銀の戦姫 ぎんのいくさひめ


 

 白々と輝く月でさえゆったりとまどろむ、穏やかな夜だった。
 どこかで梟が立てる鳴き声が静寂を震わせ、それに呼応するように梢が身じろぎをする。吹き抜けていく風も、それに揺らされる泉の湖面も、必要以上の音を立てないように動きをゆるめる。誰もが無意識のうちに足音を忍ばせていながら、それが不思議と息苦しさには繋がらない、どこまでも心地よい静謐な夜半だった。
「……――」
 豪奢な寝台に半身を沈み込ませ、現実と眠りの狭間をゆらゆらと漂っていたジアは、ふいに奇妙な感覚を覚えて瞼を持ち上げた。そこに満ちるのは静けさだけで、彼の眠りをさまたげるようなものは何一つとして存在していない。だが、ジアは真っ白なシーツに手を突いて体を起こし、慎重な動作でサイドテーブルに置かれた剣に手を伸ばした。
「――――――刺客、か?」
 それは直感のようなものだった。ジアでなければ気づくことなく、そのまま心地よい夢の中へと誘われていたかもしれない。それほどかすかな違和感に眉を寄せながら、ジアは何もない宙に向かって低く呟いた。
 その瞬間のことだった。
 闇が震えた。遠くに聞こえていた梢の音も、梟が気ままにさえずる声も一瞬で消え去り、ただ風もないのに空気が揺れる。淡い光だけに照らされていた暗がりに、一本だけ引いた線のように亀裂が走る。音もなく柔らかな絹を裂くように。あるいは、張ったばかりの薄氷に容赦なく刃を入れるように。それが瞬時に広がり、くるくると闇と光を入れ替え、やがて闇を圧して光がその場の支配者となった。その奇妙すぎる空間の変化を、刹那にも満たない時間のうちにジアは認識した。
「…………っ!?」
 反射的に剣を抜き放って掲げたのは、ジアが幾多の戦場を経験してきた戦士であったからだろう。片手でかざした長剣の刃に、何の前触れもなく光の凝りが振り下ろされた。キィンッ、という金属同士を打ちつける澄んだ音が響く。ありえない重さと衝撃に歯を食いしばりながら、ジアは愕然として琥珀色の双眸を見開いた。
 そこに『いた』のは、ひそやかな闇と煌く光の化身だった。
 周囲に弾けた光の中に、夜闇をそのまま切り取ったような長い黒髪が踊る。闇の色をしながら確かに輝くそれに、本当に光を発しているのではないか、と思うほどに透きとおった白い肌。袖のない形の純白の衣装から伸びる、しなやかな素足と腕。長い睫毛に煙ながら清冽に輝く、うっすらと色づいた銀色の瞳。細い手に、やはり細身の剣を握ってジアに切りかかってきたのは、数瞬前まではいなかったはずの女性だった。
 いや、女性というよりは少女といった方がふさわしいだろう。作り物かと疑うほど整った顔はまだ幼く、体は細く、胸のふくらみもまだ成熟しきるには至っていない。その幼さすら魅力の一つに変えてしまうほど、ひどく美しい顔立ちをした少女だった。ジアも、こんな状況でなければ思わず見惚れていたに違いない。
 だが、夜中に何もない空中から出現し、何の予備動作もなく剣で切りかかってくるような存在が、ただ美しいだけのまともな人間であるはずがなかった。
 痺れを訴えてくる手に顔をしかめると、ジアは一息に剣を振り抜いた。噛み合ったままだった刃が離れ、少女は綺麗に宙で一転して絨毯の上に着地する。まっすぐに伸ばされた夜空色の髪が、その動きに合わせてまるで羽のように零れ落ちた。
「――――――やるじゃないか」
 ふと、張り詰めていた空気が匂やかに色づいた。
 白い肌に白い衣装、白金色に煌き渡る剣を手にした黒髪の少女が、淡く赤みの差した唇を笑みの形に吊り上げたのだ。ジアは虚つかれて瞳を瞬かせた。今まで数多くの刺客に襲われてきたが、それに誉められたことなど一度もない。何て妙な刺客なんだ、と思ったとしても、ジアの思考を暢気だと責めるのは酷というものだろう。そうでなくとも彼の神経は太いのである。
 そんなジアには構わず、少女は楽しげに笑ったままで剣を鞘に戻した。剣帯に吊るされた鞘は、右と左に一つずつ。だが、少女が使ったのは右の一本だけだった。
「ジア・ウィグリース。『月女神の王国』シルバーレイドの王位継承者、第三十七代国王だな」
「…………いかにもそうだが。妙なことを聞くもんだな? それくらい調べはついてるだろうに、まさか俺が王だと知らずに襲ったのか?」
 それじゃあ刺客失格だぞ、とまじめくさって呟くジアに、少女は軽く銀の瞳を見張った。その反応は予想外だったのが、すぐにもう一度口元を綻ばせる。楽しくて仕方がない、というように。
「ずいぶんと肝の据わった王様だな、まあ、それくらいじゃなけりゃあ父君や母君の目にとまるはずもないが。…………とりあえず、誤解を解いておこうか。私はお前の命を狙いに来た刺客じゃない」
「いきなり切りかかってきてそういうことを言うか?」
「別にお前を殺そうとしたわけじゃないさ。言うならば……そうだな、試験のようなものだ」
「試験?」
「そう、試験。お前が本当に『ふさわしい』かどうか、私にも見極める権利くらいあると思ったからな」
 まるで要領を得ない答えに、ジアは訝しげに首をひねった。なぜ不審者と悠長に会話しているか、という疑問が脳裏をかすめたが、不思議と大声を上げて護衛を呼ぼうとは思わない。この奇妙な少女に興味を引かれたのである。
「一体何の試験だっていうんだ? 別に、誰かに試験をしてくれと頼んだつもりはないんだが」
 ジアの言葉を受けて、少女はにこりと鋭い笑みを浮かべてみせた。
「それはそうだろ。別にお前の望みでここに来ているわけじゃないんだから。いいか、ジア・ウィグリース。聞き漏らさないようにちゃんと聞いてろよ。――――私は、お前を『助ける』ためにここに来た」
「助ける?」
「そうだ。つまり、このいたるところで戦の頻発している大陸で、お前の国とお前を生き永らえさせるために。それが私の父君と母君、至高神ルカと戦女神リジアの望みだ」
「………………は?」
 ジアは素っ頓狂な声を上げて目を見張った。少女が突如として大陸中で祀られている至高の神と、それに準する戦女神の名を持ち出したからである。しかも両者をさして『父君、母君』とは、誇大妄想というのもおこがましいほどの言葉だった。先ほど、何もない空間から少女が『出現する』瞬間を見ていなければ、ジアとて馬鹿馬鹿しいの一言で相手にしなかっただろう。
 だが、少女はここに『いる』のだ。
 国中でもっとも厳しい警備の敷かれた、国王の居住である城の寝室に。
「父君も母君もすいぶんと気まぐれでな。人々の営みには不干渉が原則なんだが、気に入った女性をたぶらかして孕ませてみたり、美しくて強い若者に寵を与えて英雄にしてやったりと、娘の私の目からみても『おいおいおい』なことをしまくりなんだ。で、今度は人界に無数ある国の一つ、月女神の王国シルバーレイドの王がいたくお気に召したらしい。………つまり、お前だな。三十を越えたばかりの若年にして、大国の古狸に一歩もひけを取らない識見と政治の能力。戦士としても申し分ない武勇。何より、特に母君が好きそうな荒っぽい感じの美男子だしな」
「………………」
「で、娘たる私が遣わされて来て、お前の国が滅ぼされないように手を貸すことになった、というわけだ。ああ、どうでもいいけど怒るなよ? 『嘘をつくな!』とかお約束なことを言われてもうっとうしいし、『神の力など借りん』と言われても帰るわけにはいかないからな。私には拒否権はなかったんだ、忌々しいことに」
「……………いや、おい」
「まあ、あまりにも弱いやつを助けるのは嫌だったから、少しばかり試させてもらったけどな。それで殺されるような腑抜けだったら、うっかり事故で殺っちゃった、ってことにして帰るつもりだったんだ。結果としては合格だったがな」
 ジアに口を挟む暇を与えずに喋り続け、少女は輝くような笑みを浮かべた。そのまま舞うように王へ近づくと、ほっそりとした手を伸ばして高い位置にある頬をはさむ。
「私もお前が気に入った。顔もなかり好みの範疇に入ってるし、何よりその魂と精神のあり方がとても気高い。だから私がお前を守り、お前の国を磐石のものにしてやる。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
 ジアは唖然として少女の話を聞いていたが、銀色の双眸に覗き込まれ、ふいに我に返った。
 次の瞬間にジアが取った行動は、神の娘である少女の予想さえ超えたものだった。彫刻のような手に顔をはさまれたままで噴き出し、堪えきれないというように体を折って笑い始めたのである。少女の方が目を見張るほどの、爆笑といっても差しつかえのない勢いで。低い笑い声に混じって、「何だそれは」、「すごい言い分だ」といった言葉が切れ切れに聞こえる。やがて、心ゆくまで笑って満足したのか、ジアはまだ肩を震わせながらも顔を上げた。
「………それは、すごいな。俺は神々の目にかなってしまったわけか」
「ああ、そういうことになるな」
「それで、お前が俺のもとで、俺のために戦ってくれると?」
「そうだ」
「――――――光栄の至りだ」
 ジアは少女の手を外させると、銀色の瞳を見下ろして小さく笑った。
「あいにくと、俺は無骨者でな。こういう場合にふさわしいような、気の利いた台詞は思いつかん。だが、お前が俺に力を貸してくれるというなら、俺の方にそれを拒む理由はない。喜んで迎えさせてもらうさ、神の娘」
 何の気負いもなく響いた声に、少女は意外なものを見るような表情を作った。拒まれるとでも思っていたのか、拍子抜けした、とその顔は語っている。だがすぐに銀の瞳を和ませると、少女は左右の鞘から美しい片手剣を抜き放ち、ジアの前に掲げてみせた。
「よく言った、ジア・ウィグリース。神が認めた貴き王よ。これから、お前とこの国にふりかかる災いのすべてが消えるまで、私はお前のために生き、お前のために戦い、お前のために振るわれる一振りの剣となろう。神々が鍛えた我が剣にかけて。ジア・ウィグリースに、その時がくるまで決して揺るがぬ忠誠と、友愛を誓う」
 それは、武将が戦女神に捧げる宣誓のようだった。心地よさげに瞳を細めると、シルバーレイドの王はゆったりとした動作で頷いてみせた。
「感謝する、神の娘。…………ああ、お前の名を聞いても構わないか? それとも名などないのか?」
 途端に現実的なことが気になり出したようで、ジアは少女を見下ろしながら首を傾げた。いつまでも神の娘、では呼びにくいと思ったのだ。それにふわりと笑みを浮かべると、少女はまっすぐに背筋を伸ばして口を開いた。
「シス」
 透明でありながらどこまでも煌びやかな、硝子細工の声だった。
「シス・リングラージェ。お前の、剣だ」
 そして剣の切っ先のような、甘さを拒む鋭くも強い音だった。



 数多の小国が乱立する戦乱の時代。
 さして大きくもなかった『月女神の王国』シルバーレイドは、数十回にわたる戦のすべてに勝利し、大国と呼ばれる国家の侵略をことごとく退けて、ついにルカ大陸から戦火を絶やすことに成功する。
 国王の名はジア・ウィグリース。その隣には常に美しい戦女神の姿があり、王が天寿をまっとうして息絶えるその瞬間まで、決して傍を離れることはなかったという。
 これは、歴史が伝説になる前の、はじまりの物語。









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