明け方に見た夢のように 3


 


 宿舎の長い廊下を歩き、自室のドアの前に立った時点で、天城拓馬の機嫌は最悪だった。
 何かと気苦労の多い拓馬だが、自室にまで不機嫌を引きずることはほとんどない。数ヶ月前に奇妙な少年を拾い、自分の部屋に住まわせるようになってからは、前にも増して疲労や怒りを持ち込まないように気を使っていた。レイという少年は他人の感情に聡く、子供のくせに大人を気遣い、自分の感情を押し殺す術を知っている。もっと子供らしくしろ、と常に口うるさく注意している以上、よけいに心配させるような真似はしたくなかった。ここまでくると大人の意地だ。
「……くそ、まずいな」
 だが、世の中にはその意地さえ覆してしまう事態が存在する。ガシガシとダークブラウンの髪をかき回し、拓馬は口の動きだけで低く吐き捨てた。このまま乱暴にドアを蹴り開け、怒りにまかせて酒を呷り、ベッドに身を投げて眠ってしまえば楽なのだろうが、そんなことをすれば人一倍気の回るあの少年が心配するだろう。冗談じゃない、と至極真面目に考えてしまうあたり、彼は自分で思っているよりもレイに甘いのかもしれない。
「……まあ、仕方ないよな、こればっかりは」
 諦めたようにもう一度嘆息し、拓馬は慎重な動作でドアノブを握った。夜遅いということもあって、音を立てないように注意しながらそれを回す。
「レイ、まだ起きてるか?」
 つとめて明るい声を出し、後ろ手でドアを閉めながら視線を上げたところで、拓馬はぎょっとしたように切れ長の瞳を見開いた。
「レイ?」
「…………おかえり、タク」
 いつもならば椅子に腰かけ、沙希から借りてきた本を読みふけっているか、あてがわれた寝室で剣を磨いているか、大人しくベッドにもぐりこんで眠っている美貌の少年が、申し訳なさそうな表情を浮かべて拓馬を見つめていた。その手に握られている卵用のフライパンに気づき、拓馬はさらに大きく目を見張る。
「何だ、レイ。どうした?」
「……すまない、タク」
「だからどうした? 何でお前がフライパンなんか持って……」
 拓馬がそこで言葉を切ったのは、レイが無言でフライパンを掲げ、その上に乗っているものを指で示したからだ。首を傾げながらそれを覗きこみ、拓馬は軽く眉を寄せる。そこにこびりついていたのは純粋な炭だった。それ以上でもそれ以下でもない、ただの真っ黒で焦げくさい消し炭。何でこんなものが、と口にしかけ、拓馬ははっとしたようにレイの顔を見た。黒玉の瞳がわずかにそらされる。
「お前、焦がしたのか?」
「……」
「こらレイ、顔を背けるな。お前、火を使ったのか? それでこれを……まあ、何かはわからないが、焦がして真っ黒にしちまったと?」
「……すまない」
 フライパンの柄を両手で握り、レイは子供っぽい仕草でわずかにうなだれた。
「その、前にサキに借りた本に、料理の仕方というものがあって。僕は料理などしたことはないし、この世界のキカイというものもよくわからないが、火を使って温め直すくらいなら危険はないだろう、と思って」
「で?」
「それで、その、昨日タクが作ってくれた玉子焼き、というやつがレイゾウイコに入っていただろう? それを温め直そうとしたら……」
「こうなったんだな」
「……ああ」
 呆れ顔の拓馬を見上げ、レイは黒髪を揺らしながら首を傾げた。拓馬を伺う動作は子供らしいものだが、浮かんだ表情は失態を悔やむ大人のそれに近い。
「すまなかった、タク。せっかくあなたが作ってくれた食物を無駄にしてしまったし、この器具も焦げつかせてしまった。そろそろタクが戻ってくる時間だから、あなたに軽く何かを食べてもらおうと思ったんだが」
「……は?」
「これは責任持って僕が洗うから、タクは気にしないでほしい。……多分、ものすごい勢いで火が出た瞬間に消したから、そこまで大事には至ってない、と思う。もしも駄目そうだったら、僕が市まで新しい物を買いにいくから……」
「いや、待て、ちょっと待て。……レイ、お前、おれに食べさせるためにあっためようとしたのか? 自分が食べたかったわけじゃなく?」
 軽く手を上げてレイの言葉をさえぎり、拓馬は驚いたようにダークブラウンの瞳を丸くした。レイが不思議そうな表情を閃かせる。
「ああ、タクは部屋に戻ってくると、いつも何かを温め直して食べてるだろう? だからたまには僕がやろう、と思ったんだが……」
 逆に手間を増やしただけだった、と苦笑と共に呟き、レイは丁寧な動作で頭を下げてみせた。
「本当にすまない。一つ間違えれば火事になるところだった。これからはあなたのいない時に勝手な真似はしない。だから……その、タク?」
 何も言わない拓馬に不安を覚えたのか、どこかおどおどした口調で名前を呼ぶ少年に、拓馬はこらえきれない、と言わんばかりの表情でぷっと吹き出した。片手に顔を埋めながら笑い声を立て、もう一方の手を伸ばしてレイの黒髪を乱暴に撫でる。美貌の少年は夜空色の瞳を見開いた。
「……タ、タク?」
「いや……お前、かわいいことするなぁ、ったく」
「は?」
「いや、いい。別にいいさ、フライパンだってそうそう使うわけじゃないし、玉子焼きだって放っておいたら腐っちまうしな。その気持ちだけで十分だ」
「……だが」
「いいって。ほら、フライパン貸せ。洗うのは明日でいいだろ。とりあえず水につけておくから」
 レイの手から強引にフライパンを奪い、長身を翻してキッチンに向かいながら、拓馬はくすぶっていた苛立ちが収まっていくのを感じた。完全に消えてしまったわけではないが、この程度ならじきに跡形もなく消えてなくなるだろう。
「レイ、お茶でも飲むか? ああ、カフェインで寝られなくなる体質じゃないよな?」
 フライパンを流しに放り込み、蛇口をひねって水を出すと、そのまま横に置いてあるティーポットを手に取った。どこにでもありそうな陶製のポットだが、以前はこの部屋に存在していなかったものである。ごそごそと紅茶のティーバックを探しつつ、困惑気味に立ち尽くしている少年に視線を向け、拓馬は問いかけるようにポットを掲げてみせた。レイは慌てたように首を横に振る。
「いや、タクは疲れてるんだろう? それくらいなら僕が」
「いいって。お前の気遣いに対するお礼だよ。ありがとな、レイ」
 そう言って明るく笑った拓馬に、レイは漆黒の双眸を大きく見開いた。想像もしなかった言葉を聞いた、というように。初めて出会った時からそうだったが、レイは子供として扱われるとひどく戸惑い、大人が愛情を見せると隠し切れない驚きを露にする。育ってきた環境のためか、それとも他に理由があるのか。思わず首をひねる拓馬を見やり、レイは大輪の花が咲きこぼれるように柔らかく微笑した。
「やっぱり、タクは優しいな。本当に『お父さん』みたいだ」
「あー、前もそんなこと言ってたな。おれはまだ二十五歳だぞ、二十五歳」
 苦笑をこぼしながらティーポットに湯を注ぎ、蓋をしめて少しの間蒸らす。ティーバックなのだからこだわるのも馬鹿らしいが、少しでも味の良いものを淹れようとする大人の見栄だ。シンプルな白のカップと、それよりも一回り小さな水色のマグカップに紅茶を入れ、大人しく座っているレイの前に置く。少年は笑顔のままでそれを受け取った。
「そうか、タクは二十五歳か。……そういえば、僕の父上もそれくらいだったな。だからよけいにそう見えるのかもしれない」
「はっ!? ――――っておい、お前の父親がその……亡くなったのっていつだ!?」
「ん? 僕が八歳の時だから、今から七年前、かな?」
「ってことは…………十七の時の子なのかっ、お前!?」
「ああ、そうなるな」
 それがどうかしたのか、と不思議そうに問い返して、レイは湯気の立つカップに唇を寄せた。拓馬は思わず間抜けな表情を浮かべ、まじまじと黒髪の少年を見つめてしまう。平均寿命が伸び、連邦、同盟を問わず晩婚化が進んでいる現在、十七で子供を作る男などまずいないだろう。拓馬が驚いたのも無理からぬことだった。
「はー……さすが王様、ってことか? おれなんかまだ独身だけどな、こっちの世界じゃ別に遅いわけじゃないんだぞ」
「わかってるよ。いくら王族は早婚とはいえ、僕の父と母はずいぶん早かったみたいだからな。父が十六、母が十五の時に結婚したらしい。……まあ、母はもともと病弱な方だったようで、僕が五歳の時に病気で他界してしまったんだが」
「……」
「あ、だけどすぐに第二妃だった方が正妃になって、事実上僕の義母になって下さったし、周囲の廷臣(ていしん)たちも優れた人たちばかりだったから。別に不自由やさみしさを感じたことはないんだ」
 だからそんな顔しないでくれ、と言って笑うレイの表情は、嘘や虚勢のいっさい感じられない晴れやかなものだった。だからこそ胸を刺す痛みを感じて、拓馬は深い色彩の瞳をわずかに細める。
「……母親、か」
 唇の端を持ち上げてゆるく苦笑し、拓馬はぽんぽん、と軽くレイの頭をはたいた。
「おれの母親もな、おれがずいぶん小さいガキの時に死んだんだ。親父はまあ……かなり偉いとこのボンボンだったらしいんだが、お袋とはずっと前に離婚してたらしい。だからおれの天城(てんじょう)っていう姓はお袋のものなんだ」
「……そうなのか」
「ああ、そのせいで色々と面倒くさいことにもなってるんだがな」
 そこで拓馬の口調が沈んだことに気づき、素直に頭を撫でられていたレイは瞳を瞬かせた。
「めんどうなこと?」
「ああ……いや、なんでもない。まあ、この若さで司令官をやってる理由、だな。おれの家庭の事情は」
 自嘲気味に響いた言葉のせいか、忘れかけていた苛立ちが腹の底によみがえってしまい、拓馬は苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。先ほどまで画面越しに見てた金髪、通信機器を通して聞こえる低いバリトン、皮肉げに細められた青い瞳を思い出して、眉間に深い皺が刻まれるのを感じる。苛立ちの理由はたった一つの通信だった。下された命令の内容を反芻し、忌々しげな表情で眉を寄せる拓馬を見遣って、レイはカップを両手で包み込むようにしながら首を傾げた。
「タク?」
「あ、……ああいや、なんでもないって。ちょっと仕事で面白くないことがあっただけだ、気にするな」
 ごまかすように手を振った拓馬に、レイはそうか、と呟いただけでカップに視線を戻した。この少年はいつもこうだ。踏み込まれたくない部分には決して触れず、ごまかしを暴くこともせず、ごく自然な動作で数歩後ろに引いてみせる。すべてを受け入れる穏やかな表情で。両手を広げて優しく笑いながら、その手に縋るかどうかは相手の判断に任せている態度で。
「お前は……」
「ん?」
「いや、なんでもない。あぁ、おかわりはいるか? もう一杯分くらいなら残ってるぞ、紅茶」
 だからこそ拓馬もやんわりと苦笑を浮かべ、テーブルの上から陶器のポットを持ち上げた。わざと軽い動作でゆすってみせると、中からちゃぷちゃぷというかすかな水音が響く。子供のような仕草に淡く笑みをこぼし、レイは空に近くなったマグカップをそっと差し出した。
「じゃあもう一杯だけ」
「ああ。これ飲んだら夜更かししないでちゃんと寝ろよ?」
「わかってるよ。怖い『お父さん』もいることだし」
「……前から思ってたんだが、お前もなかなか言うじゃないか。わかってるなら普段も夜更かししないで早く寝ろ! 朝だって早いんだからな!」
 少年の頭を軽く小突いてみせ、拓馬は唇の端で小さく笑った。レイも楽しげな表情でくすくすと笑う。
 目覚める寸前の夢のように淡く、優しく、穏やかなこの時間が少しでも長く続けばいい。どこかで終わりの気配を感じながら、拓馬は強く願わずにはいられなかった。






    


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