げられた手を伸ばした。
「可愛い……いや、ものすごく壮絶に可愛いぞっ、少年!」
「……え?」
「こちらこそお見知りおき願いたいな、レイ。さっきこれが紹介した通り、私は香崎千鶴だ。気安く千鶴と呼んでくれて構わないぞ」
「――――って待てコラ、何だその手は」
 比呂は疲れ切った表情を浮かべると、レイの細い頤(おとがい)に添えられた千鶴の手をビシリと叩き落とした。何するんだ、と睨んでくる同僚を無視し、黒玉の瞳を見張っている少年に気にするなと手を振る。生物学上はれっきとした女性だが、広い肩幅や比呂と比べても遜色のない長身など、千鶴の容貌はお世辞にも女らしいものとは言えない。それが綺麗な少年に迫っている光景に頭痛を覚え、比呂は肺を空にする勢いで溜息を吐いた。
「お前、いくら欲求不満だからって子供には手を出すなよ? 軽く犯罪だぞ」
「うるさい黙れ。お前らのようなむさくるしい男どもを毎日見てるんだ、美しいものを愛でたくなって何が悪い」
「そうよ、アサツキ中尉。あなたがこんなに可愛い少年を連れて来るから悪いのよ」
 今まで黙ってレイを見ていた沙希が、組み合わせた両手の上に顎を乗せて艶っぽく笑った。淡く茶色がかった黒の瞳を細め、その赤い唇から悩ましげな吐息を漏らすと、医者らしくほっそりとした手が少年の頬へ伸ばされる。
「綺麗な目ね、レイ君?」
「……綺麗、だろうか? 自分ではよくわからないんだが」
「まあ謙遜ね、こんなに綺麗な水晶体と虹彩と瞳孔の形をしているのに。……保存液に漬けて飾っておいたら、その輝きまるで芸術品のように見えるでしょうね」
「……」
 何を言われたか理解できずに首を捻るレイに、比呂はげっそりとした表情で顔を片手に埋めた。
「気にするなよ、坊主。こいつは血液中のリンパ球の美について一時間は語れるような、いっそ筆舌に尽くしがたい真性の変態だから」
「まぁひどい。何てこと言うのかしらね、中尉ったら」
 それさえも色香の漂う仕草で唇を尖らせながら、沙希は白磁のようなレイの肌に指を滑らせ、うっとりとした甘い微笑を口元に佩いた。比呂からすれば、少しくらい切り取って標本にしたいな、と考えているのは明白である。思いきり顔をしかめると、比呂は変態医師の手から少年の体を引き剥がしてしっしっと手を振った。
「っていうかな、お前らのオモチャにするために連れて来たわけじゃねえんだよ。男女と変態は黙って酒でも呑んでろ」
 不満げな声を上げる女性たちからそっけなく目を逸らして、比呂はすでにカウンターで注文していた酒を手に取ると、目を白黒させているレイに向き直った。
「で、お前、酒は飲めるクチか?」
「……え? ああ、それなりには」
「そうか、よし」
 比呂は重々しく頷き、綺麗に果物の飾られたカクテルをレイの前に押し出した。子供でも飲めるような、アルコール度数の低い甘めの酒だ。飲め、と目線で促してやると、少年は驚いたように小さく目を見張ったが、すぐに小さく礼を言ってからグラスを取り上げた。ゆっくりとそれに口をつけ、惚れ惚れするような優美な動作で傾ける。ほとんど一気に澄んだ黄色の液体をあおる様も、軍人たちの視線を奪って離さないほど絵になる光景だった。
「美味しい」
 グラスの縁から唇を離して、レイはふわりと口元に笑みを浮かべた。白皙の肌に朱が差すこともなく、黒玉の瞳もしっかりした光を失うことはない。ありがとう、と空になったグラスをテーブルに戻しながら、レイはすっと居住まいを正して静かに比呂を見つめた。
「それで、僕をここに連れてきた用件は何だろうか」
「……お前、なんつー可愛げのないガキなんだ」
 やってらんねぇとばかりに首を振って、比呂も手にしていたウイスキーの瓶を戻した。千鶴と沙希の不審そうな視線に気づかないふりをし、真面目な表情を作って少年の双眸を見下ろす。比呂が聞きたいのはたった一つだけだった。
「坊主。お前、共和連邦軍の人間か?」
「違う」
 打てば響くように、というのはこういうことを言うのだろう。レイはその質問を予想していたのか、瞳を揺らすこともなく落ち着いた動作で首を振った。比呂だけでなく、千鶴や沙希までもが無言で次の言葉を待つ中で、レイは一つ一つの言葉を選ぶようにして口を開いた。
「僕はあなたたちの敵ではない。あなたたちの司令官であるタク……テンジョウタクマに対して、何の害意も持っていない。僕がここにいるのはその逆で、タクと、タクの部下であるあたなたちに協力するためだ」
「……」
「この命と、名にかけて。僕はあたなたちの敵ではない。あなたたちを決して裏切らないし、あなたちにとって不利になるようなこともしないと約束する。だから、どうか信じて欲しい。……僕のためではなくて、タクのために」
 少年の言葉はやはり時代がかったもので、テレビドラマや映画の中でしか耳にしないようなものだった。だがそれでも、レイの凛冽な声音で綴られると違和感なく空気中に響いていく。我知らずそれに聞き入っていた比呂は、レイの綺麗な瞳を見つめて眉根を寄せた。自分がとんでもない言いがかりをつけているような錯覚に捕らわれたのだ。はぁっと大きな溜息をつくと、比呂は手を伸ばして少年の髪をくしゃりとかき回した。
 驚いたような表情で見つめてくる少年に憮然として、比呂は視線を逸らしながらさっさと手を離した。
「本っ当に変なガキだな。今時『この命にかけて』なんて台詞、よっぽど微妙な時代劇くらいでしか聞かねぇぞ?」
「ヒロど……さん?」
「わかったよ、そこまで言うなら信じてやる。大体、お人好しな少佐がそのせいでくたばるようなことがあっても、それはそれで自業自得だしな」
 一人で納得したようにウイスキーの瓶を取り、中身をグラスに注ぎながら「それから」とレイを軽く睨んだ。
「ヒロさんはやめろ、何か気持ち悪ぃ。そもそも、少佐がタクで中尉がヒロさんじゃおかしいだろうが」
「……そういうものなのか?」
「そういうもんだ」
 自信たっぷりに断言した比呂に、レイはわかった、と生真面目に頷いて見せた。比呂にかき回された髪を手櫛で整えつつ、話の流れがわからずに顔をしかめる女性二人に向き直る。どこか申し訳なさそうな表情を浮かべて、端麗な唇に穏やかな微笑を過ぎらせた。
「新参者ではあるが、僕はあなたたちと仲良くできたらと思う。いつかここを離れる時が来るかもしれないが、それまではどうか、よろしく頼む」
「……よくはわからないが、レイは正規のルートで入隊してきた軍人ではないんだな? だが私たちの味方だと」
「ああ」
「ふぅん、面白いじゃない? むさっ苦しい男よりも謎多き美少年の方がよっぽど素敵だものね。ねぇチヅ?」
「そうだな、何より私の好みだしな」
 二人はそれぞれの表情で明るく笑うと、夢のように綺麗な面差しの少年を真っ直ぐに見つめた。グラスを傾ける比呂をチラリと見遣ってから、悪戯っぽくレイへと手を伸ばす。千鶴はその髪を、沙希は白い手を包み込むように握って、首を傾げる少年に笑みと共にささやいてみせた。
「よろしく」
 言葉は簡潔だったが、その響きは限りなく優しく、穏やかだった。






    



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