願うのは一つだけ 3


 


 そこは、「安い、早い、美味い」を謳い文句として掲げている、小さいながらも繁盛した軽食店だった。煙草の煙にすすけた壁に、歩くたびにぎしりと不穏な音を立てる木の床、いくつもの染みが浮いているテーブルクロスなど、宇宙コロニーで暮らす者なら眉をしかめそうな内装の粗末さだったが、昼時ということもあって客足が途絶える気配はない。談笑する客たちの笑い声や、にこやかに注文を復唱するウェイトレスの声が所々で弾け、店内は心地よい活気の中ににぎわっていた。
 その中でも奥まった位置のテーブルに座り、間に空になった皿を挟んだ状態で、長身の青年と小柄な少年が向き合っていた。皿の上は綺麗に空になっていたが、硝子のコップには水とオレンジジュースが満たされ、縁の部分ぎりぎりでかすかに揺れている。まだ席を立つつもりはない、という意思表示のようなそれに、初めは物言いたげにこちらを見ていたウェイトレスも諦めたようで、二人の座るテーブルに近づいて来ようとはしなかった。それに遠慮して立ち去るわけでも、ウェイトレスを呼んで追加注文するわけでもなく、青年と少年は真剣な表情で眼差しをぶつけ合う。にらみ合っている、と言った方が正しいような視線の強さで。
「……レイ」
「だめだ」
 先に口を開いたのは拓馬の方だった。間髪いれずに首を振って、レイは夜空のような漆黒の瞳を細める。
「そこまでしてもらうわけにはいかない。僕とて賃金をもらい、自分を養うために働いている立場だ……たとえ普通とは言いがたい身分だったとしても、ただの居候ではないはずだろう。あなたにそこまでしてもらう謂われはない」
「だから、どうしてそこまで小難しく考える必要があるんだ? ついでだからって言っただろうが。それとも何だ、この程度の出費がおれの負担になるとでも思うのか?」
 揺るぎない強さを持って響いた声に、拓馬も負けじとダークブラウンの瞳を据わらせた。二人が座っているのは四人がけのテーブルで、その内の二つに腰を下ろし、空いている椅子に市場で買い込んだ紙袋を積み上げている。中でも大きく膨れ上がった袋に視線を向けると、レイは描いたように形の良い眉をわずかにひそめて、硬い表情のまま拓馬に向き直った。
「そういうことを言っているわけじゃない。ただ、そこまであなたにしてもらうのは心苦しい、と言っているんだ。別に今のままでも困ることはないし、どうしても必要だと言うなら自分で代金は払う」
「だからおれの分を買うついでだった、って言ってるだろうが。だいたい、正規の軍人じゃないお前に払ってやれる賃金なんざたかが知れてるんだぞ。その分、生活に必要な物を提供するのは『雇い主』であるおれの役目なんじゃないのか? それともお前はそれさえも嫌なのか?」
「嫌だと言っているわけじゃなく、そこまでしてもらうと逆に居たたまれない、と言ってるだけだ。そもそも、生活に必要な物は十分すぎるぼどにもらっている。これ以上もらう必要はないと思うんだが」
「わからないやつだな。十分じゃないと思ったから買ったんだろうが」
 お互いの意見は平行線をたどるばかりで、どこまで行ってもいっこうに交わる気配はなかった。
 そもそもの原因は、拓馬が市場の古着市で自分の私服を購入する際、レイのためのシャツやズボンを一緒に買い込んだことだった。拓馬からすればごく自然な行動だったのだが、レイは自分で代金を払うと言って譲らず、こうして食事を取りながらにらみ合うことになったのである。拓馬は一つ溜息を吐くと、頑なな態度を崩さない少年をまっすぐに見下ろした。
「レイ」
「……」
 子供として扱われた経験が乏しいためか、レイは『大人』の顔で言い含められると途端に弱い。出会ってから一月と十日ばかりの付き合いの中で、この大人びた少年が存外押しに弱いことを悟っていた拓馬は、ここぞとばかりに視線を強めてレイの名を呼んだ。少年はそれには答えず、めずらしくも拗ねたように視線をそらす。どうやら意固地になっているようだ。
「レイ。これは、おれがお前に買ってやりたいと思ったから買ったんだ。別にお前のプライドを軽んじてるとか、自分では買えないだろうから買ってやろうとか、そういうことじゃなくてだ。それはお前にとって迷惑なことなのか? おれは余計なことをしたか?」
「そういうわけでは……っ」
 拓馬が少しばかり引く姿勢を見せると、顔を背けていたレイは慌てたように首を振った。拓馬は内心でよし、と会心の笑みを閃かせる。大人はずるいと思われるかもしれないが、十五歳の子供に言い負かされた挙句、買ってやった服の代金を払われたりしては沽券(こけん)に関わるのだ。迷うように視線をさまよわせるレイを見下ろし、拓馬は軽く唇の端を吊り上げた。
「だったら別にいいだろう? おれが買っても。だいたい、お前が着てる服だっておれや朝築のお下がりなんだぞ? 仮にも王様だったって言うんなら、もう少し身の回りのことにも気を使え。お前は自分のことに頓着しなさすぎだ」
「……そう、だろうか」
「そうだ」
 自信をこめて頷いてみせ、拓馬は満足そうに水の入ったコップを取り上げた。そのまま大らかな仕草で軽く笑い、噛んで含めるように言葉を続ける。
「だから、それはおれからお前へのプレゼントだ。素直に受け取っておけよ。子供は大人にたかって大きくなるもんだ」
「――――わかった」
 まだどこか不満げだったが、レイはようやく首を縦に振ると、そのまま自分の首元に両手を伸ばした。なんだ、と首を傾げる拓馬の視線の先で、ティーシャツの中に隠していた銀の鎖を引っ張り出し、首の後ろで留めてあった金具を外す。レイの手の中に落ちたのは、アクセサリーのそれとしてはやや太い銀の鎖と、ペンダント・トップとして通された黄金の指輪だった。 
「……レイ?」
「それじゃあ、代金の代わりにこれをもらってほしい。多分、現金に換えればかなりの値段になるはずだ。これからも金銭の面では世話になってしまうだろうが、僕にはそれを返せるだけの当てがない。だから、いざとなったらこれを現金に換えて僕の生活費にしてくれ。余った分はあなたが持っていてくれて構わないから」
「……は? いや、ちょっと待……」
「こちらに来た時に持っていたのは、この指輪と、サークレットと、剣くらいのものだったからな。剣はどうしても渡せないし、サークレットは兜代わりに使ってたからボロボロだし。これくらいしかあなたには返せないが、これでもデュロスの紋章が入った指輪だ。売ればこちらの世界でもかなりの値が……」
「って待て、待て待て、いいからちょっと待てって!」
 少年の言葉をさえぎり、拓馬は差し出された指輪をぐいと押し返した。
「……タク?」
「ちょっと待て。人の意向を無視して話を進めるんじゃない。………お前、なに馬鹿なことを言ってるんだ? おれは別に返してくれなくていい、って言ったんだぞ? なのに何でお前が物を差し出さなきゃならないんだ。しかも前に大事だって言ってたやつを」
 レイの手のひらで輝いているのは、黄金の翼に抱え込まれた青玉と翠玉、その部と分交差する精緻な剣、そして優美な弧を描く唐草模様のリングという、一目で極上のものと知れる指輪だった。持ち主であるレイが言う通り、しかるべき場所に持っていけば信じがたいほどの高値がつくだろう。間違っても古着の代金代わりにして良い品ではない。
 少年の手を押し返したままで首を振り、眉をひそめて指輪を受け取ろうとしない拓馬に、レイは黒玉の双眸をすっとすがめた。
「タク」
 性別を感じさせない声がわずかに低まり、そこに込められた威圧感を増した。思わず居住まいを正した拓馬を見上げ、レイは淡々と、だが同時に強い決意を感じさせる口調で口を開く。
「これが僕のぎりぎりの譲歩だ。この指輪を受け取ってもらえないなら、僕もあなたに色々な物を買ってもらうわけにはいかない。僕はこの世界では子供かもしれないし、あなたの庇護下にある一市民かもしれないが、もらうだけの立場に甘んじているのは誇りが許さない。……それが、生意気な意見だというのはわかっているんだが。だからどうか、返せる分は返すことを許してほしい。僕はあなたと可能な限り対等な立場にいたいんだ」
 それは、子供じみたプライドに拘泥しているわけでも、大人である拓馬に反発しているわけでもない、誰よりも誇りを重んじる王者の言葉だった。漆黒の双眸は深い光を湛え、ただまっすぐにダークブラウンの瞳を見上げている。この意志だけは曲げるつもりはない、ということを示すように。しばらく無言で視線を合わせていたが、やがて諦めたように大きく溜息を吐くと、拓馬は片手でダークブラウンの髪をかき回した。
「……わかったよ」
 降参だ、と軽く両手を上げて、拓馬は少年の手から鎖に通された指輪を受け取った。黄金に輝くそれを手のひらで転がし、その細工の見事さにもう一度嘆息する。
「受け取ればいいんだろう、受け取れば。それでどうしようもなくなったら、これを金に換えてお前の生活費にする。……それでいいか、レイ?」
「ああ。ありがとう、タク。わがままを言ってすまない」
 王者としての威圧感を霧散させ、レイは煙るような美貌を淡く微笑に綻ばせた。それに小さく苦笑を過ぎらせながら、不器用な手つきで銀の鎖を首にかけると、拓馬はひどく慎重な動作で指輪をシャツに落とし込む。確かめるようにその上から胸元を押さえて、やれやれとばかりに肩をすくめてみせた。
「これでいいですか、国王様?」
「……何でだろう、あなたに敬語を使われるとすごく奇妙な気分だ」
 敬語には慣れてるはずなのに、と不思議そうに首をひねって、レイはオレンジジュースで満たされたコップを引き寄せた。この子供向けの飲料が気に入ったのか、どこか幸せそうな表情で硝子の縁に口をつける。オレンジジュースさえ優雅に飲み干してみせる少年に、拓馬も呆れたように笑いながら水のグラスを傾けた。
「それじゃ、飲み終わったら出るか。……さすがに、これ以上居座ると次に来た時にらまれちまいそうだ」
「わかった。長居をしすぎてしまったな。店員には申し訳なかった」
 生真面目な表情で頷くと、レイは空になった硝子のコップをテーブルに戻し、わざわざお絞りを手にとって丁寧に目の前をぬぐった。几帳面な少年の様子に軽く目を見張って、拓馬も飲み終えたコップを皿の上に重ねる。
「ああ、忘れ物しないように気をつけろよ。それと荷物一つ持ってくれ。そこのやつ」
「大丈夫だ。――――あ」
 拓馬に続いて立ち上がり、椅子の上から紙袋を一つ抱え上げたところで、レイは何かに気づいたように漆黒の瞳を瞬かせた。どうした、と首を傾げる拓馬に小さく笑みを向け、空いている方の手をテーブル上の皿へと伸ばす。レイの白い指がそっとつまみ上げたのは、子供用のオムライスの上にちょこんと突き立てられていた、可愛らしい爪楊枝の旗だった。






    


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