県立篠浦高校1年2組





 県内でも有名な進学校として、またはスポーツの盛んな名門校として、関東はおろか全国に名をとどろかせる篠浦(しのうら)高校には、『篠浦史上最高の台風の目』と呼ばれる宇宙人が在籍している。
 宇宙人というのは比喩表現ではない。やつが地球人として認められるなら世界の差別問題は根絶されるはず、と信じている俺にとって、そいつは他の惑星からなにかの事故でやってきた宇宙人に他ならなかった。たぶん、趣味の宇宙遊泳中に光速を超えようとして迷子になり、地球の重力につかまって日本の関東地方に落下してきたのだろう。やつとのつきあいはすでに13年に及ぶが、俺は小学校に上がったあたりから質量保存の法則より確かにそれを信じている。
 とりとめのないことをつらつらと考えつつ、俺はすでに日課のひとつとなっている深い溜息を吐いた。
 県立篠浦高校1年2組の、朝の光が薄く差し込んでくる教室では、早めの登校を心がけるお決まりのメンバーが雑談に花を咲かせていた。かくいう俺もそのひとりだが、どちらかというと静かに時間をつぶす方が好みなので、時折話しかけてくるクラスメートに相槌を打ちながら思考を明後日の方向に飛ばしている。無視しているわけじゃないんだから別に構わないだろう。一日のうちほとんど唯一とも言える静かな時間を、アドレナリンとドーパミンとヘモグロビンならどれが好みかという、どんな過程を経てそこにたどり着いたのか想像もできない議論に費やしたくはなかった。というか、その中では明らかにヘモグロビンだけが浮いている。誰かつっこめよ。
 意味もなく右手で回していたシャーペンを止め、俺はちらりと壁にかかっている時計に視線を向けた。かなり偏差値の高い進学校だけあって、レベルの低い学校のように遅刻者が続出したりはしないが、だからといって始業十分前にすべての生徒がそろったりするわけでもない。入学式から二ヶ月あまりが過ぎ、新しい通学路や時間配分に慣れた生徒たちが、始業の五分から一分前あたりを狙って一気にやって来るのが常だった。
「……おーっす」
「はよ」
「お、山崎、今日早ぇじゃーん」
 そろそろチャイムの五分前に差しかかったからか、今まで閑散としていた教室にばらばらと生徒が入り始めた。こうなってくると高校の教室は実に騒がしい。俺は再び小さな溜息を吐き、いじっていた製図用のシャーペンをペンケースの中に放り込んだ。
「よっす、蓮見(はすみ)。はよーさん」
「おー」
 隣の席にどさりと鞄を置いた杉野(すぎの)が、窓際の席に座っている俺にあいさつを寄こした。蓮見、というのは俺の苗字だ。フルネームは蓮見慎吾(はすみしんご)。別に気に入っているわけではないが、まあそれなりに悪くはない名前だと思う。
 すさまじくテンションの低い俺の返事に、杉野はにやりと愉快そうな笑みを浮かべてみせた。
「そういやさっき、自転車置き場に向かってる秋葉(あきば)を見たぜ」
「……」
「そろそろくんじゃね? 今日もがんばれよ、飼育係」
 なんて不吉なことを言いやがるんだ。いや、あいつが篠浦高校1年2組の生徒であり、自宅からチャリで通学している以上、自転車置き場に向かってからこの教室に来るのは当然のことなんだが。
「……んじゃそろそろスタンバっとくか」
 はぁっと大きな息を吐き出し、俺はドアに視線を向けながら腹に力を入れた。別にフル武装の特殊部隊が突入してくるわけではないが、俺の気分としては若干それに近いものがある。なんといっても相手は地球外生命体だ。遅刻しそうだからという理由だけで、自転車に乗ったまま廊下を爆走してくることくらい平気でやりかねない。
「……つーか、よく考えたら普通にありえねぇ。なんで俺が毎朝毎朝あいつの面倒を」
 みなくちゃならねぇんだくそ、と俺が地を這うような声で呟いた、まさにその瞬間のことだった。
「慎吾どいて――――っ!!」
 すさまじい大音声の叫びと同時に、地面を蹴る踏み切りの音が聞こえ、換気のために開けっ放しになっていた窓から『人間』が飛び込んできたのは。
 その人間は華麗なフォームで窓枠を越え、空中で丸まっていた体を伸ばし、整然と並べられている机にむかって顔面から突っ込んだ。ドガシャン、という派手な音にかぶさるように、始業を告げるのんびりとしたチャイムがスピーカーから流れ出す。わぁ何だっ、というもっともな声が上がる中、机を蹴散らして床に這っていた人物が思いきり呻き、両手で顔を押さえながら勢いよく上半身を起こした。
「いっ…………てぇぇぇっ!!」
 どうやら相当痛かったらしい。びっくりするくらい当たり前だ。
「うわ痛ぇ、まじ痛っ……あー鼻打った。くそ、着地地点に机があったんだよなぁ、普通にモウテンだった……!」
「……おい、こら」
「っていうかあれ邪魔だよなー、教室の前のでっかい花壇。あれさえなきゃ普通にまたいで入ってこられんのに、くっそー痛かった!」
 俺の怨念のこもった呟きをすっぱりと無視し、やつは高くも低くもない鼻をさすりながらひょいと立ち上がった。突っ込んだ時に腰も打ったのか、うおっ痣になったかも、と悲痛な顔で呟き、ぽかんとした表情で固まっているクラスメートたちに向きなおる。
 そしてそのまま、やつはただでさえガキっぽい面に満面の笑みを浮かべて胸を張ってみせた。
「でもおれ、セーフだったよな! あ、つーかおはよう、言い忘れてたっ!!」
 非の打ち所がないほどさわやかなあいさつだった。俺は流れるように一歩踏み出し、予備動作ゼロでやつの頭を殴りつけた。
「いてっ!! なんだよ、なにすんだよ!!」
「うるせぇなにすんだよはこっちの台詞だとり頭!! 窓の用途は採光と通風なんだよ、てめぇは光と風か!? 普通に昇降口から入って来い、この宇宙人!!」
「しょーがねぇだろ、昇降口回ってたら遅刻しそうだったんだから! っていうか最高の痛風ってなんだよ!! おれは痛風じゃねぇぞ、まだ若いんだしっ!!」
 誰がいつ尿酸塩の沈着による発作性激痛の話をした。おまえは神か。いや、馬鹿か。
「あほ言ってんじゃねぇ、てめぇが痛風だろうがなんだろうが俺の知ったこっちゃねぇんだよ! いいから机を片せ!! すぐにヤマセン来るぞ!?」
「げっ、やべっ!」
 担任の山口先生ことヤマセンは、その熊のような体格と猪のような顔で恐れられている生活主任だった。出欠席に厳しい篠浦では、本鈴が鳴り終わると同時に正門と裏門が閉められ、それ以降はチェックを受けなければ校内に入れなくなるのだが、こいつは入学式の次の日に怒涛の勢いで寝坊し、自転車を踏み台にして高さ2メートル半の塀を乗り越えるという暴挙に出たことがある。そこから身軽に飛び降りた際、うっかり遅刻者のチェックをしていたヤマセンの脳天に踵落としを決め、それ以来2、3年の問題児たちを押しのけてブラックリストの頂点に君臨しているらしい。この惨状を見られたら普通に八つ裂きにされるだろう。
「……ってかおまえ、すっげー!! あの花壇の手前で踏み切って飛び込んできたんだろ!? 窓かたっぽしか開いてなかったのに!!」
「やべぇおまえ最高!! さすが秋葉、昼になんかおごっちゃる!!」
「え、うそ、マジで!? おれ焼きそばパン食いてーんだけどっ!」
 すでにクラスメートのほとんどが衝撃から立ちなおり、やつの肩を叩いたり背中をどついたりしながら机を起こしてやっていた。俺は苛立ちまぎれに焼きそばパンっ、と騒いでいる背中を蹴りつけ、一応無事だった自分の席に座りなおす。
 やつの名前は秋葉彼方(あきばかなた)。身長こそ160センチちょっとしかないが、突拍子もない発想といい、次元を3つほど越えたあたりをスラローム走行している思考といい、脊髄反射で生きているとしか思えない行動といい、すべてが常人の考えうる範疇から逸脱したスケールのでかすぎる人間だった。でかすぎてただの馬鹿なのだと断言できるほどだ。ちなみに、成績は地球の中心を突き抜けてブラジルに到達する勢いだが、スポーツ推薦で入学した授業料免除の特待生なので、たとえ俺が今までお目にかかったことのないような点数を取ったとしても退学になることはない。
 これで将来を嘱望される陸上界屈指のスプリンターなのだから、世界の仕組みというやつは驚くほど宇宙人に寛大だ。
 くそ朝っぱら怒鳴らせやがって、と低く毒づき、俺は机の中から一時間目の教科書を引っ張り出した。確か一時間目はヤマセンの数学だったはずだ。はっきり言っておもしろくも何ともない教科だが、その準備のおかげでまだヤマセンが到着していないのだと思うと、今日ばかりは一時間目が数学だったことに心の底から感謝したくなる。
「げぇー、一時間目ヤマセン? まじで?」
 がたがた、と音を立てて俺の前の席についた彼方が、机の上に投げ出された教科書を見返って盛大に顔をしかめた。その語尾にぴったり重なるように、前方のドアが開いてヤマセンの巨体が教室に入場してくる。何度見ても『入場』という言葉がふさわしい、どうして教職についたのか全力で問いつめたくなる立派な体躯だった。たぶん前世が熊か猪のどちらかだったんだろう。
 うるさいぞおまえら、といういつもどおりの注意を合図に、週番がやる気の欠落した声で号令をかけた。俺はやれやれと溜息を吐く。
 まだ安心することはできないが、彼方を保護観察中の非行少年かなにかと勘違いし、五秒に一回のペースでその動向をガン見しているヤマセンがいる以上、この馬鹿もそこまで突き抜けた行動を取ることはできないだろう。次の休み時間までは大人しくしていてくれるかもしれない。
 俺はまるで敬虔な聖職者のように平和を祈ったが、残念ながら秋葉彼方は慈悲深い神でも信仰心の厚いクリスチャンでもなかった。天然という無敵の装甲で覆われた核弾頭だった。
 次の瞬間、なんの前触れもなく小柄な体が強ばり、見慣れてしまった馬鹿面がありえない勢いで俺を振り返った。ちょっと待て、なぜそこで俺を振り返る。頼むから自分の世界を確立しろ。そしてそこから出てくるな。
 俺の切なる願いも空しく、彼方は印象的な黒い目を見開き、悲壮な表情で慎吾、と人の名前を呼んだ。
「……んだよ」
「あのな、慎吾」
「だからなんだよ。ヤマセンが睨んでんぞ、早くしろ」
「うん、あのな。おれ、どれかっていうとたまご焼きとウインナーがいい」
 知らねぇよ。っていうか俺にわかる言語で話せよ。
「…………待て。なんの話だ?」
 俺が驚異的な忍耐力を発揮して問いかけると、彼方はなんでそんなジメイのことを聞くんだろう、と言わんばかりに首をかしげた。そうか、この胸の奥からわきあがる純粋な気持ちが殺意っていうのか。
「うん。だから、おれ、お昼ごはんの弁当忘れちゃっただろ?」
「なるほど。たった今、うっかり昼の弁当を忘れちまったことい気づいたんだな?」
「そうそう。で、慎吾にわけてもらうならたまご焼きとウインナーがいいな、って思ったんだ。だからたまご焼きとウインナー、くれ」
「先生すみません、秋葉くんがやめろと言ってるのに話しかけてきてホームルームの連絡事項が聞き取れません」
 俺が手を挙げて権力に馬鹿を売り渡したとたん、うぁきばぁっ、と微妙に不明瞭な怒声が響きわたり、それと同時に飛来したチョークが彼方の額に命中した。珍妙な声と共に彼方がのけぞり、一拍置いて教室中に好意的な笑いが巻き起こる。この程度のやりとりはいつものことなので、誰も真剣に彼方を心配したりはしない。どうやらヤマセンも例外ではないらしく、彼方への懲罰は唸りを上げた白いチョークと、今度注意されたら教室の外におん出すぞ、という日常的な台詞のみだった。
 というか、ヤマセンの場合はこの程度でキレていたら血管がもたないのだろう。その気持ちは痛いほどよくわかる。
「……うぅ、なんだよ、慎吾の裏切りもん。いいじゃんか、たまご焼きとウインナーくらいっ」
「よくねぇよ。つーかもらうこと前提で話を進めてんじゃねぇよ」
 少しは周囲をはばかる気になったのか、彼方がひそひそと小声で文句を言ってくる。子どもっぽいラインを描く丸い額に、チョークのヒットしたあとがくっきりと残されていた。小指の爪の先ほどもかわいそうだとは思わないが、同年代の男が額にチョークの粉をつけ、恨めしそうにたまご焼きだのウインナーだのと口にしている様子は微妙にウザい。
「おい、デコ。粉ついてんぞ」
「ん? うおっ」
 ほんとだ、と袖口でぬぐい始めた馬鹿に、俺は本日だけで何度目か数えたくもない溜息を吐いた。
「だいたいおまえ、昼に焼きそばパンおごってもらうんだろうが。なんで俺の昼飯までぶん取ろうとしてんだよ、ありえねぇだろ」
「うん? なんでって、決まってるだろ?」
「あ?」
「だって慎吾、おれにくれるじゃん」
 ぜったい、と自信に満ちあふれた口調で呟き、彼方はくるりとした目を光らせて明るく笑った。
 一体その自信はどこからくるんだとか、根拠もないのにえらそうにしてんじゃねぇとか、そもそも昼飯くらい忘れずに持ってきやがれとか、言いたいことはそれこそ山のようにあったのだが、俺はとりあえず足を伸ばして彼方のそれを蹴り飛ばした。いてっ、と懲りずに騒ぐ目の前のチビを、心の底から疑いなく世界一の馬鹿だと思う。こんな馬鹿と腐れ縁の関係にある自分を、心の底から疑いなく世界一の苦労人だと思う。
 だから、これは彼方を静かにさせるための緊急措置なのだ。
「つーかおまえ、もう黙れ。んであっち向け」
「あ、ひで! なんだよ!」
「うるせぇまたチョークが飛んでくんぞ。おら、手ぇ出せよ」
「ん?」
「いいからこれでも舐めてろ。で、大人しくしてろ。授業を受けろ。話しかけんな。きょろきょろすんな。俺まで巻き添えにしやがったら簀巻きにして海に流すかんな」
 そう言って彼方の手に握らせたのは、ポケットの中に忍ばせてあったリンゴ味の飴だった。なぜそんなものを持っているかというと、不本意ながらこの万年欠食児童の飼育係として、いついかなる時に捕獲用の餌が必要になるかわからないからだ。
 あんたって実はいい子よね、という母の台詞を思い出し、俺がぎりぎりと奥歯を噛み締めたところで、彼方がぎょっとするほど嬉しそうな笑顔を作った。やべぇ、なぜか妙に腹が立つ。
「……にしし。さーんきゅ、慎吾っ!」
「あ、馬鹿、でかい声出すと……っ」
「秋葉ぁっ!!」
 熊猪、じゃなかったヤマセンの怒声が爆発し、今度は赤いチョークが彼方の額めがけて投擲された。赤は攻撃性を表すというが、ならばこれはヤマセンなりの怒りの表現なのだろう。気持ちはわかる。それはもう痛いほどに。
「……危ねぇっ!」
「げっ、てめ避けんな、俺に当たるっ!!」
「いいぞぉっ、秋葉!」
「すっげー、マトリックス!!」
 思いきりのけぞってチョークの一撃を避けた彼方に、周囲の男子から無責任な賞賛が飛んだ。いつもどおりといえばいつもどおりの展開だったが、さすがにヤマセンのおまえらまとめて廊下行くかっ、という叫びを受けて沈静化する。そんな中、彼方だけが妙に楽しげな表情で俺を見返り、右手でずいっとブイサインを作りやがった。
 すげーだろ、と言わんばかりに。
「……あー、頼むからおまえ、静かにしてろ。すげーから。よーくわかったから」
「へっへー、だろー?」
 その言葉があまりにも楽しそうで、浮かんだ笑顔があまりにも幸せそうで、俺はいちいちツッコミを入れるのも馬鹿ばかしくなってしまった。限りなくおざなりな態度で頷き、わかったから前向いてろ、と親指で教卓の方を指し示す。それで満足したのか、彼方は口の中に飴を放り込み、わりと素直な態度で怒れるヤマセンに向きなおった。
 ここで甘い顔をするからつけあがるのかもしれないが、だからと言って状況を変えられるほど器用な性格はしていない。激しい疲労のこもった溜息を吐き、俺はホームルームの内容を聞くべく姿勢を正した。
 入学式から二ヶ月あまりがすぎた、梅雨の近づきつつある日の朝。県立篠浦高校1年2組は、今日も今日とてそれなりに平和だった。









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