明け方に見た夢のように 2


 


 沙希のもとを辞し、慌しい空気に包まれた軍病院を出ると、レイは冷たい冬の風にそっと目を細めた。
 少しずつ夕暮れ時が近づいているためか、温度の下がった風はいくぶん透明感を増したように感じられる。乱された黒髪を片手でおさえて、レイは形の良い唇に苦笑をきざんだ。
「変なこと言ってサキを困らせてしまったな。……守りたいというのは、嘘ではないんだが」
 それは僕だけが自覚していればいいことだったな、と苦笑交じりに呟き、レイは首だけで病院の建物を振り返った。そこで仕事に戻ったはずの軍医と、大らかで暖かい女軍人と、口は悪いが親しみやすい男と、誰よりもお人よしで優しい保護者の青年を思い浮かべて、黒玉の瞳が柔らかな笑みに和む。
「大丈夫、あなたたちは死なせないよ。僕のすべてを持って守るから」
 それはレイの祈りであり、誓いであり、何があってもゆずれない願いだった。
 レイの識見と武勇を指して「誰よりも王にふさわしい」と言い、喪失を許容しようとしない精神を指して「誰よりも王にふさわしくない」と評したのは誰だったろう。力強く、慈悲深く、愛情と戒めに満ちていた言葉を思い出して、レイは唇の動きだけで小さく言葉を綴った。わかってるよ、と。
「僕は、あなたたちにとってはよそ者に過ぎないけど。そのまま通り過ぎていくには、少しあなたたちを好きになりすぎてしまったみたいだ。これはやっぱり傲慢かな。……タク」
 そう言って感傷の名残を追いやり、さらさらと黒髪を揺らして首を振ると、レイは病院に背を向けて歩みを再開した。冷ややかな風が吹きつけ、透きとおるような白い肌を撫でていく。暖房になじんだ肌には心地よい冷気だった。
 そのまま部屋へ帰るつもりだったのだが、数歩も行かないうちに奇妙な物音が鼓膜を打ち、レイはその場で立ち止まることになった。
「……?」
 ゆっくりとめぐらせた視線の先に、植え込みの奥で向かい合っている二つの人影を認め、黒髪の少年はかすかに淡麗な眉を寄せた。和やかに談笑しているわけではないらしく、二つの影は互いの襟元を締め上げ、それを振り払うために肩を突き飛ばし、ひどく憎々しげな罵声を交わし合っている。一方はひょろりとした体型の青年、もう一方は金色の髪をした見上げるほどの大男だった。
「……トウドウ中尉?」
 大柄な男に眼差しをとめ、レイは軽く漆黒の双眸を見開いた。男と何やら言い争いをしているのは、数ヶ月前に酒場でレイに絡んできたあげく、首筋にコンバットナイフを突きつけられた藤堂(トウドウ)中尉だった。今は酔ってはいないようだが、いかつい顔は怒気によって赤く染まり、もともといかつい顔がさらに凶悪な雰囲気を強めている。向かい合っている男も似たり寄ったりな表情だ。
「――――……ザケてんじゃねぇぞ、テメェ」
「ふざけてんのはアンタの方だろうがよ、えぇ? 臆病モンを臆病モンって言って何が悪いんだよ、怒るのは図星の証拠じゃねぇか。見苦しいんだよ」
「んだとコラァッ!?」
 藤堂が太い腕を振り上げ、針金のようにほっそりとした男に掴みかかった。両者の対格差は歴然としていたが、藤堂が素手で殴りかかったのに対し、男は背中に回した右手に歪んだ鉄パイプを握り締めている。その事実に気づいた瞬間、レイは考えるよりも早く植え込みを飛び越え、藤堂を背に庇うようにして二人の間に滑り込んでいた。ガッという鈍い音が響き、振り下ろされた鉄パイプが細い腕に阻まれる。かざした腕で重い一撃を受け止め、片手をひねってパイプを掴むと、レイは愕然と目を見張る男の手からそれをもぎ取った。すべての動作にかかった時間は二秒にも満たない。
 突然乱入してきた少年に、二人の男は間抜けな表情で目と口を丸くした。
「……事情は知らないが、ここは病院の施設内だ。武器を振り回していい場所じゃないだろう。仮にも軍事にたずさわる者が取っていい行動じゃないはずだ、少しはわきまえたらどうだ?」
 声もなく立ち尽くしている男を見上げて、レイは片手を下ろしながら冷然と言い切った。
「ケンカをするなら別の場所でしろ。病院で働く軍医や、この基地の司令官に迷惑をかけるつもりなら許さない。……あなたもだ、トウドウ中尉」
 ちらりと見返った夜空色の瞳に、歴戦の軍人たる藤堂は言葉を失った。それは細身の男も同様で、口の中で何かをもごもごと呟きつつ、針のように細い両目をそらしている。あるいは『将軍家(セネラルズ)から特別に派遣されてきた少年士官』の勇名を知っていたのかもしれない。二人の様子に溜息を吐くと、レイは冷たい眼光をやや緩めた。
「続けるつもりがないなら帰れ。もうこんなことをしない、と確約するなら、このことは司令官に報告もしない。どうする?」
 その言葉が合図となったのか、男は弾かれたように敬礼すると、藤堂を睨んでから細い体を翻した。植え込みを大きくを迂回し、ばたばたと忙しない足取りで軍病院の施設から遠ざかっていく。その後姿が完全に見えなくなったところで、レイは背後に佇んだままの藤堂を振りかえった。
「ケンカの理由は聞かない方がいいだろうか、トウドウ中尉?」
「……お前、じゃない、貴官が、なんでこんなところに?」
 非常に歯切れの悪い口調だった。レイに対して負い目があるのだろう、藤堂は漆黒の瞳をまともに見ようともしない。それに対して小さく笑うと、頭二つ分ほど高い位置にある両目をまっすぐに見つめ、レイはまとう空気をふわりと和らげた。
「別に呼び方を改める必要はないし、以前のことならもう怒っていない。こちらの方こそ、あの時はナイフを突きつけたりして悪かった。どうやら僕も酔っていたようなんだ。許して欲しい」
「……は? あ、いや……」
「だが、酔ってもいないのに荒事に関わるのは感心しない。こんな子供に従うのは癪(しゃく)だろうが、もうしないと約束してもらえないだろうが? そうでないと司令官に報告する必要が出てきてしまうから」
 いたずらっぽく笑って首を傾げたレイに、藤堂はポカン、としか形容のできない表情で瞳を瞬かせた。何と答えるべきが迷ったようだが、やがて荒っぽい動作で金色の髪をかき上げると、綺麗に微笑んでいる少年を困ったように見下ろす。口をついて出た言葉は当たり障りのないものだった。
「その、腕は大丈夫か? さっき受け止めたろ、あの鉄パイプ」
「ああ。これくらいなら大丈夫だ。あまり力も入ってないようだったから。……それよりも、答えを聞かせてくれないか? いつまでもこんなところで話ているわけにもいかないだろう?」
 くすりと小さな笑い声を立てると、レイは藤堂を促して歩き始めた。困惑気味に首をひねりつつ、少年に従って藤堂も足を踏み出す。悪いやつじゃないんだが、と以前千鶴が言っていた通り、付き合い方さえ間違えなければ善良な男であるようだ。
「……悪かったよ。あのヤロウがおれのことを臆病者って言うもんだから、ついカーッとなっちまってな。もうしねぇ、約束する」
「臆病者? ……どういう流れでそうなったのかはわからないが、ある意味ケンカの常套(じょうとう)文句ではあるな。あの男は戦場に行ってたのか?」
「ああ。あのヤロウはおれの顔なじみなんだがな、戦場でお気に入りの部下を死なせちまったんだと。で、わざわざおれが慰めてやったってのに、『お前になにがわかる、戦場にも出てねー臆病モンが!』って逆ギレしやがって……」
「そうか」
 それに対して何か言うわけでもなく、レイは風がさざめくように笑って視線を前に戻した。
 戦闘に出ているのは主に下士官だが、リバティは戦闘要員の少ない基地である。最近の戦いは小規模とはいえ、将官が戦場に赴かねばならない場合も多い。あの男も指揮官として戦場に出されたのだろう。
 静かに凪いだ横顔を見下ろし、藤堂はたくましい指で自分の頬をかいた。
「なんつーかよぉ、お前、変なガキだな」
「そうか? よく言われるんだが、困ったことに自覚はないんだ。子供らしい可愛げが足りないのかもしれない」
「や、そういうわけじゃねぇけど。奇妙なくらい大人っぽいし、えらく強いしよ。普通のガキ、っつーか人間とは思え……」
 そこでふいに言葉を切ったのは、この少年が『遺伝子操作を受けた強化人間』であるという説明を思い出し、無骨な藤堂なりに慌てて自制した結果だろう。だが少年は淡く笑うと、そうかもしれない、と呟いて藤堂を振り仰いだ。
「僕は普通の人間とは少し違う。それは事実だし、否定するつもりもない」
「……」
「それに、僕はこの力を疎ましいものだと思ったことはない。だからあなたたちが気を使う必要はないんだ、どうか普通にしていてほしい」
 イデンシソウサというのは建前だし、と声に出さずに続け、レイは藤堂を見上げたまま足を止めた。眼前には開け放たれた石造りの門があり、ここで軍病院の敷地が終わることを示している。
「それじゃ、僕は基地の官舎の方に戻るから、これで。……ああ、司令官には報告しないから安心してくれ」
「あ、いや……」
 どもりながら頷く藤堂を見つめ、にこりと人懐こい微笑を浮かべてみせると、レイはもう一度それじゃ、とささやいて踵を返した。ひんやりとした風が吹きすぎ、服の裾と艶やかな黒髪をそよがせていく。藤堂はしばらくためらうように視線を泳がせていたが、すぐにだぁっと短く叫んで髪をかき回し、遠ざかる華奢な後姿に向かって声を張り上げた。
「おい、お前!!」
 驚いたように振り返り、小さく首を傾げる少年に向かって、藤堂はどこか照れたように視線をそらした。
「この前……あの酒場では、絡んだりして悪かったな!」
 綺麗な黒い瞳が見開かれた。まさか改めて謝罪されるとは思わなかったのか、整った面差しに年相応の驚愕が浮かぶ。やっぱり言わないほうがよかったか、と頭を抱えかけた藤堂に、見たこともないほど澄んだ笑みが向けられたのはその時だった。
「いいや。気にしないでくれ、トウドウ中尉」
 それだけを言って軽く会釈し、レイは今度こそ藤堂に背を向けて歩き出した。その動きに合わせて黒髪が流れ、風の中にさらさらと涼しげな音を立てる。その軌跡を目で追いながら、藤堂は肺を空にする勢いで溜息を吐いた。
 名前を聞くの忘れちまったな、という呟きは、遠ざかっていく少年に届く前に風にさらわれた。






    


inserted by FC2 system