月夜にともる灯の中で 3


 


 少年がグラスを空けていく速度は、比呂の目から見ても充分すぎるほどに速かった。
「なんだ、結構いけるクチじゃないか」
 容赦なく蒸留酒の瓶を傾けて少年のグラスに注ぎながら、千鶴は心から楽しそうに笑い声を立てた。横では沙希が同じようにくすくすと笑い、レイが瀟洒なグラスを取り上げるのをうっとりと見つめている。
「……いいのか? これはあなたたちの酒だろうに」
 レイはかすかに困惑したような苦笑を浮かべたが、素直にそれを口元に寄せた。透明に近い琥珀色が縁で揺れるのを見つめ、その美しさを楽しむように漆黒の双眸を細めてから、誰もが見惚れずにはいられない優雅さで澄んだ液体を呷る。すでにかなりの量を飲んでいるにも関わらず、レイの動作は滑らかで危なげがなかった。よほど酒に慣れているのだろう。
「どうでもいいけどな、お前らコイツを酔い潰して妙なことするんじゃねぇぞ? ……っていうかお前ら目が危ねぇよ。瞳孔全開にしてギラギラすんな、はっきり言って怖ぇ」
「ひどいな、何てこと言うんだ、比呂」
「そうよ。何てこと言うのよ、中尉」
 比呂のじとりとした眼差しに、女性二人は素晴らしい速さで目線を逸らした。それぞれ心にやましい思いがあったのは明白で、比呂は溜息を吐きながらチラリと少年を盗み見る。レイは大人たちのやり取りに淡く苦笑し、相変わらずの動作で次々とグラスを口に運んでいた。さすがにまったく酔わないというわけにはいかないのか、白皙の目元にはほんのりと朱色が差し、漆黒の双眸には柔らかい輝きがたゆたっている。
 もしもここに拓馬がいたなら、絶叫と共にグラスと酒瓶を取り上げて比呂たちを蹴り倒しただろう。十五歳の少年を酒場に連れ込んだ挙句、アルコール度数の高い蒸留酒を次々に飲ませる馬鹿がどこにいるんだ、と。
 だが、問題なくその『馬鹿』の範疇に含まれる彼らの中に、レイを止めなければならないという意識など欠片も存在しなかった。
「……お前、ガキのくせにずいぶん酒慣れしてんな。どうだ、こっちもいくか?」
 それどころか平然としてウイスキーの瓶を掲げると、比呂は隣に座ったレイにそれを指し示してみせた。
「そうだな、一杯くらいなら……」
 微笑してグラスを差し出しかけたレイは、そこで何かに気づいたように動きを止めた。どうした、と軽く不審げな表情を作った比呂も、少年の視線を辿って背後に首をめぐらせる。
「……げ」
 振り返った途端、にやにやと笑いながら近づいてくる男の姿を認めてしまい、比呂は思い切り顔をしかめた。楽しそうに笑っていた千鶴や沙希も同様だ。明らかに歓迎されていない雰囲気にも関わらず、近くのテーブルで飲んでいた男は遠慮なく比呂に近づくと、比呂の肩に手を置いてケタケタと笑った。
「よぉーう朝築、お前美少年と酒場にしけ込んでんだ? 楽しそうで羨ましいねぇ、え?」
「……去れ、失せろ、ついでに消えろ酔っ払い」
 馴れ馴れしく肩に置かれた手を振り払い、比呂は男に突き刺すような眼差しを向けた。
 近づいてきたのは、迷彩服のズボンにシンプルなティーシャツという、どこにでもいそうな出で立ちの大男だった。おどけた調子で肩をすくめた男は、許可も得ずにテーブルへ酒瓶を置くと、不思議そうに首を傾げている少年に薄く笑みを見せた。ますます訝しげに瞳を眇めるレイに、千鶴が眉を寄せながら小さく耳打ちする。
「比呂と私の同期でな、あいつもこの軍の中尉で、藤堂(トウドウ)だ。悪いヤツじゃないような気がしなくもないんだが、どうにも酒癖が、な」
「よぅ美少年、新しく配属された新任士官か何かか? しょっぱなから上司のご機嫌取りとはかわいそうになぁ」
「……」
 すでに随分と酒が入っているようで、藤堂は焦点の定まらない目を細めて楽しげに笑った。レイが眉をしかめたのにも気づかずに、どこか値踏みするような視線で華奢な少年の姿を眺めやる。嫌な予感に駆られて比呂が声を上げる前に、藤堂はレイの手から無造作にグラスを奪うと、それをテーブルの端へ押しやりながら目じりを下げた。
「若くて顔がいいと大変だよなぁ、美少年。どうだ、取り入るんならこいつらじゃなくておれんとこ来ないか? もっと高い酒をいくらでも奢ってやるぞ?」
 ある意味予想通りの言葉に、レイのまとう空気がすっと硬度を増した。だがそれを悟らせることはせず、ゆっくりとした動作で首を横に振る。
「……折角だが」
「ノリが悪ぃこと言ってんじゃねぇって、こいつらとは飲めておれと飲めないことはねぇだろうが。ほら」
 来いよ、という強引な声と共に、藤堂の太い腕がレイの肩を掴んで立たせようとした。比呂と千鶴が制止の声を上げかけ、沙希が無言で柳眉を寄せる。ほっそりとした肩に手が触れたように見えた、まさにその時のことだった。
 短く大気を裂く音が響いて、抜き身の刃が藤堂の首筋に突きつけられたのは。
「――――私に手を触れるな、下郎が」
 椅子に腰かけたままの姿勢で半身をひねり、ぞっとするほど冷ややかな声を叩きつけたレイの手には、いつの間にか小さなコンバットナイフが握られていた。誰一人として気づいた者はいなかったが、それはレイが隠し持っていた短剣ではなく、藤堂のベルトに収められていた彼のナイフだった。一瞬の間でそれを抜き取り、ピタリと頚動脈の横に突きつけてみせたレイの瞳には、別人のように冷めた焔がゆらゆらと踊っていた。
「……っ」
「外見や年齢で相手を侮り、酒の助けを借りて無法な振る舞いをするなど、それがまがりなりにも軍事にたずさわる者のすることか。それとも、己より階級が下である者へは何をしても良いという、歪んだ上位者としての優越意識か? 相手からの報復があるなどとは考えもしないわけか」
 レイ、と名を呼ぼうとして、比呂も女性二人も声を詰まらせたように言葉を飲み込んだ。先ほどまで穏やかに微笑し、困惑しながらも優雅な仕草でグラスを傾けていた少年は、絶対零度の覇気と熾烈な鋭気をまとう、物理的な力さえ感じる威圧感の持ち主へと変貌していた。ようやく事態が飲み込めたのか、上気していた肌から血の気を失って立ち尽くす男に、レイはことさら艶やかに唇の端を持ち上げて見せる。
「ここは私の国ではない。だからこそ貴様を私の権限で裁こうとは思わないが、下劣な目的でこの私に触れたんだ、次はないと思え」
 妖艶ですらある微笑を浮かべ、レイは手にしたコンバットナイフをかすかに動かした。
「不敬の罪で、首を刎ねられたいわけじゃないだろう?」
 藤堂の喉がひゅっと音を立てて鳴った。恐怖のあまり上手く息が吸い込めないのだろう、瞳には明らかな狼狽の光が宿っている。ただの子供がナイフを手にしただけなら、脅威ではあっても恐れを感じることはなかったはずだ。彼は訓練を受けた軍人であり、銃弾が飛び交う中で銃剣を交えて戦う、そんな日常を送っている者たちなのだから。だが藤堂だけではなく、比呂たちも動くことを忘れたように呆然としていた。
 いつの間にか、酒場は水を打ったようにシンと静まり返り、驚愕を含んだいくつもの眼差しが少年へと集中した。 レイはうっすらと笑い、背筋が寒くならざるを得ない表情で男を見つめている。ナイフの刃は藤堂の首筋に狂いなく突きつけられ、薄皮をわずかに裂いたところで止まっていた。澄明に透きとおった、星空の映る夜の水面を思わせる綺麗な双眸に、今は触れたら斬り飛ばされてしまいそうな冷たい熱が揺れている。それはこの世界では見ることの叶わない、数多の民を統べる王者の瞳だった。
 そして恐怖に金縛りにあった者たちの中で、気づいたものは一人もいなかった。
 レイが今、慣れない異界の酒によって『酔っ払って』いるのだということに。
「……おい、坊」
 それでも、何とか気力を振り絞って坊主、と呼びかけようとした比呂の声は、突然響いたドアを開ける音によって遮られた。
「……何だ、何をもめているんだ?」
 軍靴が酒場の床を打つ音が聞こえ、訝しげな響きを乗せた声が静寂を破った。呪縛から解放されたように一斉に振り向く眼差しの中、姿を見せたこの基地の若き司令官は、事態が飲み込めないというようにきつく眉を寄せた。
「何だ、どうしてこんなに静まり返って……………………レイ――――ッ!?」
 店内をぐるりと見回したダークブラウンの瞳が、ひややかに笑いながら士官にナイフを突きつけている少年の姿を認め、すさまじい絶叫が広くもない酒場に反響した。
 ふと、その叫びに気づいたレイが眼差しだけで酒場のドアを振り返り、しまった、と言わんばかりの表情を作った。瞳がその苛烈さを和らげ、代わりに申し訳なさそうな、悪事を見つかってしまった少年のような光が浮かぶ。
「……タク」
「っ、おまっ、何をしてるんだ!? ……ってお前、ひょっとしなくても酔ってるな!?」
 掴みかかるような勢いでレイに迫ると、拓馬はテーブルの上に林立する酒瓶を見遣ってさらに叫んだ。勢いに押されてのけぞるレイの手から、あっさりと握られていたコンバットナイフが落ちる。それは藤堂の肌をごく浅く掠め、男の口からひぃっという情けない悲鳴を上げさせた。
「酔ってなど、いないと思うが」
「嘘をつけ、嘘を!」
 強く言い切ってから、拓馬はそろそろと逃げようとしていた比呂たちを振り返り、激しく眦を吊り上げた。
「朝築、香崎、藤澤!! お前らこいつに何を飲ませた!? 部屋にいないから探し回ってみれば、十五歳の子供がこんなところで……っ」
「いや、違うっすよ、これは坊主の自主的意志ってやつで」
「黙れ、お前ら後でコントロールルームに来い! ……そこのお前、姓名と所属は!!」
 射殺されんばかりの視線で司令官に睨まれ、藤堂は文字通り真っ青になって飛び上がった。しどろもどろで問いに答えると、レイが拓馬の知り合いであることに焦ったのか、必死になって自己弁護を始める。だが、拓馬は藤堂の口上をうるさいの一言で切って捨て、藤堂にも出頭を命じてから一度下がらせた。
「お前らも一度部屋に帰れ。今日はこれ以上の外出は禁止だ。他のヤツらもだ、とっとと散れ!」
 拓馬に一喝され、他の客たちは慌てて残った酒を喉に流し込み、席を立ち始めた。拓馬はそれを据わった目で見つめてから、戸惑ったように椅子に座っているレイに視線を戻し、溜息を吐いて細い腕を引く。
「ほら行くぞ、レイ」
 素直に立ち上がったレイを引きずるようにして、拓馬は当然のように人に支払いを命じてから、足早にドアに向かって歩き始めた。
「……申し訳なかった」
 子供らしいのか子供らしくないのか判断しがたい、少年の小さな呟きだけをその場に残して。
 



 外はいつの間にか夜の支配下に置かれ、柔らかな月明かりと地上の灯火だけが、圧しかかってくる闇に対抗しているようだった。
 腕を引かれるままに歩きながら、レイは途方に暮れて拓馬の背を見つめていた。先ほどの行動が間違っていたとは思わないが、ここは拓馬の基地なのである。新参者である自分が勝手な行動を取ったことに対し、拓馬が怒っていたとしても何ら不思議はなかった。
「タク、その……」
「……何だ」
 拓馬が振り返ってくれたことに安堵を感じつつ、レイは神妙な表情で頭を下げた。
「本当に申し訳なかった。許してくれとは言えないが、以後このようなことがないよう充分気をつけたいと……」
「あのなぁ」
 最後まで言わせず、拓馬は大きく溜息を吐きながらダークブランの髪をかきあげた。きょとんと首を傾げるレイを見下ろし、軽くその形のいい頭をはたく。
「いいか、レイ。子供が酒場で酒なんか飲むな。誘われても簡単について行くな。ついで部屋から出るなら書き置きくらい残していけ、探し回っちまっただろうが。……返事!」
「わ、わかった、これからは気をつける」
「それから、何があったのかは知らないが無茶はやめろ。何事かと思ったぞ、おれは」
「すまな……じゃなくて、ごめんなさい」
 素直に謝り、ひたすら小さくなる少年に再び嘆息すると、拓馬は無造作に手を伸ばして漆黒の髪をかき回した。
「わかればいいんだ、わかれば。これからは気をつけるんだぞ。もう一回やったら怒るからな」
 まるで父親のようなその言葉に、レイは小さく漆黒の瞳を見開いた。信じられない言葉を聞いた、というように。酔いのためなのか、妙に子供らしい表情で拓馬を見上げると、レイはそのままふわりと口元を綻ばせた。
「……わかった。ありがとう、タク」
 途端に照れたように視線を逸らす拓馬に軽く笑って、レイはゆるく瞳を細めた。支配者としてではなく、王者としてでもなく、レイをただの子供として扱い、こうやって『許してくれた』存在は初めてだったのだ。それがくすぐったくもあり、どこか嬉しくもあった。
「ありがとう、タク」
 だからもう一度礼の言葉を繰り返して、レイは翳りのない微笑を拓馬へと向けた。
 生まれたのは暖かな喜びと、そして本当にかすかな、痛みだった。






    



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