飛行少年





 クラウチングスタートの姿勢をとった彼方(かなた)が、用意の合図と共に落としていた腰を上げ、前方に引かれたゴールラインをまっすぐに見据えた。
 あいつは人知を超えた未曾有の馬鹿だが、ぐっと持ち上げられた鋭い視線に、普段の能天気な雰囲気はまったく残っていない。こうして別人としか思えない顔を見せるから、走っている時の秋葉彼方は格好いいという、誤解なのか誤解じゃないのか判然としない認識が広まるんだろう。というかあいつ、あのギャップで攻める技はどこで身につけたんだ。これだから天然はタチが悪ぃんだ。
 ぶつぶつと毒づく俺をよそに、彼方の小柄な体が地面を蹴りつけ、100メートル先のゴールラインに向かって猛然と走り出した。スタートの直後にぐんと加速し、馬鹿馬鹿しいほどのスピードでグラウンドを駆け抜けていく。
 どこかで聞きかじった知識だが、世界最高峰と目されるサッカー選手に、走り出してから三歩目あたりで最高速度に達する化け物がいるらしい。いくらなんでも大袈裟だと思っていたが、目の前を走っていく黒髪のチビを見ていると、どんな話でも妙にリアルに思えてくるから不思議だった。大袈裟と非常識を地でいく宇宙人がいる以上、化け物並みのトップアスリートが存在するのはむしろ当然の話なんだろう。どうでもいいが、慣れって怖ぇ。
 頬杖をついていた手を外し、俺は伸び上がるようにして窓の外に視線をやった。
 風を切って走る彼方の姿は、天才的なセンスを持つスプリンターというより、草原を駆けているネコ科の肉食獣に近かった。たぶん、服越しに見える筋肉の動きがしなやかで、走っているフォームがいっそ嫌味なほどに綺麗だからだろう。そういえば、やつの将来の夢はチーターと競争して勝つことだった気がする。夢を持つのは勝手だが、失敗がそのまま死を意味するようなチャレンジを、俺は『将来の夢』などというキラキラした言葉で表現したくはない。
 じっと見つめる俺の視線の先で、彼方がスピードをゆるめないままゴールラインを駆け抜けていった。教室からグラウンドまではそれなりの距離があるが、ゴールした彼方が膝の上に両手をつき、実に気持ちよさそうな表情で息を吐いているのが見て取れる。
 そこに同じクラスの葛西恭介(かさいきょうすけ)が駆け寄り、ひょろりと長い腕を使って彼方にラリアットを決めた。首元にばっちり決まったらしく、食らった彼方が素っ頓狂な声を上げて後ろにのけぞる。
 ここからじゃなにを言っているのか聞き取れないが、葛西がその耳元で楽しそうに叫び、復活した彼方がそれに同調しておぉっ、と腕を突き上げるのが見えた。はっきり言って普段1年2組で見せられている光景そのままだ。
 溜息をつきながら視線を引っぺがし、俺は書きかけのまま止まっている週番日記に目を落とした。
 言うまでもないくらい当たり前のことだが、俺はなにもあの馬鹿の部活風景を見るために居残っているわけじゃない。週番という非常に面倒くさい制度の、最後に果たさなければならない役割のひとつとして、一日の出来事をつづった週番日誌を書くために残っているだけだった。
 ちなみに、もう一人の週番であるクラスメートの濱野佑子(はまのゆうこ)は、ごめぇん今日はどうしても早く帰らなくちゃならないのぉ、としなを作ってさっさと逃げやがった。なにがごめぇんだ、日本史の教科書に載ってる武田信玄みたいな顔しやがって。次に回ってきた時は俺が押しつけて先に帰ってやる。
 そんな器の小さい決意を固めつつ、俺は一時間目から六時間目までの内容と、欠席者や遅刻者の人数と、全体のまとめという名の感想を適当に書き込んでいく。授業内容や人数はすらすら書けるが、問題は最後に埋めなければならない全体のまとめだ。
 こんなもん、真面目に書いてるのは2組が誇る究極の優等生くらいで、あとは今日も一日楽しかったです、でも数学が難しくてよくわかりませんでした、くらいの内容が書き込んであればいい方だった。出席番号一番の某宇宙人にいたっては、コスモ的ななにかを感じさせるでかい文字で一言、味噌バターラーメンとんこつ味、とだけ書き殴ってやがる。
 思い返してみると、なにを書けばいいかわからないという彼方に、わからねぇなら適当に今の気持ちでも書いとけ、とアドバイスしたのは俺なので、ある意味で罪の半分はこちらにあると言えなくもない。だが、それにしたってあいつは自分のリビドーに忠実すぎる。つーか味噌バターラーメンとんこつ味ってなんだ。味噌なのかバターなのかとんこつなのかはっきりしやがれ。
「……あーくそ、こんなこと考えってから進まねぇんだよな」
 がりがりと短い黒髪をかき回し、俺は再び窓の外に視線を投げた。
 暦は梅雨と呼ばれる時期に突入しているが、今日は朝からめずらしいほどすっきり晴れ、ただでさえ高い彼方のテンションを最高値まで上げるのに一役かっていた。雲ひとつない空が少しずつ赤に染まり、篠浦高校の広いグラウンドを夕日の中に沈めている。一刻も早く書き終えないと、帰宅時間が練習上がりの彼方や葛西とぶつかり、いつものごとくやつらの面倒を見ながら帰るはめになるだろう。それだけは全力で遠慮したい。
 よし、とばかりに気合を入れなおし、まとめの欄にしごく適当な言葉を書き始めたところで、静かだった無人の教室にガラリという音が響きわたった。
「……あれ、蓮見(はすみ)?」
 前方のドアから入ってきたのは、わが1年2組が誇る究極の優等生、出席番号2番の麻生和也(あそうかずや)だった。
 この県立篠浦高校1年2組において、出席番号2番というのは計り知れないほど大きな意味を持つ。それはつまり、集会のたびに出席番号一番の彼方を整列させ、移動教室のたびに落ち着きのない彼方を捕獲し、科学の実験のたびに危険人物の彼方を押しとどめるという、そんじょそこらの人間にはこなすことのできない大役に就くことを意味するからだ。
「麻生? なんだよ、まだ残ってたのか?」
「うん、さっきまで代表委員の集まりがあったからさ。蓮見はなに、週番?」
「あー、週番。日誌が面倒くせぇんだよ、これ」
 盛大に顔をしかめた俺を見やり、麻生はあはは、と人が良さそうな笑顔を作った。騒ぐほどのイケメンというわけではないが、優しげで柔らかい顔立ちの麻生が笑うと、周囲の空気そのものが眠気を誘う勢いで和む。目つきが悪いだの笑顔が怖いだのと散々言われている俺にとって、笑うだけで周りを和ませる麻生は微妙な妬みと純粋な感嘆の対象だった。
 俺の席の近くまで寄ってきた麻生は、なにかに気づいたように目を見張り、軽く身を乗り出して窓の外を覗き込んだ。あれ、と穏やかな口調で呟き、俺の方を見ながらグラウンドを指差す。
「秋葉と葛西、まだ練習してるんだ。大変だな、陸上部」
「別に大変じゃねぇだろ。葛西はどうだか知らねぇけど、彼方の馬鹿は走ってないと窒息死するサメみたいなやつなんだし」
「あ、それはわかる。走るために生まれてきたようなやつだよね。秋葉って」
 空いている彼方の席にもたれかかり、麻生はグラウンドを見やったまま軽く目を細めた。
 俺らの声が聞こえたわけじゃないだろうが、だいぶ暗くなってきた夕暮れのグラウンドを、話題の主が生き生きとした表情を浮かべて走り抜けていった。中学生の頃、練習中に100メートル10秒5という恐ろしいタイムを叩き出した宇宙人は、汗びっしょりになりながらまるで飛ぶようにグラウンドを駆けていく。飛ぶようにというより、実際に飛んでいると表現した方が近いのかもしれない。
「……そういえばちょっと前に、秋葉が走るのって空を飛んでるみたいだって言ってたな。こうして見ると、なんかホントに飛んでるみたいに見えない?」
 同じようなことを考えたのか、麻生がちらりと悪戯っぽい笑みを浮かべ、椅子に座ったままの俺を見下ろしてきた。俺は小さく眉を寄せる。
「飛ぶっつーか、あらぬ方向にぶっ飛んでいくって感じだけどな。あいつの場合」
「言えてる。でもさ、秋葉みたいに生きられたら幸せだって感じがしない? あんなに楽しそうに練習するやつはそういないって」
「……や、否定はしねぇけど、落ち着け。洗脳されるな。あいつみたいになったら人生終わりだぞ」
 むしろ新たなるライフの始まりかもしれないが、やつみたいになって生きるくらいなら地球人として死にたい。
「うーん、洗脳は普通に言いすぎな気がするけどなぁ。……あ、こっちに気づいた」
「げっ」
 麻生の言葉を肯定するように、あれぇーっ、というにぎやかすぎる声がグラウンドにこだました。うわありえねぇ、なんでやつに気づかれるまで悠長に会話してたんだ。いや待て、今ならまだ間に合うはずだ。
「おーい、慎吾! 和也っ!!」
「手振ってるよ、蓮見?」
 外の馬鹿に手を振り返してやりつつ、麻生が日誌に向き直った俺にわざとらしく問いかけた。うるせぇ話しかけるな。俺は今すさまじく急いでるんだ。
 そんな俺の内心を足蹴にするように、彼方の腹立たしい大声が鼓膜に突き刺さった。
「二人ともまだ残ってたんだな!! もうちょいで練習終わるから、ちょっとそのまま待っててな――っ!!」
「って言ってるけど?」
「聞こえねぇ」
「こら、かわいそうなこと言わない」
 麻生の柔らかな苦笑にかぶさるように、彼方がよーし最後の一本だっ、と叫んで片腕を振り上げた。そのままくるりと踵を返し、弾むような足取りで暗いグラウンドを歩き始める。
「ほら、秋葉もああ言ってることだし」
「だから聞こえねぇって」
「無駄なこと言ってないで。せっかくだから待っててあげようよ」
「おまえは彼方に甘いんだよ。だからあいつがつけ上がるんだろうが」
 躾に悪ぃっ、と苛立ちまぎれにシャーペンを放り投げ、俺は書き終わった週番日誌をばさりと閉じた。
 ああくそ、ありえねぇ。なんだってここまで人の迷惑を顧みない宇宙人に甘いんだ。誰が甘いって、日誌を引っつかんでとっとと帰っちまえばいいのに、なんだかんだで席を立たずにグラウンドを見ているこの俺がだ。ありえなさすぎて軽く泣けてくる。だから見つかる前に帰りたかったんだ。
「……冗談じゃねぇ。やっぱり次に週番が回ってきた時はあの武田信玄に押しつけてやる。そんで俺はとっとと帰る」
 そんな決意表明をしている時点で、俺の彼方に対する敗北は決定したも同然なのだが、精神の健康を保つためにその辺の思考は全力で放棄する。
 俺がぐるぐると考え込んでいる間に、スタートラインでクラウチングスタートの姿勢になった彼方が、さっきとなにひとつ変わらない表情で前方を睨みつけた。用意の合図で腰を上げ、そのまま時間が止まったようにぴたりと静止する。
 こうしてまっすぐに前を見据え、空を飛ぶように走っていく彼方の姿を見るのが、俺は自分でも意外に思うほど嫌いじゃなかった。認めるには多少の抵抗があるが、あいつの走っている様子があまりにも自然で、見ているこっちが爽快な気分になるからだろう。合図と共にスタートラインを蹴り、一直線に走り出した彼方を見ながら、俺はすっかり暗くなった空に視線を投げかけた。
「……くそ。やってらんねぇ」
 走っていくあの馬鹿を見ていたせいか、ちょっと前に麻生と交わした会話のせいか。いつもよりほんの少しだけ、藍色の空が近くなった気がした。








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