願うのは一つだけ 1


 


 少年は闇の中にいた。
 そこには上下左右の区別がなく、自分が立っているのか、何もない空中に浮かんでいるのか、それとも気づかないだけでまっ逆さまに落下しているのか、そんな単純なことさえも判断することができない。ひどく慎重な動作で足を踏み出してみると、爪先がふれた箇所から幾重にも波紋が広がり、曖昧にゆらめきながらきらきらと光を放った。まるで水の上にいるようだ、と思い、少年はもう一歩だけ足を進めてみる。やはりと言うか、下ろした足裏は闇を踏み抜いてしまうことなく、周囲に小波のような輝きを散らしただけだった。
 とりあえずは進めることに安堵し、そのままゆっくりと歩き始めながら、少年はふっと目を見張って首を傾げた。大切な何かを思い出そうとするように、どこかたどたどしく言葉を綴る。
「わたし、は」
 そこで一度言葉を切り、少年は困惑気味に眉を寄せた。簡単にわかるはずのことがなぜか理解できず、首を傾げたままで言葉を探す。その中から一つの音を拾い上げ、試すように口の端に乗せてみた。
「私は……、『レシェリクト』?」
 それは何よりも耳になじんだ響きだったが、どこからか違う、という声が聞こえた気がした。
「……それとも、ぼくは」
 秀麗な弧を描く眉を寄せたまま、少年はみずからの両手に視線を落とした。抜けるように白くありながら、剣の柄を握って固くなってしまった戦士の手だ。ぼんやりと闇の中に浮かび上がる手を握り締めて、少年は途方に暮れた子供のように小さく呟いた。
「僕は、『レイ』?」
 その音が響いた瞬間、少年はふいに動かしていた足を止めた。目の前には今まで通りの闇が広がるだけで、少年の歩みをはばむものは何一つとして存在しない。そうだというのに、少年は闇に似た色の瞳をそっと細めると、拳を作っていた手を開いて腕を伸ばした。まっすぐに眼前へと伸ばされた手は、見えない何かにさえぎられたように空中で止まる。少年の指先を拒んだのは、果てしなくどこまでも続いていく、鏡のように薄く透明な一枚の硝子だった。
 目では捉えられない壁に両手をつき、それだけでは足りないというように上半身をもたれさせ、少年はああ、と穏やかにささやいた。少年の他にそれを聞いた者はいなかったが、もしもいたなら胸がしめつけられるような思いを味わっただろう。それは納得の声であり、すべてを悟った者の呟きであり、大きすぎる痛みを堪えて凛と響くささやきだった。薄い硝子の境界線に額を押しつけて、少年は両の手のひらを固く握り締めた。
「そうか……そうだな。私は、レシェリクト。レシェリクト・フィル・デュロスだ」
 ぎゅっと瞼を閉ざしながらそう言って、少年はうっすらと口元を綻ばせた。
「そして、僕はレイだ」
 少年本人にしかわからない不思議な言い回しだった。すがるように額と拳を押しつけ、冷たくも温かくもない硝子の壁にもたれかかったまま、少年は懺悔にも似た口調で小さく言葉を続ける。聞く者などいないというのに、硝子の向こうに伝えたい誰かが立っているのだと言わんばかりの、どこまでも切なく響く声音で。
「大丈夫。……大丈夫。ちゃんとわかってる、わかっているから。忘れてないから」
 ゆるりと閉ざしていた瞼を持ち上げ、行く手をさえぎる硝子の壁から額を離すと、少年は両方の拳を当てたまま静かに微笑んだ。どれだけ力を込めても、常人とは比べ物にならない膂力で前へ押しても、透きとおったその壁は揺らぐことさえない。今はまだ、ここを通ることは許されていないのだ。そして同時に、いつかはここを通っていかなければならない、ということも少年はわかっていた。
「ずっと、だなんて望まないから」
 少年のささやきはあまりにも静かだった。周囲の闇が音もなくゆらめき、少年の言葉を歓迎するように煌きを散らしていく。少しずつ力を抜いて拳をほどくと、少年は見えない壁の表面をなぞるように指を滑らせ、どこか愛しそうに淡く微笑した。
「私のなすべきことも、寄せられた期待も、果たすべき義務も、守るべきものも。全部ちゃんと覚えてる、忘れてなんかいない。……その時から来たら、私は私の愛するもののところへ帰るから。だからどうか、待っていてほしい」
 軽く仰のき、どこかへ祈りを捧げるように呟いて、少年は細い指先を見えざる壁から離した。長い睫毛に煙る瞳をふわりと伏せながら、一歩足を引いてその場から踵を返す。足元から薄く波紋が広がり、風にゆらめく湖面のように細かな煌きを生み出した。
 少年が向かう先には眩い『光』がある。温かく、優しく、穏やかで、いつまでもその中でまどろんでいたくなるほどに柔らかな明かりだ。そして今にも壊れてしまいそうに儚い光だった。
「だから」
 少年は透きとおる闇色の瞳を和ませると、優しい光に向けて両手を伸ばした。すべてから守るように抱きしめて、瞳を閉じながらそっと呟く。こうして願うことだけは許されると信じながら。
 自分のわがままを強く責めながら。
「だから、どうか……今だけは」




 閉じた瞼から差し込む光は、すでに空の支配権が夜から朝へと移った証だった。目を開く前に片腕をかざし、両目を生まれたての朝陽からかばいながら、レイはゆっくりと重い瞼を持ち上げた。とたんに目を射る光がいつもより強いように感じて、黒玉の瞳を細めながら室内に視線をめぐらせる。
「……ああ、しまった」
 ベッドのすぐ傍にある大きな窓は、陽射しをさえぎるためのブラインドが開けっ放しになっていた。ベッドの上に上体を起こして苦笑し、レイは欠伸をかみ殺すようにして一つ伸びをする。寝癖がつくことさえない黒髪が揺れ、朝陽を反射してきらきらと光を放った。
 まれにブラインドを下ろすのを忘れてしまうのは、窓にかかっているのはカーテンだ、という思い込みが強いせいだろう。今更遅いような気がしつつも、レイは窓辺に歩み寄って垂れ下がった紐を引いた。すぐに柔らかく弱まる光に微笑し、ベッドの下に揃えられたスリッパを突っかけると、顔を洗うために洗面所へ向かった。
「それにしても……」
 夢を見たのは久しぶりだな、と呟いたレイの横顔には、穏やかな微笑と強い痛みが滲んでいた。力をこめずに両手で拳を作り、それを額に押し当てるようにして両目を閉じる。わかっているよ、というごくかすかなささやきは、誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
「僕は、レイだ」
 まるで祈るような格好のまま、レイはゆるやかに唇の端を持ち上げた。
「大丈夫。ちゃんとわかってる……わかってるよ」
 そう呟いたきり、黒髪の少年は動くことを忘れたように微動だにしなかった。ブラインドのかすかな隙間から光が差し込み、フローリングの床に明るく輝く模様を描いている。それがほんのわずかに動く頃になって、レイは額に押しつけていた両手を解くと、深い色彩の髪を揺らして何度か首を振った。
 その動作で夢の名残を振り払い、レイは寝起きとは思えない機敏な足取りで歩き出した。今日は暦の上では休日だったな、と思いつつ、頭の中で一日の予定を組み立てていく。十日ほど前に前線基地『SーW』を攻め落としたことで、同盟側は取れる戦略の選択肢を格段に増やした。そのためもあり、『リバティ』に漂う空気は慌しいものにならざるを得なかったが、いわゆる客将の身であるレイにできることなどたかがしれている。いつも通り訓練場を使わせてもらった後、食堂の方で比呂や千鶴を探すか、それとも医療施設にいる沙希に本を貸してもらおうか、と考えたところで、レイは洗面所に先客の姿を認めて目を見張った。
「タク?」
「……何だレイ、起きたのか。早いな、休日なんだからもっと寝ててもいいんだぞ?」
 タオルで顔を拭いながら、長身の青年がレイを振り返ってからりと笑った。
 レイが寝室として使っているのは、リビングやキッチンなどを備えた拓馬の私室の中で、長い間物置になっていた空き部屋だった。個室の余裕がないわけではなかったが、レイは電子レンジや炊飯器、ガスコンロなどの使い方をまるで知らなかったのだ。拓馬でなくとも、そんな人間に個室を与える気にはなれないだろう。最初は拓馬の部屋で寝泊りすることに遠慮を示したレイも、自分の生活力のなさを自覚してからは大人しくその部屋を使っていた。
「いや、今日は少し遅いくらいだ。タクも、仕事はもう大丈夫なのか?」
「ああ、とりあえずは一段落、ってところだな。今日は久しぶりに自室で寝られたよ。……お前もちゃんと寝てるか? おれがコントロール・ルームにこもりっぱなしなのをいいことに、また明け方まで起きてたりしないだろうな?」
「…………大丈夫、ちゃんと寝てる」
「だったらおれの目を見て言え! そして何だそのわざとらしい間は!!」
 すっと漆黒の瞳をそらしてあらぬ方を見るレイに、拓馬は片手を伸ばして形の良い軽く頭をはたいた。同盟で使われている共通語の勉強を始めたレイが、そのまま三日間一睡もせずに本を読みふけっていた、という事実が発覚して以来、拓馬は勤勉な少年がしっかり睡眠を取るように目を光らせている。はたかれた頭を片手で押さえ、レイはくすくすと笑いながら拓馬を見上げた。
「大丈夫。昨日はかなり早めに寝たから。……何ていうかもう、夢を見るほどにぐっすり寝たよ」
「……なんっか、お前のその笑い方はごまかしてるように見えるんだよな。まあいい、顔洗うなら早く洗っちまえよ?」
「ああ」
 体をずらして場所を空けた拓馬に、レイは『洗顔フォーム』と書かれたチューブを手に頷いた。軽く首をひねりつつ、まだどこか危なっかしい手つきでそれを使うレイを見下ろし、拓馬は小さく唇の端を持ち上げる。そのままタオルを横の棚に放り出し、着替えようとタンスのある部屋へ向かいかけたところで、ふと何かに気づいたように華奢な少年を振り返った。
「そういえば、レイ」
「……ん?」
「お前、今日何もなかったよな。ちょっと市場の方まで行かないか?」
「――――市場?」
 水道の水で泡を洗い落としてから、レイは頬を伝う水滴を拭いもせずに瞳を瞬かせた。拓馬はそれに笑みを向けると、タオルを放ってやりながら小さく頷く。
「半日くらいだけどな、ちょっと時間ができたんで買い物に行くんだ。お前も来ないか? ちゃんと街の方まで行ったことなかっただろ」
 柔らかなタオルに顔を埋め、どこまでも優雅な動作で滑らかな頬を拭いながら、美貌の少年はわずかに考えるような表情を過ぎらせた。街に行くかどうか迷っているというより、ついて行くことによって拓馬に迷惑がかかるのではないか、と考えている大人びた顔だ。それに気づいた拓馬が何かいうよりも早く、レイはそうだな、と呟いて淡く笑った。
「あまり遠慮しているとタクに怒られそうだ。……迷惑でないなら、ご一緒させてもらえるか、タク?」
 からかうようなその言葉に眉を寄せたが、もちろん拓馬に否やがあろうはずもなかった。






    


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