剣ではなく、楯となる者よ。




楯の誇り


 


 目の前に迫った刃を剣で薙ぎ払い、男は間髪いれずに相手の喉下へ切っ先を走らせた。敵兵は喉を深く貫かれてのけぞったが、代わりに長剣の刃が半ばからへし折れ、落日の光を反射しながら荒野に突き刺さる。男は低く舌打ちし、剣の柄で背後から襲ってきた兵士を殴り飛ばすと、落ちていた矢を拾い上げてその胸に振り下ろした。
 耳障りな悲鳴が響き渡り、それに追従するようにして鮮血が噴き上がった。乾き切った大気をうるおすように。
「………っ」
 頬に飛んだ返り血を無造作にぬぐい、男はどさりと音を立ててその場に座り込んだ。崩れかけた石の壁に背を預け、赤く染まった夕暮れの空に視線を向ける。
「……まいったな。馬に続いて剣も、か」
 空を仰いだまま低く呟き、男は折れてしまった長剣を目の高さに掲げた。刀身は血でべっとりと汚れ、降りしきる夕日を受けて禍々しい輝きを浮かび上がらせている。返り血のようにも、自分の血のようにも、夕日の照り返しのようにも見える赤さを見つめて、男は喉の奥で低く笑い声を立てた。
 任された部隊はほとんど散り散りになり、彼自身も馬と剣を失ってしまったが、主君に任された『囮』の使命は果たされたといってよかった。敵軍の大部分が男の陽動作戦に引っかかり、こうして戦場となった荒野に無残な屍をさらしているのだから。
「ま、仕方ないといえば仕方ないな。こんな危険な仕事をためらいなく任せられるのは、あの敵が多い『あいつ』には俺くらいしかしないだろ」
 ゆっくりと息を吐き出し、男は血まみれの甲冑を鳴らしながら立ち上がった。引き締まった痩身が夕日に照らし出され、踏み固められた大地に黒々とした影が落ちる。やや癖のある黒髪に黒い瞳、泥に汚れながらも精悍な顔立ち、薄手の甲冑を包まれた鋼を思わせる体躯の、見るからに戦場慣れした雰囲気の持ち主だった。年の頃は二十代後半から三十代前半あたりだろうが、見苦しくない程度に無精ひげが伸ばされ、老成した微笑とも相まって年齢を判断しづらくしている。
 泥と血にまみれた頬を指でこすり、男は半ばほどでへし折れた剣を握りなおした。
「……だからまだ、疲れたからって寝るわけにはいかないよな」
 ひどく気軽な口調で呟き、背後から聞こえてきた怒号にうっすらと笑う。男の手元に残っているのは折れた剣のみだったが、まだ主君に託された任務は果たしきれていなかった。可能な限り敵の目を引きつけておかねばならないのだ。王の率いる部隊が敵の本体に到達するまで。彼の主君が戦場を制するまで。
 振り向きざまに折れた長剣を振るい、男は迫ってきた歩兵の顔面にそれを叩きつけた。ひるんだ隙に間合いへ飛び込み、相手の手から剣をもぎ取ると、惚れ惚れするような動作で刃を一閃する。とたんに剣戟と悲鳴がその場の支配者となった。迷いのない動きでその中を駆けながら、男は黒い瞳を細めて薄く笑ってみせた。




『あ? 今回の陽動作戦は俺に任せるって? 俺以外に信頼できるヤツはいないのかよ、お前』
『戯言をぬかすな。貴様ごとき、囮に使ってもまったく心が傷まぬというだけだ』
『んだよ、照れるなよ。いいぜ、立派に務めを果たしてきてやる。たとえこの剣が折れてもな』




 肩を切られるのと引き換えに相手の剣を弾き飛ばし、がら空きになった急所へためらいなく刃を突き立てる。その隙に背後から斬りつけられたが、寸前で体をひねって致命傷は避け、体勢を崩した相手へ剣を振り下ろす。全身を生温かい血で濡らしながら、最後まで男の動きが鈍ることはなかった。それ以外の動作を忘れてしまったように。




『馬鹿なことを。お前は剣を振るしか能のない人間だろう。剣の折れたお前に何の価値があると?』
『あるさ』



 
 ドッというくぐもった音を立てて、男の脇腹に剣の切っ先がねじこまれた。男はその場でたたらを踏んだが、そのまま屍となって倒れ込みはせず、歯を食いしばるようにして手にした剣を旋回させる。男に斬りかかった歩兵が首を半ばまで切断され、糸の切れた人形のように血みどろの荒野へ崩れ落ちた。一拍遅れて男も膝をつく。




『剣が折れても、武器のすべてを失っても、俺にはまだこの体がある。この体はお前の楯になる。お前のもっとも近くにいて、お前を刃から守る強固な楯に』




 それをまたとない好機と見たのか、残っていた歩兵たちが色めきたち、膝をついた男に向かって殺到してきた。風を裂いて振り下ろされる刃を見つめ、男は口元に力強い微笑を刻む。
 深紅の血を噴きあがらせて倒れたのは、男ではなく剣を手にした歩兵たちだった。




『俺はお前の剣じゃない。お前の楯だ。それを忘れるなよ』




「―――なにをしている」
 戦場には似つかわしくない静かな声に、男は脇腹を押さえながらゆっくりと視線を持ち上げた。夕日を背にした影を見つめ、黒い瞳が笑みに細められる。
「よう」
「よう、ではない、馬鹿者。お前はこんなところで何をしている?」
 目の覚めるような白馬にまたがり、ひややかな目で男を見下ろしているのは、長い銀髪に青紫の瞳を持った美しい青年だった。白い肌と銀色の甲冑が夕日を受け、血なまぐさい空気の中に清冽な雰囲気をかもし出している。泥の中に咲く蓮の花のように。誰もが汚したくないと切望する真っ白な旗のように。
 手にした弓を鞍の上に戻し、矢を受けて倒れた歩兵たちをそっけなく一瞥して、青年はくだらないことをさせるな、とばかりに形の良い眉をひそめた。そのまま膝をついた男を冷たく見下ろし、ぞんざいな動作で細い顎をしゃくってみせる。
 沈みゆく太陽の向こう側へ。
「言ったろう。貴様は私の楯だと」
 銀色の髪が風に流れた。
「立ち止まるなど許さぬ。死んでもついて来い」
 それはどこまでも傲慢に響く、耳に心地よい音楽のような声音だった。
 男は声を出さずにひっそりと笑い、握り締めていた敵の剣を大地に放った。左手に握ったままだった長剣を右手に持ちかえ、折れてしまった刃を掲げるように腕を持ち上げる。膝をついた体勢のまま、男は馬上の主君へ完璧な動作で礼をした。
「御意、わが君」
 



『なにがあってもお前について行く。それが俺の、楯の誇りだ』






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