その剣の名を覚えているか。


 


双剣の名


 


 色褪せた荒野の直中に、切り裂くように強く風が吹いていた。
 とたんに血臭が吹き散らかされ、折れて突き立った剣の飾り紐が宙に翻った。そこに生きている者の気配はない。ただ屍が鮮血の池に倒れふす戦場の中、砂塵の立ちこめる大気を揺らして風が吹いていた。
 それを受けて、ゆるりと剣を持ち上げた影があった。そこにある命の存在を示すように。
「…………まだ、生きてるか?」
「かろうじて、な」
 けほ、と血の混じった吐息を漏らしながら、男は傷だらけの甲冑を鳴らして背後に問いかけた。それと背中合わせに立った青年が、同じように甲冑を傷と血に彩らせて苦笑を漏らす。二人が手にした剣は、切っ先から柄頭にいたるまでべっとりと赤く染められていた。
「そうか。………それは重畳、だな」
 始まる前から、勝ち目がないと言われていた戦だった。王国とは名ばかりの小国と、近隣諸国を併呑して勢力を増しつつあった大国と。天下を覇を競い合うには、あまりにも双方の兵力には差がありすぎた。小国の王が世に冠絶するほどの器を持ち、それに心酔して従う二人の騎士の存在がなければ、戦にもならないまま天下の行く末は決まっていただろう。
 王国の双剣と讃えられる、誰よりも強く忠実なる二人の騎士の存在がなかったならば。
 敵味方の区別なく大地を埋めた屍に、男は流れ出る血によって霞む瞳を細めてみせた。軽い笑いの気配を悟ったのか、青年がつられて切れた唇に微笑を浮かべる。そのまま血に染まった白い手で剣を持ち上げると、青年はそっとその柄に唇を寄せた。
 柄の模様に口づけた唇から、つ……と一筋、赤い雫が滴り落ちる。
「………だが、我が君は、大丈夫であろうな」
「あ?」
「お前がいれば、大丈夫であろうな………」
 何かを感じて振り返ろうとした男の背から、不意にかかっていた重さが消えた。青年が剣に縋って地に膝をついたのだ。バタバタ……という不穏な音が響いて、時ならぬ赤い雨が足元の地面を黒く染め上げた。
「………っ」
 反射的に手を伸ばして支えようとした男は、だが上げられた眼差しの強さに動きを止めた。
 払いのける手よりなお強く、何より真っ直ぐな揺ぎ無い眼差しに。
 響いた、声に。
「双剣の誓いを覚えているか?」
 中途半端に伸ばされた腕に縋ろうともせず、青年は血にまみれた面差しに笑みを浮かべてみせた。男がふっと目を見張る。それを視界に収めることもせず、青年はゆっくりと瞼を伏せて繰り返した。
 覚えているか、と。
「我ら、たとえ一つの刃が折れ果てようと」
「…………双剣の刃が、折れぬ限り」
 ぐ、と唇をかみ締めて答えた男に満足したように、青年はもう一度かすかに微笑した。最期にうっすらと開かれた瞳が、立ち尽くす男を捉えて柔らかく、そして不敵に細められる。男がそれを確かめる暇もなく、柄を握り締めていた青年の手が離れ、甲冑に包まれた体が音もなく傾いだ。
 叫ぶこともできずに伸ばされた手をすり抜けて。


「我ら双剣は、ただ我が君の御ために」

 
 ドサリ、という奇妙に重い音を立てて、青年の体が大地に倒れこんだ。血まみれの剣が荒野を転がり、男の爪先に当たって動きを止める。まるで剣を差し出すように。後は任せた、というように。
「………ああ、そうだな」
 男の喉がひきつった笑い声を漏らした。受け止められなかった手を宙で握り締め、大地に落ちた青年の剣を拾い上げる。何の衝撃も受けてないような、傷の存在さえ忘れてしまうほどの気軽な動作で、笑いながら。
「そうだな。あんたの言うとおりだ」
 軽い音を立てて腕に巻いた布を裂き、それで剣の柄を手に固定する。己のそれも同様に。両手に双剣を持って、男は遠くから聞こえ始めた馬蹄の轟きに視線を放った。
 味方のものではないことを知りながら、一片の恐れも絶望も見られない笑顔で。
「友よ」
 少しずつ友の亡骸から離れ、ゆったりとした歩みから早足、そして疾走へと速度を変えていく。向かう先は敵陣の直中だ。徒歩で騎兵を全滅させる必要などない。ただ本陣が到着するまでの時間がかせげればいいのだ。それが双剣の騎士の、残った最期の役目なのだから。
 屍の群れにも歩みを妨げられず、男は天に向かって凛と叫んだ。
 それはどこか、神に捧げる貴い宣誓にも似ていた。
「我が君の作る新たな時代に、殺戮の道具たる剣はいらぬ!!」
 ならばただ、この身は戦場で果てるのみ。
 荒野に轟き渡るようなその叫びは、間髪入れずに響いた剣戟の音の中に紛れて消えていった。



「…………陛下、陛下っ! どうぞお戻りを!!」
 必死に訴えてくる従僕に、王は「何故だ?」と、すでに何度目かも知れぬ呟きを漏らした。
 野営用の天幕を張るために平らにならされ、幾多の護衛たちに囲まれた戦場の荒野。そこを足早に進みながら、王は威厳に溢れた容貌に微笑を滲ませた。物分りの悪い臣下を哀れむように。
「陛下……っ、我が軍の勝利は、すべて双剣の両将軍がもたらし給うたもの! それは陛下もおわかりのはずにございましょう、ならばせめてっ」
 せめてご遺体なりとも対面し、労いの玉音を、と主張する従僕の男性に、だが王は低く喉を鳴らして首を振った。
 その笑みのあまりの力強さに、取りすがって叫んでいた男性は絶句する。
 王はそれにさえも取り合わず、全く歩みを緩めることもせずに空を仰いだ。夕陽が滲む天は、まるで戦闘のさなかに流された鮮血の証のようだ。ゆったりとその双眸を細めて、王はもう再び小さく首を振った。
「わからぬか」
 低い声音が、黄昏の静寂を揺らして響いた。
「わからぬのか、魂のない器に対面しても意味などない。そして平和な時に剣はいらぬ」


 諸人よ。
 強く強く戦場にあった、その剣の名を覚えているか。


「我ら生き残った者はただ、その名を歴史に語るのみ」


 忘れずにいるがいい。
 流された血を。
 消えていった命たちを。
 刻み込まれた、誇り高きその名を。


「そして『ご苦労であった』と、彼らが還ったであろう天へと労いを送るのみだ」


 その剣の名を覚えているか。
 戦場に折れ果てた刃の名を、覚えているか。


「振るわれた剣の軌跡は、一つも違わず我が覚えておるゆえな」
 その言葉に声を失い、まるで雷に打たれたかのように頭を垂れた従僕は、仰のいた王の頬を一筋だけ伝った透明な流れに、ついに気づくことは出来なかった。
 唇に浮かべられた微笑は、ほんのかすかにも揺るがないまま。
 黒い大地に落ちた、たった一滴の透き通る涙に。


 忘れずにいるがいい、諸人よ。
 歴史に刻まれた、その剣の名を。
 高き、双剣の輝きを。








inserted by FC2 system