光あれ 1


 


 拓馬が目を覚ました時、周囲は朝とも夜とも断言できない、実にあいまいな薄暗がりの中に沈んでいた。
 腹筋の力だけで上体を持ち上げ、拓馬は眠気を払うために大きく伸びをした。とたんに膝の上からブランケットが滑り落ち、コントロール・ルームの床の上に音もなく広がる。それをぼんやりと視線で追って、拓馬は下りようとする瞼を叱咤するように瞬きを繰り返した。
「……ああ」
 仮眠用のベッドで寝ちまったのか、と小さく呟き、拓馬はベッドの下に置かれたブーツを手に取った。両足に軽くつっかけ、ダークブラウンの髪を片手で梳きながら立ち上がる。
 室内に満ちているのはごく淡い闇だった。じきに太陽が眠りから覚め、東の空からゆっくりと顔を出し、あたり一面を眩い朝の光で染め上げるだろう。拓馬はブラインドの下ろされた窓に視線を向け、今はまだ夜の支配下にある景色を透かし見た。
 早朝と呼ぶのもおこがましい時間のためか、普段は兵士たちであふれている訓練場も、整備士たちがあわただしく動き回っているヘリポートも、薄れていく闇の中でひどく静かなたたずまいを見せていた。もう一度寝直す気にはなれず、拓馬は皺だらけになってしまったシャツを片手で引っ張り、溜息を吐きながらコントロール・ルームのドアへと向かった。スライド式のドアがシュン、と音を立て、この基地の司令官を廊下へ送り出す。
「くそ、ろくな仮眠も取れなかったな。セシルのせいで」
 苛立ったように低く吐き捨て、拓馬は人気のない通路を一人で歩いていく。短いささやきは静寂の中に溶けていった。
 たった三人での会合のあと、リバティの主だった士官が会議室に集められ、改めてセシルから敵軍基地『レーヴェ』奪取の命令が伝えられた。部下たちの驚愕に満ちた表情を思い出し、拓馬は片手でガシガシと髪をかき回す。やや西よりに作られた連邦軍の基地『レーヴェ』は、拓馬が司令官をつとめる同盟の『リバティ』同様、第十三地区制圧の拠点となる恒久的な軍事施設だった。そんなに簡単に落とせるかよ、と低く舌打ちし、拓馬は駐車スペースとつながっている裏口から外へ出た。
 身を切るような冷たい風が吹きぬけ、拓馬のダークブラウンの髪を思い切り乱していった。
「寒っ……」
 思わず小さな声を上げ、拓馬は薄手のシャツに包まれた両腕をさすった。白いシャツに軍服のズボン、素足につっかけたショートブーツにという格好では軽装すぎたらしく、拓馬の全身をひんやりとした冷気が撫で上げていく。
「……こんな中で進軍するのは大変だな。D・B・Lは突破できても、レーヴェに潜入するのははっきり言って命がけだ」
 冗談じゃない、と言わんばかりに顔をしかめ、拓馬はシャツの襟をかき合わせながら駐車スペースを歩き出した。寒さは容赦なく体温を奪っていくが、せっかく出てきたのに部屋へ帰る気にはなれず、見回りついでに訓練用の周回コースに足を向ける。
 戦いには拓馬自らおもむくつもりだった。自身が銃をたずさえて戦地に向かい、白兵戦の最中に身をさらす覚悟がなければ、『ゼネラルズ』の縁者というだけで基地を預かることなど出来るはずもない。命を天秤に乗せる覚悟はとうに出来ていたが、拓馬は苦々しい表情で一つ溜息を吐いた。
 あの強く、優しく、他人を守るために傷だらけになって戦っている少年を、ゼネラルズや同盟軍上層部の陰謀に巻き込みたくなかった。レイはいつものように柔らかく笑い、大丈夫だと言って剣を振るって見せるだろう。人間離れした力を惜しみなく見せつけ、他者から忌避の目を向けられても凛とした強さを失わないだろう。それが誰よりもわかるからこそ、拓馬は痛みを堪えるように形の良い眉をひそめた。
「……レイは、子供なのにな。まだ、たった十五歳の」
 拓馬の呟きを風がさらい、薄闇にけむる訓練場へ運び去っていく。乱れたままの髪に手をやり、風の吹きぬけていく方角を目で追ったところで、拓馬はふっと濃い色彩の瞳を見開いた。
 夜が明ける前の冷たい風に、拓馬のものとは違う漆黒の髪が音もなく揺れていた。よく目を凝らさなければ見えないほどの距離があるが、軍人にしては低い背に華奢な体躯、遠目にも艶やかな黒髪、そして腰に下げられた細長い『剣』の存在を認め、拓馬は驚きの表情を保ったまま周回コースを歩き出す。
 地面がコンクリートから敷き詰められた土に代わり、まばらに生えた木々が影を落とす場所に立っていたのは、薄い部屋着に身を包んだ黒髪の少年だった。
「レ……」
 反射的に少年の名を呼びかけ、拓馬は大気を揺らす歌声に気づいて言葉を飲み込んだ。
 薄暗がりの中にゆったりと響いているのは、同盟と連邦の共通語で綴られている歌だった。宇宙コロニーや居住惑星の住人なら誰もが知っているだろう、数十年前から愛され続けているシンガーのデビュー曲。それを危なげのない調子で口ずさみ、挑むように顎を持ち上げて、レイはひたすら未明の空を見つめ続けていた。まさに口ずさむ、という表現がしっくりくるほど何気ない様子だが、歌声は驚くほど強く、美しく、透明な響きを伴い、薄闇の中に至上の旋律を紡ぎ出している。
 拓馬はほんのわずかに瞳を細めた。切ない恋を歌っている歌詞とは裏腹に、レイの漆黒の双眸に冴え冴えとした光が揺れ、仰のいた横顔をひどく近寄りがたいものにしていたからだ。穏やかな表情と研ぎ澄まされた眼差し、澄んだ歌声と峻厳な横顔のギャップに驚きながら、拓馬は声をかけてはいけないような気がして呼吸を止める。神聖な儀式を見守るように。
「……――――」
 やがて東の空にまばゆい光がせり上がり、朝日の最初の一滴が少年の上に投げかけられた。黒髪が光に洗われて輝きを強め、白い肌に鮮やかな赤みがさし、漆黒の双眸が明るさに焦がれるようにして細められる。一曲分を歌い終えたのか、それとも途中で口ずさむのをやめたのか、空気を揺らしていた歌声が光の中に柔らかく溶けて消えた。
 泣きたくなるほど壮麗な光景の中、何かに気づいたように少年の肩が揺れ、光に縁取られた美貌が拓馬を振り返った。黒玉の瞳が小さく見開かれる。
「――――タク?」
 その声が合図となったように、周囲に漂っていた非現実的な空気が霧散した。拓馬はほっと息をつく。
「レイ」
 壊れそうな硝子細工の微笑を浮かべていても、絶対的な王者の表情で佇んでいても、拓馬と向き合う時だけはレイの顔に『子供らしさ』が浮かぶ。拓馬はその事実が意外なほど嬉しかった。苦笑を浮かべながら歩み寄ってくる拓馬に、レイはしまった、と言わんばかりの表情で首をすくめる。こんな時間に建物を抜け出し、薄い部屋着のままで歌を口ずさんでいたのを、過保護で心配性な青年に叱られるとでも思ったのだろう。
「……タク」
「……っておい、何だその顔は。あんまりあからさまに『まずい』って顔されると逆に勘ぐりたくなるぞ? まさかずっとここにいたのか?」
 口元に浮かべた苦笑を強め、拓馬は手を伸ばしてレイの頭をくしゃりと撫でた。手触りの良い黒髪はひんやりと冷えていたが、頬や唇の赤みが失われていないのを確認し、これなら風邪を引くこともないだろう、と一人で胸を撫で下ろす。レイは首をすくめたままで軽く笑い、頭を撫でてくる青年に漆黒の瞳を向けた。
「ずっと、というわけじゃないよ。早く目が覚めてしまったから、皆が起き出してくる前に散歩でもしようかと思って」
 タクも部屋にいないみたいだったし、と悪戯っぽく続けたレイに、拓馬は軽い動作で肩をすくめた。
「おれはコントロール・ルームの仮眠室で寝てたからな。ベッドが硬かったせいか、おれもこんな時間に目が覚めちまった」
「それでタクも散歩に?」
「ああ、まあそんなところだ。――――まさかお前がいるとは思わなかったけどな。あの歌は誰に教わったんだ?」
 何とはなしに隣へ並び、白い息を吐き出しながら拓馬が問いかけると、レイは黒い瞳を細めて淡く笑った。
「千鶴が貸してくれたんだ。丸くて薄い、音楽が聞ける…………しーでぃー、だったかな。それに入ってた曲がとても綺麗で気に入ったから」
「ああ、CDな。何だ、お前歌が好きだったのか?」
 さっきのはびっくりするほど上手かったけどな、と何のてらいもなく笑った拓馬に、レイは驚いた表情で目を丸くした。不思議そうに瞳を瞬かせ、髪を揺らしながら小さく首を傾げる。
「上手かった、か? 確かに歌舞音曲(かぶおんぎょく)の類は幼い頃から叩き込まれたし、歌うのも好きだが……」
「好きだが?」
「……自分が上手いのかどうかはよくわからない。周囲の者はみな誉めてくれたが、僕の周りにはもっと上手い人しかいなかったし、自分の未熟さは自分が一番よくわかるし。……だから、僕はどちらかというと下手なんじゃないかと思うんだが」
「……」
 何とも言えない顔で沈黙した拓馬を見やり、レイは慌てたように片手を振った。
「あ、でも、タクが上手いと言ってくれたのはとても嬉しいし、光栄なことだと思う。誰も聞いていないと思って、すごく適当に歌ってただけなんだが……えぇと、タク?」
「……なんつーか、お前って」
 眉を寄せながら首を振り、拓馬は肺を空にする勢いで溜息を吐いた。レイの言う『もっと上手い人たち』とは、恐らく歌うのを専門とする歌い手や、世界でも最高峰と見なされる音楽家、あるいは人々に人々に楽曲を教える者たちを指すのだろう。比べる対象が悪すぎるだろ、と胸中に一人ごちて、拓馬は指先でレイの額をつついた。
「本当に自己認識がおかしいことになってるよな。おれも音楽に造詣が深いわけじゃないが、それでもお前の歌が上手い、ってことくらいはわかったぞ?」
「……そうだろうか」
「ああ、すごく上手かった。寝起きに聞くにはぴったりな歌だな。ものすごくいい気分になれたぞ」
 苦笑しながら断言してみせると、レイはつつかれた額を片手でおさえ、照れたようにかすかな笑みを作った。漆黒の瞳が純粋な喜色に輝く。大好きな親に誉められた幼子のように。
「……ありがとう、タク」
 胸が痛くなるほど綺麗な笑みを見つめ、拓馬は気づかれないようにひっそりと息を吐いた。レイの精神は成熟した大人のそれだが、本人が望んで『子供らしさ』を捨て去ったわけではないのだろう。どうしようもない状況の中、周囲の大人たちに王であることを望まれ、自分でも気がつかないうちに子供としての弱さを手放していったのだ。それを重荷と感じるには強すぎ、大人になり切ってしまうには弱すぎた少年に、拓馬はゆるく唇の端を持ち上げて微笑してみせた。
「どういたしまして、レイ」
 相変わらず早朝の風が冷たかったが、寒さを一切感じさせない表情で大らかに笑い、拓馬はレイの黒髪を優しくかき回した。






    


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