願うのは一つだけ 2


 


「どうだ、結構すごい人出だろ? 地元のやつらが集まる市場なんだが、意外と掘り出し物が売ってたりするんだよな」
「……すごいな」
 隣を歩きながら笑いかけた拓馬に、レイは漆黒の瞳を軽く見張って慨嘆した。広い道のいたるところに布が敷かれ、色とりどりの屋台がひしめき、食べ物から骨董品まであらゆる物が並べられている。歩道にまで溢れているダンボールや木箱など、気をつけて歩かなければ足に引っかけてしまいそうだ。いつもの迷彩服姿ではなく、大きめの白いティーシャツにジーンズという少年らしい格好で、レイは周囲に満ちた活気と喧騒に興味深げな視線を投げかけた。
「市場というと、商人たちが品物の売買をする『市場』しか知らなかった。こんな風に日常品が売ってたりするのか」
「ああ、いわゆるフリーマーケットってやつに近いかもな。売ってるのは地元の人間ばっかりだから、普通の店より気軽に値切れて便利だぞ。おれもよく利用する」
「ふりーまーけっと?」
「……あー、そうか、知らないよな。あれだ。自由市とか、そういうやつだ」
 相変わらず横文字に弱い少年に苦笑し、拓馬はほら行くぞ、と少年の背を軽く押しやった。彼の方も、白いシャツにゆったりした黒のズボン、戦闘用ではないショートブーツという、休日にふさわしいラフな私服に身を包んでいる。促されるままに前へと歩きながら、両端に並んだ店の一つに眼差しを止めて、レイは小さく感嘆の声を上げた。
「すごいな。あれは『れいぞうこ』というやつだろう? あんな大きなものを個人で売るのか、運び込むのも大変だっただろうに」
「いや、まあ……車で運ぶからそんなに大変じゃなかったと思うが、なぁ……」
 あらぬ方向を見やってぼそりと呟いた拓馬に、レイはふっと黒玉の双眸を見張った。
「車というと、あの平べったくて、大きくて、砲台のついている戦闘用の? ……なるほど、だからあの店には大きな品物がたくさん置いてあるのか。せんたくき、というやつもれいぞうこに負けず劣らず大きいし……」
「――――ああああ見てみろレイッ、あっちに食べ物が売ってるぞ! うまそうだな、そういや腹が減ったし、何か食いに行くかっ!!」
「え?」
「いいから行くぞ、ほらっ!」
 周囲から向けられる奇異の視線に気づいてしまい、拓馬は首を傾げるレイの腕を強引に引っ張ると、慌しく市場の奥に向かって歩き出した。戦車と自動車の違いくらい教えとくんだった、と脱力気味に呟き、整髪料で整えていないダークブラウンの髪をかき上げる。レイは不思議そうにそれを見上げていたが、ややあって腕を引く拓馬の手を軽く叩いて外し、生真面目な表情で口を開いた。
「タク」
「……ん?」
「ひょっとして……僕は、ここではあまり口を開かない方がいいか?」
「あー……いや。そんなことない。ただそうだな。あんまり異星人だと思われそうなことは言わない方がいいかもな」
 別に悪いことじゃないんだが、と苦笑する拓馬に、レイはあくまでも真面目な表情のままで頷いた。先ほどの自分の言葉が、周囲の一般人から見て奇妙なものだった、ということに思い至ったらしい。その頭をやや乱暴に撫でてやると、拓馬は気を取り直したように明るく微笑した。
「ま、別にいいけどな。……ああ、大丈夫だとは思うが、はぐれないように気をつけろよ? これでけっこう広いから、一度はぐれたら合流するのは大変だぞ」
「わかった。あなたについて行けばいいんだろう? もう幼い子供じゃないんだから……」
 心配しなくても大丈夫だ、と答えようとしたレイの肩に、ドンと音を立てて小柄な男がぶつかった。
 それに気づいた拓馬が振り返るより早く、レイは鋭く瞳を細めて右手を閃かせると、通り過ぎようとしていた男の手首を掴んだ。男はぎょっと目を見開いたが、そのまま信じがたいほどの力で腕を捻り上げられ、絞め殺される寸前の鶏のような声を上げて体を折る。その手を容赦なく背中に回し、レイはぞっとするほど冷ややかな声を唇から押し出した。
「……失礼、それは僕の財布だと思うんだが。それとも僕の思い違いか?」
 背中に捻り上げられた男の手から、飾り気のない革の財布がぽろりと転がり落ちた。先ほど肩がぶつかった瞬間、男がレイのポケットから抜き取った黒い財布だ。周囲は一瞬だけ水を打ったように静まり返ったが、掏りを捕まえたのが小さな少年だということに気づき、野次馬根性丸出しで周囲に集まってきた。すごいな、あんな小さな子がよく掏られなかったもんだ、と感心したように頷き合い、ことの成り行きを見守る姿勢に入っている。ここでは掏りなどめずらしくないのだ。
 いつの間にか四方を人垣で囲まれ、拓馬はこめかみを押さえながら天を仰いだ。少年に注意を促してからたった二秒でこの騒ぎである。もしかして自分は呪われているんじゃないか、という被害妄想に捕らわれながら、腕を伸ばして少年の肩を軽く叩いた。
「……レイ。どうでもいいが、そのまま握ってると折れるぞ、そいつの腕。とりあえず放してやれ。治療費を請求されても面倒だ。……財布は無事だな? 他に掏られたものは?」
「大丈夫、取られたのは財布だけだ。僕をただの子供だと甘く見てくれたらしい。この程度の腕じゃあ仕事をするのも大変だろうな、実にお粗末な手つきだった」
 怒りよりも呆れが勝った口調で呟き、少年は手の力をゆるめて男を解放してやった。つんのめるように足をもつれさせつつ、それでも身を翻してその場から逃げ出そうとした男に、拓馬はひょいとショーツブーツに包まれた片足を差し出す。当然の結果というか、男はその足につまづいて顔面からアスファルトの地面に倒れこんだ。
「……っ、くそったれ!!」
「くそったれはお前だろうが。よりにもよって軍人の連れから財布を掏ろうなんていい度胸だ。しょっぴかれる覚悟くらいはできてるんだろうな? 現行犯だぞ、お前」
「――――っ!? 軍じっ……!」
 男の顔色が目に見えて変わった。それは周囲に集まった野次馬たちも同様で、ばつが悪そうにざわめきながら近くの者と視線を交わし始める。転んだ拍子に切ってしまったのか、薄く血色の悪い唇を真っ赤に染めてわななく小男に、拓馬はわざとらしい動作で溜息を吐いた。そのまま膝を折って屈み込むと、男に視線を合わせて気さくに笑う。
「いいか。未遂に終わったわけだし、一度だけは見逃してやる。おれも今は休暇中の身だからな。ただし、もう一度見つけたらその時は容赦しない。しょっぴいて憲兵隊に突き出してやるから覚悟しとけよ」
「……っ」
 男は袖口で乱暴に唇を拭い、返事もせずに立ち上がって走り出した。肩がぶつかった野次馬の一人にどけよっ、と怒鳴り声を上げ、屈辱のためか肩を震わせて駆け去っていく。おいおい、と眉を寄せながら呟いた拓馬は、レイが黒玉の瞳でじっと自分を見つめていることに気づき、立ち上がりながら軽く首を傾げた。
「捕まえた方が良かったか?」
「いや」
 レイは黒髪を揺らして首を振ると、拓馬を見上げてふわりと微笑した。
「タクがこうした方がいい、と思って決めたことなら、僕には何も言うことはない。……あれだけ脅しておけば、もうこの付近では掏りを働くこともないだろうし」
「そうだな。まあ、こっちも掏られなかったんだし、よしとするか。――――騒がせて悪かったな! おれたちはもう行くから、あんたたちも気にしないで買い物を楽しんでくれ!」
 ざわめく野次馬たちに愛想笑いを向けてから、拓馬はレイを促して人垣を抜け出した。自然に割れた人の波に苦笑を漏らして、隣を歩く少年に肩をすくめて見せる。
「悪かったな、レイ。おれももう少し気をつけてるんだった」
「いや、僕も少し油断していたみたいだ。おかしいな、タクがあんまり子供扱いするから気が緩んだのかもしれない」
「って何だそれは。子供扱い上等だろうが、お前は子供なんだから」
 冗談めかして呟いた少年を、拓馬もしかめつらしい表情を作って肘で小突いた。
「とりあえず、何か軽いモンでも食うか。レイ、何か食べたいものはあるか? ……そういえばお前の好物って知らないな。何が好きなんだ?」
 基本的に、レイは出されたものは文句を言わずに何でも食べ、味を聞かれればにこりと笑って美味しいと答える。彼の口から嫌いという言葉を聞いたことがないせいか、拓馬はレイの好みをまるで把握していなかった。だからこそ首をひねって問いかけた拓馬に、レイは好きなもの、と呟いて瞳を瞬かせた。
「そうだな……ああ、そういえばあれはすごくおいしかった」
「あれ?」
「そう。えぇと、この前食堂で出た。黄色い中に赤いものが入ってる……確か、『オムライス』だったかな」
 あまりにも意外なその答えに、百戦錬磨の軍人は子供のような表情で両目を瞬かせた。
「……いや、それはちょっと屋台じゃ売ってないな。後で軽食屋にでも入るか」
「本当か? ありがとう」
 嬉しそうに口元を綻ばせた少年を見下ろし、拓馬は何ともいえない表情でダークブラウンの髪をかき回した。そのまま気づかれないように苦笑をかみ殺す。味覚だけは子供なんだな、というどこかしみじみとした呟きは、レイに届くことなく空気中に消えていった。






    


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