ナイトメア
 第四話 子守唄を、弔いの雨に 3


 


 止む気配もなく降り注ぐ雨に、リーシャ空を仰ぎながら微笑を浮かべた。
 適当に羽織った上着だけでなく、下に着たシャツまでぐっしょりと濡れてしまったが、体の芯から冷えていく感覚は嫌いではなかった。瞼の裏にちらつく過去の情景も、胸の奥でかすかにくすぶる不快感も、消してしまいたくない記憶が鮮明に残っている証だ。胸元の短剣に指で触れて、リーシャは薄く紫がかった銀の瞳を細めた。
「……つーかお前、なに雨に濡れながらニヤニヤしてやがんだ? ついに気が狂ったのか? ……って、最初からお前は狂人か」
「うるさい黙れ。自分が狂人だからって仲間を求めるな、うっとうしい」
「その台詞、そっくりそのまま返してやるよ」
 いつもと変わらない心温まる会話に、レギアは端正な弧を描く眉をきつく寄せた。
「で、あの男の死体はあのままでよかったのか? あの広場にいたヤツら、明らかに『知り合いなら遺体も引き取れよコラ』みてぇな顔してたぜ?」
「冗談だろ、レギア。何でおれがそこまでしなきゃならないんだ? もうあの時の約束は果たしたんだ。おれがこれ以上ウィグドに関わる義理はないな」
「あーそうかよ」
 予想済みの答えだったのか、レギアはやる気の感じられない表情で頷いた。それをちらりと横目で見やり、美貌の青年は一つ肩をすくめてみせる。すでに微笑の名残は残っていなかった。
「だいたい、今回の件で責任を負うべきなのはレイスバーグとかいう変態だ。おれは巻き込まれたかわいそうな被害者だからな」
「巻き込まれた被害者はオレら、だろうが。なに一人で被害者ぶってやがるんだ」
「あ? 元はといえばお前のせいだろうが、ふざけたことほざくな」
「テメェにも十分すぎるほど責任があんだろボケ、つーか死ね」
「お前が死ね。おれの目の前で迅速に爆死しろ」
 会話がずるずると脱線していった結果、この結論に行きついてしまうのもいつものことだ。相棒らしく息のあった動作で視線をそらし、忌々しげに舌打ちの音を響かせると、二人は迷いのない足取りで通りの角を曲がった。
 霧雨のせいで灰色にけむっているが、ラジステルの街並みは静かな空気の中、相変わらず芸術品のようなたたずまいを見せている。水音を立てながら石畳を踏み、二人の討伐者は細い路地へと足を向けた。ひややかな風が音もなく吹き抜ける。
「クソ、この分じゃ宿に帰れるのはいつになるかわかんねぇな。冗談じゃねぇ」
「めずらしく意見が合うな。どう考えても超過労働だ。……なぁ、そこでぬくぬくと丸まってるくそねずみ?」
 底冷えのするリーシャの視線に、真っ白なねずみがレギアの懐から飛び上がった。とたんに降りしきる霧雨を受け、ふんわりとした毛並みが体に張りつく。
「なんだ、ピュイ? なんか文句でもあるのか? ねずみの分際で」
 リーシャの指がピュイの羽根をつまみ上げた。文句がある、というよりは愛想を振りまくような動作で、ピュイが短い手足を懸命にばたつかせる。どうやらリーシャの機嫌を取ろうとしているようだった。
「おい、ピュイ。こんな冷血漢に媚売ってんじゃねぇよ。いつかシザーの代わりに食われるぞ、お前」
「顔だけ見ればお前の方が食いそうだがな」
「あぁ? 実はテメェの方が悪食だろうが。涼しい顔して何でも食うくせによ」
「育ってきた環境のせいだろ。ゲテモノを食っても顔の良さは損なわれないんだ、だったら食えるものは食っておいた方が得だからな」
 それは素晴らしく自信にあふれた言葉だったが、謙虚さのない態度に腹を立てる者はいても、自意識過剰だと感じる者は一人もいないだろう。美醜の感覚が好みによって左右されるとはいえ、リーシャの造作は間違いなく美しく、清々しく、見る者に感動さえ覚えさせるほど整っているのだから。
 ほっそりとした指でピュイを放り出し、紫銀の瞳で相棒を見上げると、リーシャはその美貌を嫌そうにしかめた。
「どうでもいいが、お前と話してるとおれの繊細な神経が疲労を訴えるな。いちいち会話を脱線させるな、はっきり言って果てしなくウザい」
「それはオレが毎回毎回毎回毎回言ってることだろうが。自覚症状すら出てないのか、重症だな」
「末期患者のお前よりマシだろ」
 脱線したままの会話を交わしつつ、二人は細く入り組んだ路地を抜け、やや道幅の広い裏通りに出た。路地裏と比べれば整然としているが、人の気配がまったく感じられないためか、あるいは開いている店が一つもないためか、奇妙なほどに閑散とした印象が強い。さらりと吹きつけてくる霧雨に目を細め、リーシャは首にかけた銀の鎖に、レギアは背に負った大剣の柄に手を這わせた。
「……で、ようやくお出ましってわけか」
「ったく、ラジステルのやつらはどうしてこう面倒くさいんだ? 出てくるならさっさと出て来い。時間の無駄だ」
 冷たすぎる二人の声に反応したのか、人間五人分ほどの距離の先、道のちょうど真ん中あたりがゆらりと揺らいだ。空間を割るというよりは滲むような静かさで、二人の視界に黒い影が現れ始める。光のささない闇色の服に同色の髪、レギアよりもさらにたくましい長躯、膝裏まで覆う戦靴、そして腰に奇妙な形の得物を下げた男が、ひそやかな身のこなしで石畳の上に降り立った。
 レギアが柄を握る手に力をこめる。
「………おいリィ、こいつが例の『男爵』か?」
「十中八九そうだろうな。っていうか、この状況で他の眷族が出てきたらおれはシザーを殺しに行くぞ?」
「今日は妙に気が合うな。同感だ」
「お前と気が合っても嬉しくはないがな」
「まったくだ」
 二人の軽口が聞こえているのかいないのか、男は完璧な無表情を崩さなかった。硬質な唇がわずかに開く。
「ヌシらが」
 それは腹の奥まで響くような、ずしりと重く低い声だった。
「ヌシらがグランデュエルの討伐者か」
「――――わかりきったことをいちいち聞くな。違うと言ったら素直に引くのか?」
 前口上につき合わされるこっちの身にもなれ、と不機嫌に吐き捨てて、リーシャは細い鎖を手の中に落とした。シャラリと音を立てて銀の光が流れる。その横でレギアが靴裏を擦り、音のない動作で前へと移動し始めた。
 静かに臨戦態勢を取った二人を見つめ、漆黒の男はかすかに双眸を細めた。鉄のようだった面に感情が過ぎる。それは怒りでも嫌悪でもなく、相手の殺気に対する確かな喜びだった。
「余計な口上は無粋か。それも構わぬが、一つ聞こうか。竜の刻印を持つ『杯』の守護者」
「なんだ」
「この国より出て行くか否か」
「否だ」
「同じく」
 撃てば響くように、とはこのような答えを言うのだろう。あっさりと言い切った二人に視線を向け、男はゆっくりと唇の端を持ち上げた。高まっていく殺気に反応したのか、ピュイが小さな耳をぴんと立て、慌てたように空へ飛び立っていく。それに一瞥もくれることなく、黒衣の男はほんのわずかに右の手を持ち上げた。
「ならば」
 降り続ける雨がふっと揺れた。
「すべて、わが主君の望みのまま」
 リーシャが背後に飛び退り、レギアが背に負った『シェルダ』を抜き放つ。一拍遅れて金属音が響いた。
「死んでもらおうか」
「…………っ!!」
 虚構の眷族によって強化されたレギアの視力でも、相手がいつ抜剣し、いつ石畳を蹴り、いつ彼の間合いに入り込んできたのか、正確に捉えて映像化することはできなかった。受け止めた一撃の重さに刃が悲鳴を上げ、足元の石畳が音を立てて砕け散る。このまま噛み合っては不利だと判断し、刃を引きながら横へ飛ぶと、レギアは地面に片手をついて勢い良く跳ね起きた。
 リーシャがその横を駆け抜け、すでに細く解けた鎖を振るう。ほぼ同時にレギアが跳躍し、鎖の先に通された短剣とシェルダが男へ迫った。
「――――温い!」
 振り上げた剣がシェルダの切っ先を、左手が銀の短剣を無造作に受け止め、その動きを強制的に中断させた。リーシャの鎖と短剣は巨岩を砕き、レギアの大剣は小さな家屋程度なら真っ二つにする力を持つ。それをほとんど同時に止めてのけ、左手で細い鎖を強くつかむと、男は信じがたい膂力で自分の方へと引き寄せた。鎖と手放す間を与えられず、リーシャの華奢な体が勢いよく宙に浮く。
 男の頭上を飛び越え、煉瓦造りの壁に頭から叩きつけられる寸前、その背に硝子の羽根が広がった。シャリン、という涼やかな音が響き、細い体が強引に体勢を立て直す。男は軽く眉を上げたが、躊躇せずに左手にからめた鎖を手放し、その間に右手に握った剣を横薙ぎに振り抜いた。
 細身で体重の軽いリーシャはともかく、レギアは前衛として鍛え上げられた体躯の持ち主である。その踵が地面を離れ、濡れた道へと横向きに弾き飛ばされた。
「レギアッ!」
「………っ」
 わざと右肩から転がって勢いを殺し、レギアは格闘技の見本のような動きで飛び起きてみせた。シェルダを構えて迎撃体勢を取った瞬間、黒衣の男が間合いをつめてレギアに追いすがり、奇妙な形の剣を斜め上から振り下ろす。レギアは強化された反射速度でそれを受けたが、あまりの重さと衝撃に体ごと持っていかれた。背中から煉瓦の壁に叩きつけられる。
「っ!?」
 だが、息を呑んで目を見張ったのは男の方だった。
 リーシャがたたずんでいる場所とは逆の方向から、銀の鎖が霧雨を裂いて男の首に絡みついたのだ。道路に建てられた街灯に鎖を引っかけ、軌道を捻じ曲げて男の死角に入り込んだのである。漆黒の男は小さく舌打ちし、レギアから飛び離れて首に食い込んでくる鎖をつかむ。右手の剣でそれを両断しようとするが、リーシャはそれより早く両手をひねり、男の大柄な体を宙へ跳ね上げた。
 間髪いれずにレギアが剣を振るう。ギィンという金属音が響き、受け止めた刃ごと黒衣の男が弾き飛ばされた。
 同時に繰り出された切っ先を紙一重で避け、体をずらして壁際から離れると、レギアは薄く切れた頬を片手でぬぐった。低く舌打ちの音を響かせる。
「………マジかよ」
「マジだろう、現実は受け止めろ」
 その横にリーシャが降り立つ。表情はいつも通り冷静なものだったが、紫銀の双眸は強い警戒をこめて輝いていた。
 空中で体勢を変えて壁に着地し、身軽な動作で地面に降り立った男の首には、すでに銀の鎖は絡められていなかった。リーシャが軽く眉を寄せ、うっすらと血の滲んだ首筋に手を当てる。鎖を両断すると同時に短剣をつかみ、男が手首の力だけで投げ返してきたのである。
「クッソ、妙な形の剣だな。間合いが取りづれぇ」
 憎々しげなレギアの声に答えるように、男が右手の剣を構えなおしてみせた。
 ひどく奇妙な形をした剣だった。色は光沢を持った漆黒で、柄の部分が真ん中にあり、かなりの長さを持った刃が両端から伸びている。柄の上と下、その両方に黒光りする刃がついているのだ。それを軽々と片手でつかみ、旋回させるようにして眼前に掲げると、男は小さく口角を吊り上げた。
「良い腕だ。速度も上々、連携も悪くない」
「――――ああ、そうかよ!」
 石畳を踏み割る勢いで飛びのき、レギアは叩き下ろされた刃に空を切らせた。しっかりと余裕を持って避けたはずだが、鋭い風圧だけで肩口の布が悲鳴を上げる。
 リーシャは羽根を広げながら地面を蹴り、手に絡めた鎖を一閃させた。レギアと切り結ぶ男へ、ではなく、そのすぐ頭上に張り出した無人の店舗へ。
 相棒の意をくんだレギアが引くのと同時に、小さく目を見張った男の立ち位置へと建物が崩れ落ちた。その隙に硝子の羽根を羽ばたかせ、リーシャが相棒のすぐ横に着地する。左目をまたぐように描かれた刻印が光を放った。
「退くぞ、レギア!!」
「ああっ!」
 空間が割れる澄んだ音が響き渡り、リーシャとレギアの姿が虚空に飲み込まれた。男が止める暇もない。それはこの空間から退くことだけを優先した、非の打ちどころのない完璧な『転移』だった。






    


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