蒼穹を仰げば 2


 


「――――――レイッ!!」
 すぐ傍で自分の名を叫ぶ声が聞こえた、と思った瞬間には、大柄な体に抱きつかれてたたらを踏んでいた。ぼんやりしていたこともあり、レイは体当たりのようなその抱擁に思い切り体勢を崩してしまう。うわっ、と間抜けな声を上げたレイをしっかりと抱きしめ、軍服姿の女軍人は滑らかな頬に顔をすり寄せた。
「すごいなお前、なんだあのでたらめな強さは! 実は映画の撮影なのかと思ったぞ、さすが私のレイッ!!」
「チヅル?」
 両腕で力いっぱい抱きしめてくる腕に、レイは夜空のような漆黒の瞳を見開いた。めずらしく狼狽した表情を浮かべているのは、豊かで張りのある胸に顔を押しつけられ、動けないように頭を抱え込まれてしまったためだ。困ったように固まる少年には構わず、千鶴は華奢な体を抱きしめたままで溜息を吐いた。
「ああ、でもお前はこんなに細くて小さくて愛くるしい少年だというのに……っておい、腰細いぞ!! なんだこの細さは、ちゃんと食事を取ってるのか!?」
「は? いや、チヅ……」
「っておいコラ、なに坊主の腰を撫で回してんだそこの変態女。軍法会議にかけられたら軽く有罪だぞ、お前」
 チヅル、というレイの呼びかけをさえぎり、心から呆れたような低い男の声が、コンクリートを踏む足音と共にその場に響き渡った。
 千鶴の腕の中で懸命に顔をめぐらせ、声のした方へ視線を向けると、銃を片手に下げた比呂が眉を寄せながら歩み寄ってくるところだった。その頬にうっすらと赤い線が走っている以外、目立った外傷は見られない。それは千鶴も同様で、レイは今更ながら安堵に口元を綻ばせた。
「ヒロ」
「坊主、無事か? この男女に襲われてないか、って今現在進行形で襲われてんな」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない、比呂。これは私なりの親愛の表現だ。お前だって見ただろう、私のレイのすごい強さを」
「って待て、いつから坊主がお前のものになったんだ」
「初めて出会ったその時からだな」
 胸を張って断言しながらも、千鶴は軍人らしく鍛えられた腕を緩め、困惑気味に立ち尽くすレイを解放してやった。比呂はげんなりと嘆息し、乱れた黒髪を手で梳いている少年を見下ろす。白皙の肌には傷一つなく、黒の軍服には返り血が飛んでいる様子もない。あまりにも戦場にそぐわない清冽な美貌に、比呂はもう一度肺を空にする勢いで溜息を吐くと、手を伸ばして柔らかな漆黒の髪をかき回した。
「まあ確かに、お前かなりでたらめな強さだったな? ガキのくせに」
「レイはあれなんだろ? 同盟の研究室で『遺伝子操作』を受けたっていう……ああもちろん、答えたくなければ答える必要はないからな? だけど私は気にしない、っていうかそれも素晴らしい個性だと思うぞ、レイ!」
 比呂と千鶴の言葉を受けて、レイはややぎこちない笑みを浮かべながら首を傾げた。
 『遺伝子操作』というのは、レイの人並みはずれた強さを周囲に納得させるために、司令官である拓馬が用いた苦しい言い訳だった。だが、拓馬はそんな理由を使いたくはなかったようで、部下たちに説明している最中も苦虫を噛み潰したような顔をしていた。それを思い出して小さく笑うと、レイは構わない、というように片手を振ってみせた。
「ありがとう、チヅル。でもどうか気にしないで欲しい。僕はこの力であなたたちと戦えることを誇りに思うし、タクのために剣を振るえることを喜ばしく思う。だから『遺伝子操作』とやらも別に気に病むことじゃないんだ、それも得難い僥倖だと思うから……じゃなくて、ええと、とても名誉なことだと思うから」
 言葉の途中で二人のポカンとした表情に気づき、レイは慌てて子供らしい笑みと口調を作った。幼い頃から統治者として生きてきたレイにとって、年相応に振舞うというのは存外難しい。それでも何とか無邪気に微笑んでみせると、千鶴は感極まったように両腕を広げ、再びほっそりとした少年の体を抱きしめた。
「かわいい……っ、何てかわいいんだレイッ!! その微妙に浮世離れした口調も大人びた笑みも壮絶にかわいいぞ!!」
「かわ……」
 初めて会った時もそう感じたが、レイは可愛い、という言葉にどうしても慣れることができなかった。王となるべくして生まれ、十にも満たない年齢で至高の座に収まり、十三で成人してから列国の王とも対等に渡り合ってきた人生の中で、可愛いなどと評されたことは一度もなかったからだろう。だからくすぐったそうに首を傾げつつ、軽く千鶴の腕を叩いてそこから抜け出すと、レイは黒玉の瞳を細めて穏やかに苦笑した。
「……何だろう、チヅルから見ればヒロさえも『かわいい』の範疇に入りそうだ」
「くぉら坊主、何しれっとして空恐ろしいこと言ってやがるんだ。っていうかな、コレにかわいいとか思われてもまったく欠片も嬉しくねえんだよ。わかれよそれくらい」
「ははは、もちろんかわいいとも。レイもこいつも、実は司令官殿もものすごくかわいいよな」
 男なんてみんなかわいいものさ、と大らかに微笑んでみせ、千鶴は実に男らしく茶色がかった髪を後ろに払った。隣で比呂がげっそりと息を吐くと、片手で顔を覆いながらあらぬ方へ視線を飛ばす。ほんの少し前まで戦闘の渦中にあり、その命を銃弾にさらしていたとは思えない光景を見やって、レイは鈴が鳴るような笑い声を立てた。
「確かに、タクは『かわいい』と評しても違和感がないかもしれないな」
「そうだろう? まあ、その中でもレイが一番かわいいがな」
 千鶴はよほどこの綺麗な少年が気に入ったのか、初めて酒場で会ってから何かと構ってくる。それは改めて拓馬に紹介された時も、信じ難い戦闘能力を目の当たりにした後も変わらなかった。あくまで自然な態度は比呂も同様で、レイはその態度を不思議に思ってしまう。嫌なわけでは決してなく、むしろ胸が痛くなるような愛しさと共に。
「あなたたちは――――……」
「うん?」
 柔らかく呟かれた声は小さすぎて、すぐ傍に立つ二人にさえ届かなかった。千鶴は首をひねって聞き返したが、レイは同じ台詞を繰り返す気はないようで、曖昧に笑いながら首を振ってみせた。
「いや、何でもないんだ。ただ、あなたたちの傍はとても心地いい。…………だから『私』は、何があってもあなたたちの優しさと強さを忘れない。いつか帰る日が来たとしても」
 レイの言葉はどこまでも透明に、風にさえも紛れてしまうそうなほど儚く響いた。
 思わず目を見張った二人が何か言うよりも早く、レイの手首につけられた携帯端末が電子音を立てて鳴った。他の軍人に支給された物とは違う、拓馬と連絡を取るためだけの通信機器だ。ほんの一瞬で硝子細工のような微笑を消し、レイは慣れない仕草で通信機のスイッチに触れると、真剣な表情でそこから流れてくる音声に耳を傾けた。機械、というもので再生された音声にはどうしても違和感を感じるが、最初のように驚いて無線を壊してしまうことはない。無線機の使い方を教わっている時、いきなり音を立て始めたそれを思わず剣で両断してしまい、頭を抱えた拓馬に説教されたのが効いたのだろう。
「……わかった。そちらへ行けばいいんだな? ……ああ、大丈夫、この基地の構造は大体わかってる。迷わないから」
 最後はやんわりと苦笑を滲ませて、レイは静かに通信を切った。そのまま様子を見守っていた二人を振りかえり、申し訳なさそうな笑顔を作ってみせる。
「すまない、これからタクのところへ行ってくる。ここはもう任せても大丈夫か?」
「ああ、もう負傷者も残ってないだろうし、残党の方もあらかた片づいたしな。まあ、しばらくはこのままだろうが……」
「っていうかお前、一人で大丈夫か?」
 何なら部下の誰かに案内させるぞ、という比呂の言葉に、レイは小さく目を見張った。子供らしい表情で何度か瞳を瞬かせ、すぐにおかしそうな笑い声を立てながら比呂を見上げる。底の見えない漆黒の双眸は痛いほどに透きとおり、じっと見つめられると現実感さえ希薄になるような気がしたが、それでもレイが浮かべた表情は年齢にふさわしく幼いものだった。
「僕はそんなに方向音痴に見えるのか? これでも方向感覚はあるつもりだ。だから大丈夫」
 そう言ってレイは優雅に身を翻し、首だけは二人の方に向けたままでふわりと笑った。
「でも、心配してくれてありがとう。また後で、ヒロ、チヅル」
 その微笑があまりにも綺麗だったためか、それとも少年の言葉が柔らかく響きすぎたためか、比呂と千鶴はとっさに答えを返すことができなかった。ただ反射的に頷く二人に不思議そうな表情を過ぎらせ、レイはそのままコンクリートの建物に向かって歩き始める。乾いた風が音もなく行きすぎ、うっとりするほど深い色彩を持った髪をそよがせた。
 華奢な後姿が入り口に吸い込まれていくのを見送ってから、千鶴は無意識のうちに詰めていた息を吐き出した。
「……びっくりしたな」
「何が」
 比呂は眉を寄せて千鶴を見やったが、その表情も心なしか固かった。それを認めてもう一度嘆息し、千鶴は解けかかった茶色の髪を無造作にかき上げると、レイが入っていった建物を見つめて瞳を細めた。
「何だかな……レイは時々、この世のものとは思えないような表情をする。そのまますぅっと透きとおって、向こう側の景色が見え始めるかと思ったぞ。いわゆる『今にも消えそうな』ってやつだ」
 冗談めかして呟きながらも、細められた茶色の双眸はどこか悲しげだった。
「まだ会ったばかりなのに、レイはいつか私たちに何も言わず、何も残さず、最初からいなかったようにここから消えてしまいそうだ。……実際はそんなことはないんだろうけどな」
「――――――うお、似合わねー、何だその少女漫画みてぇな台詞。そんなんじゃ『リバティ』一の男女の名がなくぞ、千鶴」
 比呂もその言葉に顔をしかめたが、すぐにガシガシと短く切った黒髪をかき回し、横を向きながら低く吐き捨ててみせた。
 間髪いれずに千鶴の膝が唸りを上げ、格闘技のお手本のような見事さで比呂の顎にめり込んだ。蛙が潰されたような声を立てて比呂が仰け反り、遠巻きに見ていた兵たちがぎょっと目を剥く。それに気にするな、と手を振っておいて、千鶴は顎を押さえてうずくまる同僚にひややかな視線を向けた。
「やかましい。私だってたまには感傷的なことを言う時だってある。だって私は、綺麗で優しくて強いあの子が好きだからな。……お前だってそうだろう、比呂?」
 それに対する比呂の答えは、別に否定はしねえが、という、照れ隠しのようにも響く言葉だった。






    


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