ひかり恋い


 
 

 その日は朝から雨が降っていた。
 雨よけの外套を襟元でかきあわせ、寒気を振り払うように太い首を振ると、男は眉を寄せながら夜空を見上げた。濃い灰色に塗りつぶされた空は沈鬱で、月や星の光を完全にさえぎってしまっている。所々に灯された明かりの存在がなければ、降り続ける雨さえ闇に紛れて見えなくなってしまうだろう。男は首を振って前髪から雫を払い落とし、外套を被りなおして足を速めた。
「……ったく、こんな夜更けに呼び出しかよ。勘弁してほしいな」
 うんざりしたように低い声で呟き、腰に下げた大振りの剣に視線を落とすと、男は薄い茶色の瞳を細めながら溜息を吐いた。
 一目で値打ち物だとわかる剣の柄には、大きく翼を広げた鳥の紋章が刻み込まれ、街灯の明かりに金色の輝きを散らしていた。『翼の国』フェルトラードの紋章だ。国に仕える騎士である以上、国王の呼び出しには何があっても駆けつけなければならないが、寝台の温もりを思うと未練がましく溜息が出る。
(まあ、主と国を失った俺みたいな騎士を、こうして迎え入れてくれた国だしな。文句を言ったら失礼に当たるし……それに)
 自分自身に言い聞かせるように胸中で呟き、男はどこか懐かしげに瞳を細めた。
(この国へ俺たちを逃がしてくれた、あの方たちに会わせる顔がないよな)
 男が生まれた国はフェルトラードではなく、今は地図上から消えてしまった王国だった。積年の敵であった国に攻め入られ、たった一夜で滅んでしまった黄金の王国。まだ二十歳にも満たない年齢であり、騎士とは名ばかりの少年兵であった男は、戦争の最中に民を守って故国を後にしたのだ。逃がされた、と言った方が正しいかもしれない。そしてそのまま、男は二度と故郷へ帰ることができなかった。
「……―――陛下」
 口の中でだけとはいえ、その名を呟くと今だ胸の奥がひどく痛む。
 強く、明るく、優しく、子供のようでありながら誰よりも王らしい王だった。新兵だった彼は遠巻きに見ているしかなかったが、初陣の後、たった一度だけ肩を叩いてくれた力強い手が忘れられない。かの王のためならば死すら厭わなかったのに、なぜあの時逃げることを選んだのだろう。今でもそうやって自問することがあったが、その度に思い出すのは燃えるように鮮やかな夕陽と、剣を片手に佇んでいた華奢な後姿だった。
(…………あの人、は)
 埒もない思考に沈み込みそうになり、男はゆっくりと頭を振った。ぱらぱらと散っていく水滴がうっとうしくて、いっそこのまま濡れていこうかと外套に手をかける。この細い道を抜ければすぐに王城だ。前方に見え始めた城門に安堵の息を吐き、外套を後ろに追いやってしまおうと手に力を込めたところで、ふいにすぐ傍で水の跳ねる音がした。
 え、と慌てて顔を上げた時にはすでに遅く、前から歩いてきた人物と肩がぶつかってしまい、男は情けなくたたらを踏んだ。
「あ、悪……」
「すまない、大丈夫か?」
 悪い、と男が謝罪の言葉を口にするより早く、凛とした声が夜気を震わせた。高くも低くもない、どこまでも清冽で透明な声音。雨よけの外套をすっぽりと被り、目元から足までを覆ってしまっているが、そこから覗く口元や手は陶器のように真っ白だ。思わず息を呑むような美しさだったが、体つきに丸みも柔らかさも見られないことから、女性ではなくまだ若い青年だろうと判断する。
「いや、こちらこそ。ぼんやりしてた、悪い」
「雨の夜は視界が悪いからな、気をつけた方がいい」
「ああ、そうするよ。悪かった」
 男は照れたように苦笑し、外套から零れ落ちる黒髪をかき上げた。青年もそれを見て淡く笑う。たったそれだけの仕草で、暗く沈んでいた大気が匂やかに色づいたように感じた。
「それじゃ」
 青年はゆるく唇の端を持ち上げたまま、優雅な動作で会釈をして足を踏み出した。男とは反対の方向へ。風が柔らかく行きすぎ、青年と男のまとう外套をそよがせていく。雨の中ですれ違う瞬間、青年は一度だけ顔を上げて男を見上げ、あらわになった双眸を細めて笑みを作った。
 それは声を上げて泣きたくなるほど綺麗な、人間には決して作れないと確信できるような、光を思わせる透きとおった笑顔だった。
「…………あ」
 男は大きく瞳を見開き、弾かれたように背後を振り返った。一瞬の間に見えた瞳の色を、夜目にも鮮やかに映った稀有な美貌を、一筋だけ零れ落ちて煌いた純金色の髪を、もう一度その目で確かめようとしたのだ。それはあまりにも見覚えのありすぎる、脳裏に刻み込まれて消えないものと同じであったから。
 だか、振り返ったそこには銀色の雨が降り続いているだけで、求めた姿を見出すことはできなかった。
(あなたは……)
 冷たい空気だけが、ただ柔らかくゆるんだように感じられた。男はほんのわずかに瞳を細め、人気のない通りにゆっくりと視線を走らせる。確かにあったはずの光を探して。恋しい何かを追い求めるようにして。
(……変わらない)
 視界に映るのは夜の街並みだけだったが、黒く塗りつぶされた闇の中に、優しい金色の光が差し込んだような気がした。




 神々に愛された大陸、レーヴァテインにはこんな伝説が残っている。
 今から十年以上も昔、大陸に名だたる二つの強国が一夜にして滅んだ。一方は戦争の末に攻め滅ぼされ、勝者であるはずのもう一方の国は降り注ぐ流星に打たれて。滅ぼされた国が神の寵愛を受けていたため、それを滅ぼした国も天の怒りを買ってしまったのだろう、とまことしやかに語られている。
 人々は知らない。神に愛されていたのは滅ぼされた王国ではなく、たった一人の青年だったということを。その青年が滅びゆく王国で王と出会い、永遠の友情を誓ったことを。侵略者である国を滅ぼしたいくつもの流星は、青年が友へと捧げる弔いであったことを。
 人々は知らない。知っているのはごく小数の、伝説の自分の目で確かめた者たちだけである。









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