いつものように戸を開け、中にいるはずの祖父に行ってきます、と声をかけたところで。
 壁にもたれるようにしてうずくまった人影に気づき、椎名琉璃(しいなるり)は黒目がちの目を見張って絶句した。




 

わがままな神さま





「……あ」
 琉璃の手から力が抜け、今時めずらしい革鞄が飛び石の上に落ちた。ドサ、という音に我に返り、転がってしまった鞄を足元に引き寄せると、琉璃は慌ててその『人』の傍にしゃがみこむ。
「あああ、あのっ、大丈夫ですか!? 気分でも……」
 悪いんですか、と尋ねかけ、琉璃はその人の服がやけに黒ずんでいることに気がついた。最初はそういう柄の服かと思ったのだが、風が吹いた拍子にツン、とする鉄の匂いが鼻をつき、琉璃はますます大きく両目を見開く。
「血っ……」
 琉璃の狼狽は頂点に達した。スカートのプリーツが乱れるのにも構わず、飛び石の上に膝をついて相手の肩を揺する。意識の有無だけでも確かめなければ、と思ったからだ。
「だ、大丈夫ですか!? 駄目です死んじゃ……私、第一発見者になって警察に事情聴取されるのはやです! しっかり……!!」
 かなりずれたことを真剣に叫びつつ、琉璃は伏せられた相手の顔を覗き込んだ。
 琉璃はまったく気にしていなかったが、その人物の格好は「コスプレか」と疑うほど奇妙なものだった。前で合わせる形の羽織、くるぶしで括った黒の袴、白い足袋と草履だけでも時代錯誤だというのに、左の肩には黒い羽を集めた飾りをつけ、首に細かい石を通した紐を下げているのだ。それは単なる装飾品ではなく、葬式の際などに用いる『数珠』のように見える。ルビーよりもやや色味の濃い石が連なり、わずかな動きに合わせて涼しげな音を立てていた。
「……っ」
 揺さぶられる振動が傷にさわったのか、その人物は小さく声を漏らして眉を寄せた。途端に切り散らされた黒髪が揺れ、その合間から左耳だけにつけられた飾りがのぞく。細い紐に小さな玉の通されたそれは、数珠と同じく綺麗な赤い石で作られ、周囲の黒髪い映えてどこか妖しく煌いていた。
 思わず不思議な輝きに見惚れていると、その人物は伏せていた顔を持ち上げ、すぐ傍にある琉璃の顔をまっすぐに見つめた。
 あらわになった顔は青年のものだった。それも絶世の美青年、と言っても誰一人として反発しないだろう。右側の一房だけやや長く伸ばし、残りは首筋に沿って短くした黒髪といい、切れ長の黒い瞳といい、不健康に見えない程度に白い肌といい、モデルや芸能人のレベルを軽く超越した『美しさ』を誇っていた。気だるげに眉を寄せ、壁に背を預けながら髪をかき上げる様など、気を強く持っていなければ魅入られてしまうだけの色香を放っている。
 それは『人』に持ちうる美貌ではなかった。もっと強く、もっと禍々しく、もっと力にあふれた魔性の美だ。古来から伝えられる妖怪のように。あるいは魅惑の微笑で人を陥れる悪魔のように。
「……っよかった、目が覚めたんですかっ?」
 だが、友人のすべてに「抜けてる」、「天然」、「比類なきぼけ」などと表現され、その神経の太さを讃えられる琉璃はぱっと顔を輝かせた。
「ちょっと待ってて下さいね、今救急車を呼んできますから!」
 意識が戻ったとはいえ、青年のまとう羽織はべっとりと赤黒く染まっている。ちゃんと病院で手当てしてもらわなきゃ、と思い立ち、琉璃は救急車を呼ぶべく駆け出そうとした。
「―――――おい、娘」
 その瞬間、後ろから強い力で手首を引っ張られ、琉璃は走り出そうとした勢いのまま仰け反った。痛っ、と悲鳴を上げる琉璃を無視し、形の良い眉を思い切り寄せると、青年はわずかにかすれた声で低く呟く。
「ふざけるな」
「は?」
「だからふざけるなと言ってる。……この俺に、たかが人間ごときの診療所へ足を運べというのか?」
「は? ……えぇと?」
「冗談じゃない、無礼者が」
「……」
 もはや声もなく固まるしかない琉璃に、絶世の美青年は倣岸な仕草で顎をしゃくった。
「なにを呆けてる。お前、おれが『見える』んだろう?」
「――――え?」
「ここまで『本体』に近くなってるのに、お前にはおれが『見える』んだろうと聞いたんだ。……見えてるんだったら話は早い。とっととおれを手当てしろ」
 それはどこまでも傲慢に響く言葉だった。普通なら反発しか覚えないだろうが、圧倒的な美声が空気を震わせた途端、琉璃は頭で何かを考える前にコクンと頷く。
 まるで何かに操られたように。




 琉璃の家はいわゆる『神社』だった。
 そこまで大きなものではないが、かなり長い石段をのぼり、朱塗りの鳥居をくぐった先にあるため、周囲には彼女の住まい以外の人家がほとんどない。今回はそれが幸いしたと言えるだろう。血まみれの青年と女子高校生が会話している、という異様な光景を目撃された場合、その場で警察に電話されても文句は言えないからだ。
 傲岸不遜な美青年に肩を貸し、よろけながら玄関近くの居間に戻ってくると、琉璃は救急箱を片手に手当てを始めた。といっても大したことが出来るわけではない。コットンに消毒液を染みこませ、傷口の周囲を綺麗にぬぐい、ガーゼを押しつけて包帯を巻く程度だ。
 二の腕の傷は「縫った方がいいんじゃ」と思わせる深いものだったが、片方の袖から腕を抜き、上半身を惜しげもなくさらした青年は平然と呟いた。
「悪くない」
「……そうですか?」
「ああ。ご苦労だったな、娘」
「あ、いえ」
 畳の上にちょこんと正座し、消毒液やコットンを救急箱の中にしまいつつ、琉璃は大きな瞳を困惑げに瞬かせた。
「あの」
「なんだ?」
「すみません。私、そろそろ学校に行かないと遅刻しちゃうんですけど……」
「あ?」
 途端に青年の瞳が鋭さを増し、琉璃は「ごごごごめんなさいっ」と無意味に謝りながら後ずさった。青年はそれを見やって鼻を鳴らす。
「ふざけたことを言うな。学校? たかが寺子屋に毛が生えた程度のものとおれ、どちらを優先すべきかもわからないのか? おれがそんなものに劣るとでも?」
「いえ、そんなことないです!」
「だったら問題はないな? このままここでおれの話を聞いて行くな?」
「はいっ!!」
 思わず大きな声を上げてしまい、琉璃は慌てたように両手で口を押さえた。奥の部屋では高齢の祖父が眠っている。おっとりした気性の持ち主だが、孫娘が謎の男を連れ込んだ、などと知ったらそのまま安らかに永眠しかねない。全身を耳にして音を探り、祖父が起き上がって来ないのを確かめると、琉璃は両手を下ろして安堵の息を吐いた。
「……ふぅん?」
 青年は黙ってその様子を見ていたが、ややあって唇の端を持ち上げると、壁の向こうを透かし見るようにして目を細めた。
「なるほどな。両親はおらず、祖父と二人暮しをしているわけか」
「……えっ」
 琉璃は弾かれたように顔を上げた。そんなことを教えただろうか、と眼差しで問いかけてくる少女に、青年はどこまでも偉そうな態度で胸を張ってみせる。
「わからないとでも思ったか? 人間の分際で『神』の目をごまかせるわけあるまい」
「………………はい?」
「なんだ? お前の耳は飾りか? 仮にも神を祀るやしろの娘だろうに、まさか『神』の存在が信じられないとでも言うつもりか?」
「……えっと」
「飲み込みの悪いヤツだな」
 面倒くさそうに髪をかき上げ、青年は形の良い唇を笑みの形に吊り上げてみせた。
「おれは『神』だ、と言ってるんだ。お前ら人間が平伏し、祀るべき貴い存在だ。理解できたか、人間の娘?」
 とんでもないどころか、笑い話にしかならない発言だった。普通の人間なら笑い飛ばすか、薄気味悪そうに距離を取るか、ふざけるのも大概にしろと怒鳴りつけるだろう。自分を『神』だと言う人間など、よくて新興宗教の教祖だと思われるのがオチだからだ。
 だが、琉璃はあらゆる意味で常人とはかけ離れていた。
「すっ…………すみません!」 
 弾かれたように居住まいを正し、青年に向かって勢いよく頭を下げたのである。
「神さまって……あの、神さまですよね!? お稲荷さまとか天照大御神とかイザナギとかイザナミとかイエス・キリストとか!! うわぁすみません、そうとは知らずにご無礼を致しました!!」
「――――――ここで『嘘よ』だの『からかわないで』だの言われても鬱陶しくてかなわんが、こうもあっさり納得されると馬鹿にされたような気になるな。しかも妙なのがひとつ混じったぞ。………というかおい、娘」
「はいっ!?」
「おれはワケあって他の神どもから追われている。この傷もちょっとした戦いの中でつけられたものだ。まあ、相手にはそれ以上の深手を負わせてやったが」
「はい」
 真剣な表情で聞き入っている琉璃に、青年はさも当然、と言わんばかりの口調で言葉を続けた。
「ここにはなかなか好(い)い空気が流れている。お前のからはずいぶんと濃く『古き血』の気配を感じるしな。恐らく家系的なものだろうが」
「え……」
「だから傷が完全に癒えるまで、おれはここで身を休めることに決めた」
「…………」
「どうした? 光栄すぎて言葉もないか」
 意味のわからない言葉の羅列に、琉璃の頭はオーバーヒート寸前だった。瑠璃はうんともすんとも言っていないが、青年の中ではすでに『決定事項』らしく、腰を落ち着けたまま片方の袖に腕を通している。そのまま頬に飛んでいた血をぬぐい、惚れ惚れするような動作で立ち上がると、青年は琉璃を置き去りにして縁側へと歩み寄った。
 琉璃も慌てて後に続く。
「あの、神さま……!」
「それから」
 琉璃の言葉をぴしゃりとさえぎり、青年はぞっとするほど艶やかな笑みを浮かべてみせた。
「おれは単なる神じゃない。その呼び方はやめてもらおうか」
「は……」
「おれは飯縄権現(いづなごんげん)。人によって不動明王や大日如来の化身とも言われる、神狐(しんこ)を従えし天狗の神だ」
 風がやんわりと吹き込み、切り散らされた黒髪と羽飾りをそよがせていった。魅入られたように動きをとめ、ほぅっと感嘆の息を漏らした琉璃に、天狗の化身は喉の奥で低く笑う。
「お前の名は? 娘」
「あ、はい、名前ですね! 名前は……」
 瑠璃の唇がはっきりと言葉を綴った。
「琉璃。椎名、琉璃です」
「琉璃か。では、琉璃」
 琉璃の見間違いでなければ、青年の浮かべた笑みは実に楽しげな、おもちゃを見つけた幼子のそれだった。
「おれの呼び名は刹(せつ)。これから世話をさせてやる。感謝しろよ、琉璃」
 世話になるぞ、ではなく、世話をさせてやる、と断言した神さまに、瑠璃は操られるようにしてひとつ頷いた。自分でもわからない『歓喜』の存在を感じながら。


 
 そうして、少女はわがままで美しい神さまと出会った。









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