蒼穹を仰げば 3


 


 連邦側の前線基地であった『S-W』には、地雷や索敵システム、モニター、砲台などが完備されているが、兵士の居住場所としては機能していなかったらしい。壁の塗料は半ば剥げてしまい、床の隅にも埃が薄く積もっていて、レイは廊下を歩きながら形のよい眉を寄せた。
「……ここは、いわゆる烽火台(ほうかだい)や見張りの砦と同じなんだな。多くの兵が寝泊りするための場所でなく、少数で敵側を見張るための拠点なのか」
 誰にともなく呟きながら、レイはボロボロになった壁にそっと指を滑らせ、そこに付着した汚れに瞳を細めた。そこには塗料や埃だけではなく、飛び散って黒く固まった血が斑(まだら)に模様を描いている。ここで行われた戦闘の証明だ。指先が黒く染まってしまったのに苦笑を浮かべ、レイは曲がり角のたびに控えている軍人に軽く会釈し、足を速めた。
 レイを見た軍人たちは一様に体を強張らせ、畏怖の眼差しを向けながらも完璧に敬礼してみせた。同盟軍で最も力を持つ一族、通称『将軍家(ゼネラルズ)』の口利きによって特別に配属された、史上最年少にして最強の軍人。最初はその説明に顔をしかめていた者も、その圧倒的な戦闘能力を見た後では信じざるを得ないのだろう。レイはその一つ一つに頭を下げながら、拓馬がいるはずのコントロール・ルームの前で足を止めた。
「……タク?」
 コンピュータによるロックはとうに解除され、厚い二重扉は開け放ったままにされていた。そこから身を乗り出すようにして声をかけると、モニターを覗き込んでいた長身の人物が振り返り、レイの姿を認めて小さく笑った。
「レイか、入って来いよ」
 ほら、と気軽な動作で手招きされ、レイは首を傾げながらそこに足を踏み入れた。
「タク、どうかしたのか? 何か僕に用事でも?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな……ああ、お前、メシは食ったか?」
「は?」
 唐突な拓馬の言葉に、レイは虚をつかれたように漆黒の瞳を瞬かせた。拓馬はそれに苦笑を過ぎらせると、足元に置かれていたダンボールの箱を引き寄せ、その中からペットボトルと携帯食を引っ張り出した。
「そろそろ食事が配給される時間なんだよ。お前だって食わないで働きっぱなしだっただろう? 食えるうちに食っといた方がいい」
 その言葉と共に携帯食を手渡され、レイは目を見張りながらそれを受け取った。確かに朝から何も食べていないが、まさかこれを渡すためだけに呼ばれたということはないだろう。だから問いかけるような表情を作り、底のない夜の海のような瞳でじっと見上げると、拓馬は露骨に視線をそらしながらペットボトルの蓋を開けた。
「……タク」
「何だ、レイ?」
 声は平静を装っているが、もともと拓馬は嘘をつくのが上手くない。わざとらしく清涼水を呷る横顔を見つめ、レイは納得したように溜息を吐いた。
「つまり、タクは僕を一人で放っておくのが心配だったわけだな?」
 ごふっと水を喉に詰まらせ、拓馬はモニターにもたれかかるようにしながら咳き込んだ。その反応は予想外だったのか、レイは長い睫毛に縁取られた瞳を見開くと、手を伸ばして体を折った拓馬の背をさすってやる。しばらく喉を押さえて咳を繰り返し、拓馬はがっくりと肩を落としながらレイを見上げた。
「…………レイ」
「大丈夫か、タク? ……ひょっとして、僕はまた何か変なことを言ったか?」
「いや、お前はやっぱり小憎らしいくらい頭のいい子供だと思っただけだ。――――ああ、そうだよ。お前の立場はまだかなり微妙だからな。一人にしといて何かあったら嫌だろ?」
 ダークブラウンの髪をかき回しながら体を起こし、拓馬はそこで慌てたように付け足した。
「もちろん、お前のことを信用してないとかそういうんじゃないからな? ただ、目の届くところにいてくれれば色々と対処のしようもあるし、これでもお前の『雇い主』としての責任があるし、お前は誰かの部下というわけじゃないから、一人でいると点呼の時に混乱するし、な」
「タク」
 レイは小さく微笑して、言い募る拓馬の言葉をやんわりとさえぎった。手に持ったままだった携帯食をコンピュータの横に置き、眉を寄せた青年の腕を軽く叩く。
「わかってる。心配してくれたんだろう? ありがとう」
「……レイ、お前なぁ」
 乱暴にペットボトルの蓋を閉めると、拓馬は力を込めずに少年の頭をはたいた。
「いつも言ってるけどな、子供のくせに大人みたいな物言いをするんじゃない。……だいたい、周囲の目だって気持ちの良いものじゃなかっただろう?」
 まるで自分のことのように顔をしかめる拓馬に、レイはきょとんと首を傾げた。わざとではなく、一瞬だけその言葉の意味を掴み損ねたためだ。だがすぐに苦笑を浮かべると、拓馬に向かって強く首を振ってみせた。
「そんなことはない。別に強がっているわけじゃなくて、それが普通の反応だと思う。自分を一瞬で殺せる力を持った人間が、こうやって刃物を持って近くにいるんだ。怯えるなっていう方が無理だろう? タクや、ヒロやチヅルが普通ではないだけで」
「……普通じゃないってことはないだろ。お前の性格を少しでも知ってれば、お前に殺される様を想像する方が難しいだろうが」
 腰に下げた長剣を指して苦笑するレイに、拓馬は何の気負いもなくあっさりと言ってのけた。
「お前は、どっちかって言うと人を庇ってそのまま死にそうだ。お前が強いのは認めるけどな、そうやって何もかも受け入れようとはするのはやめとけ。お前はまだ子供なんだから」
 その言葉は拓馬の本心なのだろう、どこまでもまっすぐな響きを持って奏でられていった。優しい言葉にゆるく瞳を細めて、レイは顔をしかめたままの拓馬を見上げた。
「……タク」
「ん?」
「何ていうか、タクはまるで『お父さん』みたいだな」
「――――――はぁっ!?」
 ほんのわずかな沈黙をはさんでから、拓馬は素っ頓狂な声を上げてレイを見下ろした。くすくすと楽しそうな笑い声を立て、レイはひそやかな足取りで拓馬の横を通り過ぎ、モニターの横に作られた窓辺へと歩み寄る。ブラインドが下ろされたままのそこに視線を向けると、空を透かし見ようとするように漆黒の双眸を眇めた。
 換気のために開けられた窓から風が迷い込み、レイの漆黒の髪をさらさらと遊ばせる。
「僕の父上は、僕が八つの時に隣国との戦で戦死した。生きておられる間も父上は忙しかったから、あまり共に過ごした記憶はないんだ。それでも、父上が僕に言って下さった言葉は全部覚えてる」
「……」
「王は民の象徴であり、守り手であり、あらゆる感情を受け止める者でなければならない。賛辞も、羨望も、憧憬も、怒りも、憎しみも、恐れも。……そしてあらゆる望みも。心はその一つ一つに向けながら、顔だけはまっすぐに空を仰いでいなければならない。僕の家系は少し特殊で、他の人とは『違う』血が流れてるんだ。だけど、それの力で守りたい者の守り手であれるなら、向けられる恐れも忌避の目も僕にとっては誇りだと思える」
 その声も、ブラインド越しに空を仰いだ細い姿も、この世のものとは思えないほどに凛と映った。ダークブラウンの瞳を見張り、声もなく華奢な後姿を見つめる拓馬に向かって、レイは片足を軸にくるりと振り返って見せた。
「タクの言葉は父上とは逆のことを言っているけど、何でだろう。そこから感じる印象はすごく似てる。優しくて温かいというか……僕のことを思ってくれているんだな、という感じがして嬉しくなるんだ。だから、タクはまるで『お父さん』みたいだと思う」
 そう言ってにこりと笑みを浮かべたが、拓馬が無言でこちらを見つめているのに気づき、レイは困ったように首を傾げた。
「もちろん、僕が勝手にそう思ったというだけで、迷惑ならもうそんなことは言わないようにするが……」
「――――だから、お前なぁ」
 拓馬はこめかみを押さえて溜息を吐くと、おもむろにレイの隣まで歩み寄り、片手でレイの艶やかな髪をぐしゃぐしゃにかき回した。え、と目を見開く少年の頬を指先でつまみ、もう一度深く嘆息する。
「レイ、お前はおれの言ったことをわかってないな? おれは、お前に子供らしくしてくれって言ったんだぞ? ……そりゃあ、お前が今までそうやって生きてきたのはわかったし、それはすごいことだと思うけどな。お前は『レイ』だろ?」
「は?」
 頬をつままれたままで首をひねる少年に、拓馬は手を離してやりながらダークブラウンの髪をかき上げた。つねられた頬を押さえているレイを見下ろし、やれやれと言わんばかりの表情で言葉を続ける。その表情はどこか優しげだ。
「だから、お前はここでは王じゃなくて、迷子になっちまったレイっていう子供だろう? だからもっと子供らしくしてみろよ、おれは多少のわがままで怒るような心の狭い人間じゃないぞ?」
「……え」
「もう少しでいい、頼むから大人に甘えてくれ。子供にそんな立派なことを言われちまうと、大人としてはどうしたらいいかわからなくだろ」
 穏やかな苦笑を滲ませた言葉に、レイは乱されてしまった髪を整えるのも忘れて拓馬を見つめた。
 何も言わないレイに決まりが悪くなったのか、拓馬はわざと乱暴な動作で少年の髪を整えてやると、軽い音を立てて秀でた額を弾いた。いいか、としかめつらしい表情を作り、困惑したように立ち尽くすレイにダークブラウンの瞳を向ける。
「おれがお父さんみたいだって言うなら、お前はもう少し子供らしく甘えて見せろ。だいたい、おれはまだ二十五歳なんだぞ? そんな青年を捕まえてお父さんとか言ったんだ、本当だったら殴られても文句は言えない立場なんだからな、レイ」
 拓馬の言葉はあくまで明るく、冗談に紛らせるようにしてその場に響いた。
 だからレイは小さく噴き出し、肩を震わせながら拓馬と視線を合わせた。暖かなダークブラウンの色彩に自分が映るのを見て、どこかくすぐったいような気持ちになりながら瞳を細める。レイは拓馬の双眸が好きだった。そこに映るのは大軍を率いて戦場に立つ王ではなく、いつも困ったような顔して佇むただの少年だったからだ。
 その少年がくすりと口元を綻ばせ、子供らしく悪戯めいた表情を作った。
「それは申し訳なか……じゃなくて、ごめんなさい。これからは気をつけます、『お父さん』」
「――――お前も涼しい顔して言うじゃないか。よぉし、これからは気をつけろよ、『息子』!」
 一拍置いて、戦の後とは思えないほど楽しげな笑い声が響き渡り、薄く開けられた窓から空へと抜けていった。
 まるでどこまでも優しい、夢のように。






    


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